【05】婚約者
宝華荘の敷地裏手に佇む宿より控え目な日本家屋が近藤家に当たる。
その居間で晩酌を楽しむ
彼の義娘である由貴菜が帰宅したのだ。
博也は一瞬だけ、お
直後にパタパタと靴を脱いで廊下を渡る足音が聞こえる。それが遠ざかると「ふん」と鼻を鳴らして、なみなみとついだ日本酒を一気に呷る。
彼は自分とは血の繋がりがない由貴菜の事を愛してはいなかったが、彼女に対する支配欲は持っていた。
娘の瞳の方が経営者として遥かに有能だったという事実……その事で傷ついた己のちっぽけなプライドを、義娘への支配と干渉で癒そうとしているに過ぎなかった。
彼が、由貴菜の『大学院に進み、日本文学史の研究をしたい』という進路希望について
そんな彼にとって、
彼の父親は元県警のお偉方で、現在は県内の有名企業のトップ経営陣にその名を連ねていた。
更に母の富江の生家は、県下でも有名な
そんな人物から、あるパーティの席で由貴菜と婚約したい旨を告げられたとき、博也は一も二もなく彼の申し出を了承した。義娘の意思を確認すらしなかった。
この鬼庭家と繋がりを持つ事ができれば、宝華荘は未来永劫安泰となる。そして、実の娘に示す事が出来なかった父親としての威厳を取り戻せると、博也は本気で思い込んでいた。
当然ながら、笹野からの婚約の申し出……そして、それを勝手に了承した事について由貴菜は強い難色を示した。
しかし博也は、いずれ義娘は自らの
何故なら笹野優清という人物は、博也の目から見て非の打ち所がない好漢であったからだ。
家柄はもちろん、県内有数の大学を優秀な成績で卒業し、現在は県庁所在地で鬼庭家と縁のある企業で働いており、給料も安定している。
真面目で礼儀正しく、見た目も清潔感のある爽やかな青年であった。
親である博也からしても変わり者で陰気な由貴菜には、もったいない優良物件であった。
そんな優清から義娘と直接話したいと連絡を受けたのが、三月二日の事だった。
突然の事であったがよい機会だと、またもやこれを由貴菜の承諾なしに了承する。
彼の中ではすべてが上手く回っていた。
……彼に直接、会えばきっと義娘も掌を返すに違いない。
博也は、ほくそ笑みながらお猪口をぐい……と、
三月四日。
近藤由貴菜の婚約者である笹野優清は、アウディのハンドルを鼻唄混じりで握り、蛇場見市へと向かった。
この日、彼が宝華荘に来訪する予定時刻は二十時頃であった。しかし、彼は十五時には既に蛇場見に到着していた。
向かった先は宝華荘……ではなない。
もともとこの日、笹野は蛇場見市に用事があり、宝華荘への訪問の方がついでだった。
単に近藤由貴菜が帰郷している事を小耳に挟んだので気紛れに顔を出そうというのである。
もっとも、出迎える側の近藤家にとってはいい迷惑なのであるが……。
それは兎も角、彼は蛇場見の温泉街より少し外れたシャッター街に足を運ぶ。
そのうらぶれたアーケードの一角にある小さな喫茶店『
年季の入った店構えで通りに面した窓硝子は茶色いスモークだった。そのために店内の様子は
入り口脇のショーウインドには食品サンプルが陳列してあったが
休業日なのか扉には『CLOSED』と印された木板の札がさがっている。
停車した車から降りて、その札を確認した笹野は、再び運転席に戻りハンドルを握った。
近くの細い路地から店の裏手へと車を回す。
そして、プラスチックの波板に覆われた玄関の前で再び車を停めた。
まず運転席を降りて、ビニール屋根の車庫を確認する。
古びた軽自動車が一台。錆びついており、長年動かしていないであろう事は一目で解った。
次に笹野は魚眼レンズのついた古めかしい玄関扉の前に立って呼鈴を押す。
何の反応もない。
その扉の上に掲げられた表札には『
右手の郵便受けには、色褪せてボロボロになった封筒や葉書が何通も乱雑に突っ込んであった。
その中のいくつかを手に取る。ほとんどが何らかの支払いに関する催促状や通知であった。
笹野はしばらくそれらの郵便物を、ためつすがめつ眺めたのちに玄関を離れて車へと戻ろうとした。
すると、停めてあった彼のアウディの前方から白いライトバンがやってくる。
ライトバンはアウディの近くまでくると速度を落とした。
ファッ……と、クラクションが鳴り響き、運転席の窓が開く。
その中から顔を出したのは、
前原が笹野に向かって言った。
「久し振り。優清クン」
笹野はニヤリと笑い、軽く右手をあげた。
笹野優清もまた、あの十一年前に起こった金塊強奪事件の犯人の一人であった。
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