【17】プロ意識


 九尾天全が高原璃子と出会う少し前だった。

 斜面にひしめく古い平屋の廃屋。

 そこはかつて、昔ながらの漁村だったのだろう。しかし、今は見る影もない。

 その細い路地をさ迷ううちに、柳は長尾とはぐれてしまった。

 柳は重たい撮影用のカメラを担いで走り回っているので、どうしても身軽な長尾とは動きに差が出る。結果、彼とはぐれてしまった。

 しかし、それでも柳にはカメラを捨てて逃げ出す事ができなかった。

 この惨劇の一部始終を撮影した映像を何としてでも持ち帰るという強い決意。

 そうしたカメラマンとしての職業意識に寄りかからなければ、頭がどうにかなってしまいそうだった。恐怖で泣き叫び、何もできずに座り込んでしまいそうだったからだ。

 だから柳はカメラを捨てられずにいる。

 ともあれ、彼の目の前に下りの階段が見えてくる。

 その下から音が聞こえた。鈍く湿った暗い音だ。階段へ近づくにつれて、その音が次第に大きくなってゆく。

 まるで、餃子やハンバーグの種をこねるかのような……。

 柳はカメラを構えたまま、恐る恐る近づく。そっとレンズ越しにのぞき込んだ。

 すると階段の下で、背を向けた田村が長尾に向かって斧を振りおろしていた。

 長尾の瞳には既に生気はなく、腹部がざっくりと斬り開かれている。

 斧が振りおろされるたびに、長尾の手や足が力なく跳ねあがる。血飛沫と肉片が舞う。

 その周囲の地面は、まるで赤いペンキでもぶちまけたかのような酷い有り様だった。

 それでも柳は撮影し続ける。

 脚が真冬であるかのように震えていたし、気づかないうちに小便を漏らしていた。

 しかし、彼はカメラを投げ出さない。

 やがて気がすんだのか田村は手を止めて、頬にべったりとついた返り血をペロリとめた。

 そこで田村は、ようやく階段の上の柳の存在に気がつく。

 凄絶せいぜつな笑みを浮かべ、階段を登り始める。

「次の道化は貴様か……」

 柳は引きった顔で悲鳴をあげながらきびすを返す。

 そのまま廃墟の細い路地を駆け出す。

 柳の足は遅い。ここにきても、まだカメラを捨てようという発想が思い浮かびもしなかった。

 みるみる間に田村はその背中へと迫る。

「待てッ! この……」 

 その田村の声に弾かれたように、柳は走りながら後ろを見た。すると、もうすぐそこに田村の血塗れの顔があった。

 彼の手の中にある消防斧は、既に高々と振りあげられている。

「うわああああっ!!」

 柳は一か八かで咄嗟とっさに急停止して右足を軸に反転した。カメラを両手で振り回して思い切り田村を殴りつけた。

 この一撃が幸運な事に田村の右頬を強打する。

 ばきり……と、太い樹木の枝が、へし折れるような音。

 血反吐と歯の欠片が飛ぶ。田村は首を傾げたままよろけて膝を突いた。

「糞ッ!! くたばれっ!!」

 柳はその頭部に両手で高々と振りあげたカメラを振りおろす。

 突き出たカメラレンズで田村の頭部を殴打する。

「糞野郎っ!! 糞ッ!! 糞ッ!!」

 何度も叩きつける……。

 田村は白眼を向き、斧を取り落とし、地面にひれ伏した。 

 柳はそれでも田村の頭部を殴打し続ける。

 やがてカメラのレンズにひびが入り、たっぷりと血を吸った田村の頭皮や髪の毛がべったりとこびりつく。そこで、ようやく柳は肩の力を抜いた。

 地にひれ伏したまま動かない田村の後頭部は、ところどころ頭蓋骨がむき出しになっており、うつ伏せになったままの顔面の周りには、どろりとした血溜まりができていた。

 どう見ても死んでいる……その確信を得た柳は、やっとカメラの重さを感じて投げ出す事ができた。

「やった……」

 両手の拳を高々と空に向かって突きあげる。

「やってやったぞ……!!」

 狂気染みた笑みを浮かべながら、柳は一歩……二歩……三歩と後退りする。

 そして、地面に腰を落とし、緊張の糸が切れたのか天を扇いでゲラゲラと笑い始めた。 

 誰もいない廃墟に、柳の声だけが響き渡っている。

 その状態がしばらく続き、不意に奇妙な音が彼の耳をついた。ピタリと笑うのを止める。

 それは、地面を指で引っ掻く音だった。

「嘘だろ……」

 柳は顔面を一気に蒼白にし、目を大きく見開く。

 田村が起きあがろうとしていた。

 両手を地面につき、へし折れた鼻から粘性の高い鮮血を滴らせ、地面に転がっていた斧を杖代わりにして立ちあがろうとしている。

 柳は尻に火がついたような勢いで腰を浮かせた。

 どす黒い赤に染まった田村の顔が笑った。腫れあがった目蓋から白眼がのぞいている。

「おぉろぉかぁなぁあ……」

 唇から折れた歯がぽろぽろと転がり落ちる。

 ごふっ……と、飲み過ぎた酔っぱらいがゲップをするときのような音と共に、田村は血反吐を口から噴き出した。

 その動作は緩慢かんまんで、上半身が風に吹かれたかのように揺らめいていた。その両脚は生まれたての小鹿のように痙攣けいれんしている。

 一歩……二歩と、頭頂部から血をしたたらせながら歩く。

 そのおぼつかない足取りを見て、今なら逃げ切れると判断した柳は、どうにか冷静に立ち返ると、甦った田村を背中に再び駆け出した――




 それから、柳はいつの間にかほこらのある三叉路さんさろへと戻っていた事に気がつく。

 ふと空を見あげると、いつの間にか黒雲が頭上を覆っていた。

 これは、一雨くるかもしれない……そう思った柳は、再び屋根のある箜芒邸を目指した。

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