【06】川村千鶴
ここで、川村千鶴について説明しておこう。
それは一九三六年の初秋であった。
著名な超心理学者である
そこに写し出されていたのは『猫』『金魚鉢』『浅田本人の寝顔』であった。
猫は浅田の飼い猫で、金魚鉢も彼の自宅の玄関に置かれた物であった。
添えられた手紙によると、全て念写によって撮影したものとされていた。
送り主は川村千鶴。
岡山県の
興味を持った浅田はこの川村千鶴と会う事にした。『諸々の費用は工面するので、上京して欲しい』旨を記した手紙を送る。
それからしばらく経って、都内で川村と面会を果たした浅田は、彼女が本物の能力者である事を確信したのだという。
すぐに著名な学者や作家などの知識人、新聞記者などの立ち会いで、透視や念写、
その結果、川村はとても常識では考えられない非凡な結果を残す。
更にこの後、川村と浅田は、降霊実験により霊の姿を写真に写す事にも成功する。
残念ながら写真は空襲で損失してしまったのだが、これも著名な写真の専門家をして『本物である』と
これらの出来事を受けて各新聞社は川村を“千里眼の娘”や“最強の霊媒師”などと持ちあげて騒ぎ立てた。
――以上が川村千鶴の名前が広く一般的に浸透した経緯である。
しかし、その実験から二年後だった。
何と驚いた事に、川村千鶴は各新聞社に、あの実験はイカサマであった事を告白する手紙を送りつけて姿を消した。
そこには実験で使われたトリックの詳細が事細かに記されていたと云われている。
これについて浅田響は黙して語らず、そのまま戦争が始まり、人々は川村千鶴の存在を忘れ去ったのだった。
しかし近頃、ある出版社が有名な物理学者の監修の元で検証した結果、川村の手紙に書かれていたトリックは全て実行不能であった事が判明する。
更にこんな噂もある。
ある関係者筋によれば、川村は当時、軍部から目をつけられていたのだという。どうも彼女の能力を軍事転用しようと画策していたらしい。
そうした軍部の
そして、この説を裏付けるような数々の逸話が実験の検証を行った出版社に寄せられ始めた。
『川村のお陰で行方不明の親族と再会できた』
『川村の予知のお陰で空襲を免れた』
『戦時中、川村の心霊治療を受けた』
『狐を祓ってもらった』
『川村の力で戦死した息子の霊と話ができた』
こうして彼女の名前は最強の霊媒師として再び人々の
私も当然そんな噂話など、
川村千鶴はインチキのぺてん師である。
だいたい、川村の後援者であった浅田響という男が胡散臭い。
超心理学などという絵空事に毛の生えたような似非学問に傾倒している学者紛いなど、まともな人間であるはずがない。
そもそも、あの平川に追い返された
恐らくあの女は単なる
そう結論づけた私は早々に川村の事を意識の外へと追いやる。
どうせ彼女は明日には島を出ていく。そうすれば二度と会う事はないと――。
しかし、どういう訳か、あの自称川村は島の北側にある清竜寺に住み着き始めた。
どうも、住職である
少数派ではあるが、未だに祟りを信じて、私の事を快く思わない者もこの島には存在する。真如もまた、その内の一人であった。私は彼らへの警戒感を強めた。
一方で華枝の容態は
まだまだ
そうして更に
それは猛暑も若干落ち着き始めた九月十五日の事――。
昼下がり。
華枝の面談を済ませ離れで書き物をしていた。すると平川がやってきて「清竜寺の和尚がいらしております。先生に話があるそうです」と云った。
少し迷ったが煮詰まって手が止まっていたので、通すように云うと、しばらくして
清竜寺の住職である真如である。
私は彼を快く迎え入れて、応接に腰をおろして向き合う。
平川が茶を運んできて立ち去った後、一体、何用なのかと
「今、寺で面倒を見ている川村千鶴に、一度だけで構わないので華枝さんの事を診せてやって欲しい」
私は即座に、端的に返答する。
「駄目です」
「
「華枝さんは快方の道を着実に歩んでおります。今、祟りだの霊だのと余計な事を吹き込まれては敵わない。折角、これまで私が積みあげてきた物が台無しになる」
きっぱりと断る。しかし和尚は引きさがろうとしない。
「あれは本物の川村千鶴だ。先生も知っておろう。最強の霊媒師である川村千鶴の噂は」
「だから、その
私は聞き分けのない和尚に向かって、多少声を荒らげる。
すると和尚は「ふう」と溜め息を吐いて肩を落とした。
「先生。本当に、全ては科学で解明出来ると思っているのか?」
「無論。この世の中に不思議な事など何もありません」
「では、これはどう解釈する?」
そう前置きして和尚は、こんな話をし始めた。
「華枝さんの前の甕子憑きは、
捕り物は港近くにある彼の仕事場で行われたらしい。
その時、真如は
真如は袈裟の裾をまくりあげて、傷痕を私に見せた。
「この時、奴は私に言った。“これで左右お揃いだな”と」
和尚の言葉の意味が解らず私は首を傾げた。
すると次に和尚は左の膝上を私に見せた。
丁度、右足の錐に刺された傷痕と対象の位置に同じくらいの大きさの
「この黶の事は誰も知らん」
因みに宇津木は結局、真如達を振りきって逃亡。
島の北側の断崖から身を投げて死んだらしい。
更に和尚の話は続く。
「そして、それから一年後に現れた、華枝さんに取り憑いた箜芒甕子が私にこう云った。“右足の傷は痛むか”と……。あれが病気であるというなら、何故、華枝さんは私の右足の傷の事を知っていたのだ? そして宇津木は左足の黶の事を知っていた? 何故、別々の個人に現れた箜芒甕子が互いの記憶を共有しているのだ? これこそ箜芒甕子が病によって個々の脳髄から生まれた存在ではなく、人から人へ渡り歩く亡霊であるという証拠ではないか?」
私は大して思案する事もなく答える。
「それは単純に宇津木さんの時に貴方が怪我をした事を誰かが話しただけでしょう? 黶の事もそうだ。誰も知らないと思い込んでいるのは貴方だけだったのかもしれない。もしくは貴方自身が宇津木に話した事を忘れているか」
一気にそうまくし立てると、和尚が目を丸くする。構う事なく押し切るように言葉を続けた。
「宇津木さんが貴方の黶の事を知らなかったと本当に言い切れますか? 華枝さんが貴方の右足の怪我を知らなかったと証明は出来ますか?」
「そんな物は悪魔の証明だろう。
「詭弁を
私は
「知らないはずの黶の事を宇津木さんが知っていた。ならば、宇津木さんは黶の話を知っていたと素直に思うべきです。そして華枝さんが貴方の右足の怪我の事を知っていたならば、華枝さんが右足の怪我の事を知っていたと素直に思うべきです。何故、そこに
これで和尚は何も云えなくなった。
みっともなく酸欠の魚のように口を開閉させるばかりであった。私はそんな彼に向かって追い討ちをかける。
「証明責任の話を持ち出すならば、今の自身の話が真実であると示さなければいけないのは和尚の方だ。貴方は私に嘘を吐いているかもしれない。そうではない客観的な証拠を示してください」
「そんな。屁理屈だ」
もうこれ以上の話は無駄だろう。私はきっぱりと云った。
「これから、論文の執筆に取りかかりたいと思いますのでお引き取りを」
真如は苦虫を噛み潰した顔で、すごすごと帰って行った。
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