幕間

Interlude 茅野循聖誕祭(前編)


 その日の朝、茅野薫は目覚めると自宅リビングへと向かった。

「おぉ……さむ」

 背筋を震わせて、ローテーブルの上にあったリモコンを手に取り暖房をつけた。

 それからリビングを後にすると、洗面所で洗顔を済ませる。もう一度、リビングに戻り、裏庭に面した掃き出し窓のカーテンを開ける。

 それから、奥の、誰もいないキッチンへと向かった。

 茅野姉弟の両親は共に海洋生物の研究や生態調査にたずさわっている。もっぱらフィールドワークに出ている為、滅多に家には帰ってこない。

 今年も大晦日の朝に帰ってきたと思ったら、三ヶ日さんがにちが終わった途端、すぐに仕事へと舞い戻っていった。

 仕事熱心……というか、父親も母親も相当な変人なのである。

「もう少しゆっくりしていけばいいのに……」

 薫は呆れ顔で独り言ち冷蔵庫の中を確認する。

 食事はときおり桜井梨沙が作りにきてくれる事があったが、だいたい弟である彼の担当であった。

 姉に食事当番を任せると、たまにとんでもない物・・・・・・・を食べさせられるからだ。

 因みに茅野循は料理が苦手な訳ではない。桜井ほどではないが、人並みにはこなせる。ゆえに質が悪い・・・・・・・のだ。

 夕御飯はカレーやミネストローネなどを三日分くらい一気に作りおきするが、朝は簡単な料理を毎日調理していた。

 この日もまずは冷蔵庫を開けて中にある食材を確認するところから始まる。

 大抵は夕食のあまりで適当に作ったパスタやリゾット、目玉焼きやトーストなどが主だった。

 そして、今ある食材は以下の通り。

 牛乳やヨーグルト、チーズやサワークリームなどの乳製品、調味料類。

 ベーコンやハム、サラダチキンなどの加工肉、生玉子。

 ねぎやにんにく、玉葱たまねぎ赤玉葱アーリーレッド……。

 そこで冷凍庫に余ったご飯が、戸棚にトマト缶がある事を思い出した薫は、リゾットを作る事にした。

 冷蔵庫の扉を閉め、冷凍庫を開ける。ラップにくるまれたかちんかちんのご飯を取りだし、冷凍庫の蓋を閉めたところで、彼は、はっとして、もう一度、冷蔵庫を開けた。

「嘘だろ……」

 薫の顔が見る見る間に蒼白になる。

 そして去年の悪夢が脳裏に蘇る……。

 そして、この日が何の日かを思い出した。


 一月六日。


 そう。

 姉である茅野循の誕生日だった。

 去年の同じ日、姉の誕生会に出席した。

 姉の事は苦手であったが、桜井梨沙が腕を振るって料理するというので楽しみにしていたのだ。

 ところが、そこで待ち受けていたものは地獄であった。

 そして姉たちは、また今年もその地獄を繰り返すつもりらしい。

 その驚愕の事実を察知した薫は、怖気おぞけのあまり背筋を震わせた。

「ウッ」

 込みあげる吐き気をこらえ、ご飯を再び冷凍庫に戻すと自室へと向かう。

 まだ茅野循は目覚めていない。

 なるべく音を立てないように速やかに……。

 着替えを済ませ、財布やスマホを持って再びリビングへ。メモとペンを取りテーブルの上に素早く書き置きを残す。

 メッセージアプリを使わないのは、着信音で姉が起きてしまうかもしれないからだ。


 『寝坊しました。朝御飯は自分で作ってください。出かけてきます。遅くなります。探さないでください』


 その文字は震えていた。




 二〇二〇年一月六日だった。

 朝食を済ませ、炬燵こたつに入りながらみかんを食べ、テレビを観ながらSNSの閲覧にいそしむ西木千里の元へとメッセージが届いた。

 桜井梨沙からである。

 文面にはこうだった。


 『ひま?』


 西木はすぐに返信する。


 『ひまだけど?』


 既読はすぐにつき、こう返信がくる。


 『なら、循のお誕生日会やるから西木さんもきてよ』


 西木は「いきなりだな……」と独り言ちながら了承の意を表すスタンプを返す。

 すると、すぐに桜井から……。


 『会場は循の家。昼頃から始めるから適当にきてよ』


「適当て……てか今日かよ」

 苦笑しながら西木は『でもプレゼントはどうしよう? 何も用意してないけど』と送り返す。

 すると桜井からの返事はこうだった。


 『西木さんがきてくれるだけでプレゼントだよ』


 何となく嬉しくなって、にやける西木。

 そうは言っても、手ぶらで向かうのは何やら申し訳ない気がした。

 まだ昼までは時間があるので、プレゼントを買ってから茅野の家に向かう事にした。

 炬燵から出て身支度みじたくを開始する。

 しかし、このとき西木は忘れていた。

 あの茅野循の誕生日がまともに済むはずがないであろう事を……。




 西木はいったん来津駅から電車で県庁所在地に向かい、駅ビル内の雑貨屋でハンカチを購入する。

 何やら馬のマークが刺繍ししゅうされた青いタオルハンカチである。

 我ながら何の捻りもないプレゼントだと、西木は思った。しかし実用性の高い物なら、きっと迷惑になる事はないだろうという考えだった。

 値札に並んだ数字もちょっとした贈り物としては手頃な価格である。

 ラッピングしてもらい、再び電車に乗って藤見駅へ。

 そして駅裏にある茅野の家を目指す。

 目的地は駅から徒歩二十分とまあまあな距離があった。古びた住宅街と田園地帯の境目にあり、白く高い塀に囲まれている。

 庭先には背の高い杉や竹藪がひしめき、その中に埋もれるように佇んでいる館が、茅野の暮らす家だった。

 何度か訪れた事はあったが、鬱蒼うっそうと生い茂る木立に囲まれたその家は、いつ見ても奇妙な不気味さがあった。

 そして西木は、ここにきてようやく茅野の誕生会がまともなもので済むはずがないと気がつき、緊張を覚える。


 ……まあ、流石に死にはしないだろう。


 ごくりと唾を呑み込む。

 視線を感じて振り返ると道を挟んで向かいの家の門の中から、陰気な顔つきの老人が西木の事をじっと見つめていた。

 鷲鼻わしばなで背筋が伸びており、枯れ木のようにせている。

「な、何か……?」 

 思いきって西木がたずねると、老人は一つだけ、ふん……と鼻を鳴らして、くるりと背を向ける。家の玄関の戸をがらりと開けて姿を消した。

「な、何なのよ……」

 しばし呆然とした後で、門のところに設置されたインターフォンを押した。

 反応はない。

 しばらく待っても何も起こらない。

 スマホを確認すると、三十分ほど前に茅野から『着いたら、適当に入って』とメッセージが届いていた。

「適当て……」

 履歴が示す時間は藤見駅に着く少し前だった。

 ともあれ、西木は格子の門扉を押し開き、そろり、そろりと敷地内に足を踏み入れる。

 煉瓦敷きの小道を渡り、エントランスへ向かう。

 視界に入る範囲の窓の内側は、すべてカーテンに閉ざされ、人気ひとけは感じられない。

 庭の木立が風にこすれてざわざわと音を立ている。

 西木は玄関の前に立って、ドアノブに手をかけた。その瞬間だった。


 ……ざくっ、ざくっ。


 庭木の立てるざわめきに割って、そんな音が聞こえた。


 ……ざくっ、ざくっ。


 土を掘る音だ。

 西木は耳を済ます。


 ……ざくっ、ざくっ。


 どうやら、裏庭が音源らしい。

 西木は少し迷った後、右手から回り込んで裏庭へと向かう事にした。


 ……ざくっ、ざくっ。


 それはまるで墓穴を掘るかのような……そんな不吉な光景を連想させた。

 そして西木が裏庭に辿り着いたとき、その光景が目に飛び込む。

 それは、奥の左手のはきだし窓の前だった。二人の白いフードつきの長衣を着た者たちがスコップで地面の土を掻き出していた。

「桜井ちゃんと、茅野っち……だよね?」

 西木が声をかけると、二人は手を止めて彼女の方を見た。

 そのフードの奥の顔……長く突き出た焦げ茶色のくちばし

 真ん丸の目玉が怪しく光る。

 それは鴉の化け物であった。

 西木は思わず悲鳴をあげた。

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