【File20】自殺団地

【00】連鎖


 享保きょうほ六年の夏。 

 見事な松の枝にくくられた赤子たちが、生温い風に揺られていた。

 既に身体のいたるところには米粒のようなうじうごめいている。

 その輝きを失った眼球が見下ろすのは、荒れ果てた村であった。

 田畑は干からび、溜め池や水路はれ、道端の野草はだらしなくしおれている。村の奥に見える大きな河にも流れはない。

 往来には人の姿はなく、あばらの浮いた野良犬がうなだれながら彷徨うろつくばかりであった。

 狂気じみた陽光に照らされ、すべてが干あがっている。

 そんな灼熱地獄と化した村に、やがて陰りが射した。

 いつの間にか南西よりやってきた黒雲が、空一面を覆っていたのだ。

 ごおう……と天が鳴く。

 次の瞬間、暗緑色あんりょくしょくに腐敗した赤子の頬に、温かで大きな雨粒が落ちた――。




 外から蝉の鳴き声が微かに聞こえる。

 周囲には陰気な薄暗がりと湿ったコンクリートの臭いが充満していた。


 『B222』


 錆びついた扉のプレートに刻印された文字列を、懐中電灯の丸い明かりが照らしあげる。

 それを見ながら、当時高校一年生だった桃田愛美ももたまなみは唇をニヤリと歪めた。

「この部屋? 自殺があったのって」

 彼女の質問に答えたのは桐生保きりゅうたもつという同級生の男子であった。

「ああ。ここだよ」

 すると、眼鏡の少女がうわずった声をあげた。

「ねえ……もう帰ろ?」

 彼女は遠野瑞江とおのみずえ

 遠野もまた桃田らと同じ高校の一年生であった。

 この日、三人は他の同級生たち十数名と、地元から離れた山間の河原へ遊びにきていた。

 パラソルやシートなどの準備が終わってから、各々が自由に行動し始めた矢先だった。

 桐生は思い出す。近くの丘の上に今も鎮座する廃墟の事を。


 『市営一本松団地』


 地元では有名な心霊スポットで、そのB棟の222号室で一家心中があったと聞き及んでいた。

 そんないわくつきの場所へと、桐生は以前より好意を抱いていた桃田を誘った。

 すると桃田が、肝試しならば怖がるやつがいないとつまらないと言い出し、小心者の遠野に声をかけた。

 こうして三人は一本松団地へとやってきたのだが……。

「自殺したのは三人家族だったらしい。外から見て何の問題もない普通の家族だったって話だ」

 桐生はおびえる遠野を見て嗜虐的しぎゃくてきな笑みを浮かべながら話を続ける。

「ベランダの手すりに結んだロープを首にかけて、飛び降りたらしいんだが…… 骨が外れて、首がびろーんって、千切れそうなくらい伸びてたらしいぜ」

 遠野がごくり……と、大きく喉を鳴らした。

「それで、今でもベランダから下をのぞくと、その首をくくった家族が、怨めしそうな顔でぶらさがっているんだとよ……」


「わっ!!」


 突然、桃田が大声をあげた。

 すると遠野は「ひぃ」と、短い悲鳴をあげて飛びあがる。

 そのまま尻餅を突いて転んでしまった。

 桃田と桐生の意地の悪い笑い声が響き渡る。

「あんたさぁ……ビビり過ぎ」

 桃田が呆れ顔で肩をすくめた。

「やっぱ、こいつ連れてきて正解だったぜ」

 桐生は携帯電話を取り出して、涙目で見あげる遠野の顔を撮影し始めた。

 薄暗がりにフラッシュが瞬く。

 それを横目にして桃田が玄関扉のドアノブに手をかけた。そのまま捻る。

「あら、残念。鍵が閉まっているわ」 

「マジかよ。ここからが本番だっつーのに。ちょっと、貸してみ?」

 桐生が肩で桃田を押し退けて、ドアノブを掴んだ。すると、その瞬間、まるで老婆の断末魔だんまつまの如ききしんだ音が鳴り響き、扉がひとりでに開いた。

「あれ? 開いてる……」

「錆びついて引っかかってたんだろ。中に入ろうぜ?」

 桐生がほくそ笑む。

「ねえ、やめようよお……」

 遠野がポロポロと涙をこぼす。それを見た桃田は肩をすくめて冷酷に言い放った。

「んじゃ、あんた、ここで独りで待ってる? 先に一人で帰ったら、ぶっ殺すからね?」

「ひっ。わ……私もいくぅ……」

 その遠野の返答を聞いて、桃田は満足げに頷き『B222』の扉を開けた。

 桐生がその後ろに続く。

「ほら、置いてくよ?」

 桃田はドアを押さえつけながら振り返り、遠野に向かって言った。

「待って……待ってよぉ……」

 膝を震わせ、涙目になって、遠野はようやく決心を固めて玄関扉の向こうへと足を踏み入れた。


 ばたん……という重々しい音が鳴り響く。




 室内は荒れ果てていた。

 空き缶や空き瓶、煙草の吸い殻、弁当や惣菜のパック、ビニール袋などがいたるところに散乱している。

 壁はグラフィティアートに占領され、まるでニューヨークかどこかの裏路地のようだ。

 三人はキッチン、浴室やトイレ、和室などを巡り、最後に建物正面に位置するリビングへとやってきた。

 硝子の割れ落ちた掃き出し窓の向こうからは、真夏の陽光が射し込んでいる。

 三人はベランダに出て横並びになり、真下を覗き込んだ。

 特に何もない。真下には背の高い雑草に覆われた花壇があるばかりだ。

「つまんない。そろそろ帰ろっか?」

 桃田が鼻白んだ様子で言った。

 すると、そのときだった。

「おい。これ、見ろよ」

 桐生が手すりに結ばれていた紐に気がつく。

 手繰り寄せると、その先端は、ちょうど人の頭がくぐれる程度の輪になっていた。

 遠野が短い悲鳴をあげる。

「いやっ。この紐、その一家心中のときのやつなのかなあ……」

 桃田は小馬鹿にした調子で鼻を鳴らした。

「そんなの残ってる訳がないでしょ。誰かの悪戯よ」

 そう言って、いち早くベランダの手すりから離れる。

「もう私、飽きちゃった。早く帰りましょうよ」

「ああ、そうだな。腹も減ったし」

 桐生が頷いた。

「呪われたりしてないかな? 私たち」

 不安げな表情の遠野を一瞥いちべつすると、桃田は呆れ顔で溜め息を吐く。

「んな訳ないでしょ。いくわよ?」

 そう言って、ベランダに背を向けて掃き出し窓の敷居をまたいだ。

 すると、その瞬間だった。

 どん……という鈍い衝撃音が耳をついた。流石の桃田も背筋を震わせる。

「びっくりした……何の音? 今の」

 苦笑いしながら振り返る。

「は?」

 桃田は大きく目を見開き、言葉を失う。

 それは手すりの支柱の向こう側だった。

 首を縊り、ぶらさがった桐生の真っ赤になった顔が見えた。

 その半開きの口からは、長く飛び出した舌が垂れさがっている。

 ぷるぷると目蓋を痙攣けいれんさせ、口から泡を吹きこぼしていた。

「え……何これ……」

 桃田は頭が真っ白になった。

 まるで現実感がない。冗談か嘘。それ以外だとは、どうしても思えなかった。

 一方の遠野も、呆然とした表情で床にしゃがみ込んだまま動けずにいた。

 彼女の穿いていたハーフパンツに失禁の染みが広がる。

 そんな遠野に向かって、桃田はヒステリックに怒鳴り声をあげる。

「何があったのよッ!! ねえッ!!」

 遠野が唇を戦慄わななかせながら、半笑いで答える。

「き、桐生君、急に飛び降りた……」

「は!?」

「あの手すりにぶらさがってたロープを首にかけて、いきなり飛び降りた……」

 そう言って、遠野はヘラヘラと笑いながら泣き始めた。

「そんな……」

 桃田もその場に腰を落とす。

 手すりの格子の向こうに吊るされた桐生の顔色は、既に黒みがかった紫になっていた。

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