【19】何時もの元気


 二〇二〇年二月十三日午後十七時三十分。

「ふう……」

 と、少し強めの暖房で滲んだ汗を、左手の甲でぬぐったのは桜井梨沙であった。

 そこは、いつもの部室棟二階のオカルト研究会部室である。

 そして……。

「お疲れ様」

 と、ねぎらいの言葉を口にしながら数学の教科書をパタリと閉じたのは茅野循である。椅子から腰を浮かせて、珈琲をれ始める。

 この日の桜井は珍しくテスト勉強に精を出していた。

 きたる夜鳥島行きの為に、何としても追試や補習は免れたかったので、ついに重い腰をあげたのだ。

 茅野もその友人のやる気に答えて、解らないところを懇切丁寧こんせつていねいおふざけなしで指導する構えであった。

 もっとも、コロナ禍による臨時休校により、その努力は無駄となるのだが……この時点での彼女たちには予想もできない事であった。

「少し休憩してから、そろそろ帰りましょう」

「そだね。……あ、スマホ」

 そこで桜井はスマホの電源を落としていた事を思い出す。因みに茅野も桜井の気が散らないようにと、同じように電源を落としていた。

 ともあれ、何気なくスマホの電源を入れる桜井。

 そこで、ようやく九尾からのメッセージに気がつく。

「あ、センセからだよ」

「あら。壺が届いたのかしら?」

 茅野もスマホの電源を入れた。

「えーっと、なになに……」

 と、桜井がメッセージの文面に目を通すより速く、九尾から電話が掛かってきた。

「うわっ……」と少し驚く桜井。

 そして、電話ボタンをタップする。受話口を耳に当てると……。


『お前ら、いつもの元気はどうしたっ!』


 九尾の声が耳をつんざき、桜井は顔をしかめる。取り合えずスピーカーフォンにして、スマホをテーブルの上に置いた。

「センセ、どうしたのさ? 急に大きい声を出して」

『大きい声も出るわよ! いつもは心霊絡みだと無駄にやる気出す癖に、スマホの電源を落として何をやっていたの!?』

「いや。勉強だけど」

 桜井が極めて平然とした調子で言うと、九尾は深々と溜め息を吐く。

『勉強だなんて普通の女子高生みたいな事を……いつからあなたたちは、そんな、まっとうな……』

「いや、センセ、落ち着こう」

 桜井は苦笑する。

 そこで、茅野が九尾から送られてきたメッセージの文面を読みあげた。

「“壺、届きました。それと、どうやら壺の術者は、今現在進行形で壺の呪いを受けているようよ。もしかしたら、術者は腕が未熟で解呪の方法を知らないのかも” ……また、この変なゆるキャラのスタンプを使ってる」

『変じゃない! その子、可愛いでしょ!?』

 やはり、例のゆるキャラにドハマリしていたらしい。

「まあ、それは兎も角、これは術者を早く見つけないと死ぬとか、そういう話なのかしら……?」

 その茅野の質問に多少冷静になった様子の九尾が答える。

『いや、別にそういう事ではないわ。前にも言ったけど術者は、こうなったときの為に夢の中で緊急脱出口を設定しているのが普通だから死ぬ事は多分ない。もちろん、この術者は未熟だから、緊急脱出口を用意していなかったっていう可能性もあるけど、その場合はもう手遅れになっていると思うわ。残念ながら』

「じゃあ、急いで何かをする必要はないのね?」

『ええ。どうせ今晩中には、この壺はこっちで何とかするし、そうなれば呪いは解けるわ』

「それなら大丈夫ね。こちらは梨沙さんがしばらくテスト勉強を頑張らないと夜鳥島へ行けなくなるから、この件についての調査は中断しているけど……」

『そっ、それは頑張ってね。梨沙ちゃん……』

「うん。センセこそ、壺の後始末、よろしくー」

 と、桜井が九尾のエールに答えたところで通話を終える。

 それから、二人は珈琲を飲んでくつろいだあと後片付けをして帰路に着いたのだった。




 翌日の十四日。

 この日は取り立てて変わった事はなかった。

 桜井も勉強に集中し、茅野はそのサポートに動いた。実に普通の女子高生らしい一日を送る。

 そして十五日。

 この日も特筆すべき事は特になかった。

 強いて言うなら小松梓から翌日の深夜に帰宅するという連絡があったくらいだった。

 茅野は一連の出来事の経過を報告すると、小松は特に自分に取り憑いているという犬神に関して驚いている様子であった。

 やはり実感が湧かないのだろう。

 桜井と茅野も彼女の帰宅に合わせ、翌日の昼過ぎに二〇一号室を出る事に決めた。

 それから休憩がてら、近藤の部屋へとお茶を飲みにゆく。

 そこで彼女がまだグリーンハウスにきたばかりの頃、稲毛に言い寄られた話を聞かされる。

 桜井と茅野は何とも言えない気分になりながらも、おはぎとお茶をごちそうになった。

 因みにおはぎは近藤の手作りらしい。

 そうして、十六日の朝だった。

 この日は日曜日で、特に早起きする必要はなかったのだが何となく癖で五時くらいに起きてしまう二人。

 そのまま身支度を整え朝食を取る事にした。

 桜井がオートミルとオムレツ、塩昆布サラダを作り終わり、ローテーブルに並べたそのときだった。

 極めて控え目なドアの開閉音が隣室から鳴り響く。

 二人はピクリと反応し、耳をそばだてた。

 隣の住人が帰ってきた……二人はアイコンタクトを交わし合い、渡しそびれていた菓子折を持って急いで部屋をあとにした。

 二〇二号室の呼び鈴を押す。




「はい……誰」

 しばらくして、不機嫌そうな返事と共に扉口に顔を見せたのは、顔中にピアスをぶらさげた厳つい顔の男だった。

 彼が杉橋亮悟らしい。

 まだ外から帰ってきたばかりらしく、パンキッシュなレザーコートを着ていた。

 両手の全ての指に禍々しいデザインの指輪をしている。

 右手首に巻かれた蛍光ピンクのビニールバンドがどこかミスマッチに思えた。

「朝早くすみません。隣の二〇一号室で厄介になっている者です」

 と、茅野が言うと、杉橋は「あー」と視線を上に向けてから、

「小松の親戚とかって子?」

「はい」

 と、頷く茅野。話はどうやら伝わっていたらしい。

 そこで桜井が菓子折を差し出す。

「これを、どうぞ。お近づきの印に……」

 杉橋は引ったくるように菓子折を奪い取る。

 そして、二人の顔を交互に見渡して言った。

「別にいいけど、あんま五月蝿うるさくすんなよ? 俺、耳がいいんだ。まあ少しは我慢してやるけどよ」

 そう言って右耳を人差し指で突っつく。ピアスがじゃらりと揺れた。

「ご安心を。今日の昼過ぎには、帰りますので」

 その茅野の言葉に、杉橋は怪訝けげんそうに首を捻る。

「んじゃあ、わざわざ、こんな丁寧に挨拶にこなくても良かったじゃねえか……」

「いえ。もっと、早くにうかがいたかったのですが……杉橋さんが外出されていたので。因みにご旅行ですか?」

 この質問に、杉橋はどう答えるべきか迷った様子で口ごもる。

 桜井と茅野は、このリアクションの意味をはかりかねて首を傾げた。

 すると、杉橋が急にキレた様子で声を張りあげる。

「何処だっていいだろうがっ!」

 と言って、急に玄関のドアを閉めた。

 二〇二号室の前で取り残される二人

「情緒が不安定な人みたいだね」

 桜井が率直な感想を述べた。

 茅野も苦笑混じりに頷く。

「取り合えず部屋に戻りましょう」

「うん」

 二〇一号室に戻る二人。

 そして座卓に着いて朝食を食べ始める。

 すると、茅野が話を切り出す。

「梨沙さん」

「なーに?」

 オートミルをもぐもぐやりながら桜井が返事をする。

「あの杉橋さんの右手首……」

「ああ、変なバンドをしていたね」

「あそこに文字が書いてあったわ」

「文字? 何て?」

「“GASCHEMBURガスチェンバー”」

「がす……ちぇんばー……?」

 桜井が首を傾げた。

 すると、茅野はスマホを手に取り指を走らせながら言う。

「ガス室の事よ。ただ、これに限っては、そこにさしたる意味はないわ」

 そして、スマホを掲げる。そこに表示された検索結果を目にした桜井の顔にみるみる驚愕きょうがくの色が浮かび出す。

「え……じゃあ、杉橋さんって……」

 茅野は頷く。


「これで、だいたい・・・・解ったわね・・・・・

 

 茅野循の口からこの言葉が出た

時……。

 それは、本当に彼女がだいたいの事を解った時なのだと、桜井はよく知っていた。

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