【17】魔女の家


 ちょうど、桜井と茅野が一〇一号室から引きあげた頃だった。 

 実家暮らしの君田優子が家に帰ると“入鹿さん”から電話があった事を母親から告げられる。

 当然ながら“入鹿さん”とは、入鹿卓志の親族の事である。

 ともあれ、母親が用件をたずねたところ『折り返し電話をする』といって切られたらしい。

 自分が見舞いに訪れた事を看護士辺りから聞いて知り、そのお礼の電話なのだろか。しかし、それならば、そう母親に言伝ことづてすればいい。君田は首を傾げた。

 けっきょく、妙に気になって仕方がなかったので台所の隅に置かれた固定電話から、入鹿の家へとかけた。

 中々繋がらない。

 くすんだ蛍光灯の明かり照らされ、静まり返った台所で受話器を片手に立ち尽くしながら、やはり時を改めるべきか……と、思いかけたところで電話が繋がった。

『はい……』

 酷く陰気な声音が耳をつく。

 入鹿卓志の父、志朗であった。

 正義感が強く厳格げんかくで、小さな頃はよく怒られた覚えがあったが、そのときの迫力は欠片も感じられない。

 ともあれ、君田は話を切り出す。

「あの夜分、遅くすいません……えっと、君田優子です。ご連絡をいただいたと母から聞いたのですが」

『ああ、優子ちゃんかい。ごめんね、急に連絡して。久し振りだね』

「ご無沙汰しております」

 志朗とは卓志が事故にあってから二度ほど顔を会わせたきりだった。

 一人息子を襲った突然の災難に心を傷め、疲れきった彼の姿が脳裏に浮かぶ。

 取り合えず用件をたずねると、何でも君田に見せたい物があるのだという。

「見せたい物……? それはいったい……」

 たっぷりと間を空けてから、志朗の声が受話器から聞こえてきた。

『それが、その……取り合えず、一回、家にきて見て欲しい』

 志朗の言葉の端から感じられた感情は明らかな戸惑いと、困惑であった。

 ますます、意味が解らない。

 聞けば、それは、グリーンハウスの二〇三号室を引き払った際の息子の荷物の中にあったらしい。

 最近、ようやく踏ん切りがついて整理していたところ発見したのだそうだ。

「私に関係のある物なんですか?」

『まあ……うん……関係は、まあ、あるだろうね……あるよ』と歯切れが悪い。

 そこで君田は、ふと思い出す。

 事故に遭う前の入鹿卓志と交わした言葉……。


 ――兎も角、あのグリーンハウスは、ちょっとおかしいからね。僕も色々と調べて、何か解ったら連絡するよ。


 入鹿は、何か重要な秘密を知ってしまったのかもしれない。

 もしかしたら、知ってはいけない事を知ってしまったが為に、入鹿はあんな目に……。

 因みに入鹿をいた犯人は、まだ捕まっていない。

 君田の中で嫌な想像が急速に大きくなり始める。

「それは、私への手紙か何かですか? 伝言のような……」

『……ん、ああ。手紙というか……その、見れば解るよ』

 けっきょく、よく解らない。

 君田は次の日曜日の午前中に入鹿宅へ窺う約束を取りつけた。




 二〇一八年の年末から二〇一九年の年始にかけて、君田優子と矢島直仁の交際は順調に進んでいた。

 それにともない君田がグリーンハウスを訪れる頻度は徐々に増えていった。

 初めは休日の前に彼の部屋を訪れて朝まで過ごし、休日の夜に自宅へと帰るだけだった。

 しかし、次第に平日も仕事終わりに二〇一号室を訪れるようになり、しまいには、そのまま朝を迎えて仕事へ出るようになった。

 矢島は意外な事に料理などの家事が得意で、彼と向き合いながら食べる晩御飯は、君田にとっての癒しとなっていた。

 いっけんすると傍若無人ぼうじゃくぶじんな矢島であったが、そんな彼が自分だけには優しくしてくれる事を君田は心地好く感じていた。

 二月の始めに隣人の杉橋という男と喧嘩したときも、切っ掛けは君田が彼に廊下で絡まれたからだった。

 矢島の元へ向かおうと二〇二号室の前を横切ろうとしたら、突然部屋から出てきた杉橋に「毎晩、五月蝿い」と急に怒鳴りつけられ、腕を捕まれた。

 その声を聞きつけて二〇一号室から出てきた矢島と小競り合いになったのだ。

 杉橋にも言い分はあったようだが、君田からしてみれば騒音云々よりも彼が矢島の事が気に食わずに突っかかっているようにしか思えなかった。

 何よりも矢島が自分を守ろうとしてくれた事が純粋に嬉しかった。

 正直に言えば、彼に直して欲しいところはたくさんある。 

 それでも、この頃の君田の中では、そういった彼の短所より、圧倒的に好きという気持ちの方が勝っていた。

 幸せであると断言できる毎日……しかし、そんな光輝く日常において、一点の曇が君田の心の中にあった。

 それは、ときおりグリーンハウスで感じる、ねばつくような視線と気配であった。

 ふとした日常の瞬間、夜寝ているとき……そして、矢島と愛を確かめあっているとき……。

 外庭に面した掃き出し窓を覆うカーテンの向こうに誰かが立っていて、息を殺して、室内をうかがっているような気がした。

 矢島に話しても、これに関しては妄想だ、勘違いだと真面目に取り合ってくれない。

 しかし、そう言われても思い出すのは、二〇一号室を初めて訪れたときに視界の端に映ったあの顔の事だ。

 やはり気のせいだとは思えない。

 小さかった不安はやがて大きくなり、心の中に疑念と妄想を産み出す。

 このグリーンハウスには何かがある……。

 君田はオカルト関連にさとい入鹿卓志に相談する事にした。




 二〇一九年三月二十一日。

 その日は休日で、久々に君田は矢島と、入鹿を交えて三人で遊ぶ事になっていた。

 しかし、矢島はサークル関連の用事で遅れるらしい。何でも春休みは四月から始まる新歓に向けて、色々と忙しいのだそうだ。

 集まって男女が酒を飲むだけのサークルなので、彼女である君田としては、とっとと辞めて欲しいのだが、先輩への義理もあり、中々そう簡単にはいかないらしい。

 ともあれ君田は、入鹿と二人で駅近くのファミレスで時間をもて余していた。

 そんな折りに、ふとグリーンハウスで感じた不気味な視線や、初めて矢島の部屋を訪れた時の事を何気なく入鹿に話してみた。

 すると、入鹿は真剣に話に耳を傾け、次のような質問を口にした。

「その部屋を覗いていた男の顔って、覚えてる?」

「ううん。目の端っこだったし、一瞬だったから……」

 君田がそう答えると、入鹿は眉間にしわを寄せ「うーん……」と唸り始める。

 そんな彼を見て君田は改めて不思議に思った。

 入鹿卓志は矢島直仁とは、まったく真逆のタイプだ。彼は小柄で線が細く、性格も穏やかだった。

 大勢で騒ぐのが好きな矢島に対して、入鹿は独りで過ごす事を好んでいた。

 しかし、矢島とは昔から妙に馬があった……というより、傍若無人な彼に入鹿が合わせていると言った方が正解だったのだが。

 矢島もそれを解っており、入鹿に甘えているようなところがあった。

 矢島曰やじまいわく“入鹿は一番の親友”らしい。

 そんな二人を間近で見ているのが、君田は何よりも好きだった――。


「……どうしたのさ?」

 不意にそう問われて、君田は自覚しないうちに微笑んでいる事に気がついた。

 首を横に振って誤魔化す。

「ううん。ごめん。それで、やっぱり幽霊とか、そういうやつなのかな? あの建物、かなり古いみたいだし……」

 すると入鹿はスマホに指を這わせて答える。

「有名な物件情報公示サイトがあるんだけど、それによると、特にこのグリーンハウスで過去に誰かが亡くなったっていう事はないみたいだね……」

「そうなんだ……」

 それでは、ストーカーか何かの仕業だろうか。真っ先に思いついたのは隣室の杉橋という男だ。

 しかし、彼が矢島といさかいを起こし、部屋を出ていったあとも不気味な視線を感じる事があった。

「あそこに住んでるのは、ことごとく変人ばっかりだからね。直仁と僕も含めて」

 入鹿は自嘲気味に笑う。そして、こう続けた。

「そもそも、前オーナーのスペイン人が、バスク地方のスガラムルディ村の出身らしくてね」

「スガラムルディ村……?」

 君田には聞き覚えのない地名だった。しかし、オカルトマニアの間ではよく知られた場所なのだと入鹿は言う。

「スガラムルディ村は、今でも魔術信仰が色濃く残る迷信深い土地らしいよ。十七世紀の初頭には魔女裁判が行われ、一説によれば八十人近くの者が、火炙ひあぶりにされたんだ。スペインのセーラムだね」

 君田には“セーラム”という単語の意味するところが解らなかったが、質問は避けた。

 単純に怖かったからだ。

 入鹿の話は更に続く。

「あの裏口前の談話スペースに飾られた絵……」

「ああ。あのピカソみたいな」

「ここの今のオーナーが言うには、あのタイトルが“魔女ブルハ”というらしいよ。そのスペイン人の作品なんだって。それに、この建物はそれぞれの面が正確に四方を向いている……これも、いかにも魔術めいているよね」

 オカルトマニアの入鹿は楽しげに笑う。

 しかし、君田は笑えなかった。表情を引きらせていると、入鹿は冗談めかした調子でこう続けた。

「兎も角、あのグリーンハウスは、ちょっとおかしいからね。僕も色々と調べて、何か解ったら連絡するよ 」

 このあと、すぐに矢島がやってきた。

 三人はファミレスをあとにすると、カラオケやボーリングなどで余暇よかを楽しんだ。

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