【File19】風見鶏の館
【00】惨劇の狼煙
網の目のような木漏れ日が風に揺れて地面を優しく撫でている。
そこは桜の木立に囲まれた小さなお
周囲には畑と田んぼしかなく
聞こえるのは風の音。
そして乾燥した地面を踏みしめる足音のみ。
その足音の主は、お社の裏手へとやってくると立ち止まり、縁の下から段ボール箱を引き出した。
段ボールの中からはガサガサという音と、か細い鳴き声が聞こえてくる。彼は、その段ボール箱を開いた。
中には水色のタオルケットが敷き詰められており、鰹節が散らばっている。隅っこには水の入ったプラスチックの青い皿が置いてある。
そして、その箱の中央には仔猫がちょこんと座っていた。
白黒の八割れ。
綺麗な桜色の鼻先と、つぶらな
その仔猫を、彼は芋虫のような醜い五本の指で掴みあげる。
仔猫はよりいっそう激しく鳴き声をあげて暴れまわる。
ピンク色のお腹。じたばたと
その様子を見つめて、彼は口元を
そして仔猫を掴んだのとは反対の左手をズボンのポケットの中に入れて、カッターナイフを取り出す。
チキチキと音がして、カッターナイフの刃がせりあがる。
次の瞬間だった。
仔猫は自らを拘束していた彼の右手の甲に深々と爪を立てた。
くぐもった
地面に落下した仔猫は、見事に着地すると一目散に駆け出す。社を取り囲む桜の木立の向こうへと消えていった。
彼の右手の甲の傷口から、真っ赤な鮮血がにじむ――
二〇一三年七月七日であった。
その日、小学四年生の
急いで靴を履き替えて、生徒玄関を飛び出す。
生徒玄関の壁やポーチの柱には、大きな竹が針金で縛りつけられていた。そこには色とりどりの短冊が取りつけられ、生暖かい真夏の風に揺られてさざめいていた。
その脇を通り過ぎてステップを駆け降り、校門から外に出る。
真夏の蒸し暑い空気を突っ切り、通学路を行く。
やがて友澤は、古びた住宅街の十字路までやってきた。そこを右に曲がれば自宅はすぐ間近である。
しかし友澤は逆方向の左へと進路を取った。
流れの速い用水路に沿って延びる農道を歩き、友澤は桜の木立に囲まれた小さなお社を目指す。
彼女はそのお社で、一匹の仔猫に餌付けを行っていた。
白黒の八割れ。
どうやら捨てられたらしい。
……友澤とその仔猫が出会ったのは、一週間前の日曜日の事である。
仕事が休みだった父親と近所を散歩していたときだった。
何となく、お社に立ち寄ると段ボール箱が置いてあり、好奇心から開けてみると、仔猫が丸まって寝ていた。
近くの用水路で濡らしたハンカチを使って目脂を拭き取ってやると、つぶらな瞳を一杯に開いて、きゅるきゅると愛らしい声で鳴き始めた。
当然の如く、彼女は父親に猫を飼いたいと申し出た。
しかし、友澤一家はアパート暮らしである。
当然ながら猫など飼えない。
泣きながらダダをこねたが、父から「学校の友だちの中に猫を飼える家がないか聞いてみればいい」と言われ、彼女は黙り込むしかなかった。
なぜなら友澤は父親に嘘を吐いていたからだ。
自分は学校では人気者で、友だちも大勢いるのだと……。
本当の彼女はいつも独りで、何かの相談をできるような友だちは一人もいなかった。
友澤はクラスメイトたちに猫の話を切り出そうとは考えていたが、人見知りで口下手だったので、それができずにいた。
結局、自分でお社に通いつめ、熱心に世話を焼くはめになった。
しかし、その甲斐あって仔猫は友澤が出会ったときよりも、ずいぶんと元気になっていた。
手足の汚れなどから箱の外にも出かけているようだった。しかし、学校が終わり友澤がやってくるときには、何時も箱の中で待っていてくれた。
完全に自分になついてくれている……友澤はそれを確信していた。
しかし、同時に、このままではいけない事も解っていた。
台風がきたら……このまま飼い主が見つからず冬になったら……。
つい前日も震度四の地震があったばかりだった。
早く飼い主を探さなくてはならない。しかし、引っ込み思案で消極的な彼女の性格がそれを邪魔していた。
……明日こそ、学校へ行ったら勇気を出して誰かに話してみよう。まずは教科書を借りた事もある隣の席の羽田さんに――
……などと考えながら、友澤明乃は、その薄暗い境内に足を踏み入れた。
それから、お社の裏手に回った彼女は、驚いて大きく目を見開き足を止める。
……誰かがいる。
見た事のない大人の男だった。
汗でべったりと貼りついたTシャツに、洗いざらしのジーンズ。
小肥りで瞳が小さく、離れていた。
紫色の唇を歪めて不気味に笑っている。
男の足元には、蓋の開かれた段ボールがある。その中に仔猫の姿はない。
友澤は
「猫は……?」
すると彼は、にっ、と口角を釣りあげる。
「猫はあっちの方に逃げていったよ」
友澤は男の指差した方に視線を向ける。
すると、桜の木立の間から田園の向こうにある建物が見えた。
赤い三角屋根に錆びついた風見鶏。雑木林に囲まれている。
友澤は記憶を手繰り寄せて、その館の事を思い出した。
近くの席でクラスメイトたちが集まって話していた。あの館には、今は誰も住んでおらず、髪の長い女の幽霊が徘徊しているのだという。
不安げに眉をひそめ、男の顔を見た。
すると彼は、にちゃり……と、音がしそうなくらい粘度の高い笑みを浮かべて言う。
「あの辺りは、鴉がたくさんいるからねえ……。あの猫ちゃん、危ないかもね」
「いやだ……」
ふるふると首を動かす友澤。
「鴉は獰猛で悪賢いからね。可愛い、可愛い、仔猫ちゃんを食い物にするんだ」
男は友澤の頭の天辺から爪先まで、ゆっくりと視線を這わせる。
そしてショートパンツから覗く脚の付け根の白と小麦色の境を凝視し、男はべろりと舌舐めずりをした。
友澤の瞳に涙がにじみ出る。すると男は少し慌てて、早口でまくしたて始めた。
「あっ、ああ……大丈夫、大丈夫だよ。これからお兄さんと一緒に、あの猫ちゃんを連れ戻しに行こう。大丈夫。大丈夫だから。……ね? ね? ね?」
友澤は目頭をぬぐう。
知らない大人についていってはならない。そんな事はよく解っていたが、今はそれどころではない。あの仔猫を早く助けなくては……彼女はそう考えてしまった。
そして、男が不気味にほくそ笑みながら右手を差し出してきた。
「ほら。お兄さんと一緒に行こう?」
少し
その右手の甲には、
この翌日だった。
海沿いの防風林で、変わり果てた友澤明乃の死体が発見された。
これが後に全国を震撼させた藤見少女連続誘拐殺人事件の始まりであった。
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