【07】クリフハンガー
茅野はもう一度、レコーダーを再生した後に言う。
「祈りの言葉は全部、唱え終わっている……悪霊の真名を言う寸前に邪魔が入ったみたいね」
「さて。どうするか……だけど」
桜井は屋根裏の入り口の蓋をそっと持ちあげて覗き込む。
すると、真下の廊下でじっと腰を落ち着けていた熊と目が合う。
「そっとじ……」
桜井は蓋を静かに閉めた。
「循。あの熊さん、多分サイコパスだよ……」
「確か、そんなサイコパステストがあったわね。クローゼットに隠れた殺したい相手をどうするか……みたいな」
茅野は苦笑してレコーダーをポケットにしまう。
すると桜井が館の裏手に面した小窓へと目線を向ける。枠は木の格子状で、どうやらはめ殺しのようだ。
「あそこの窓からあたしが外に出て、助けを呼んでくるっていうのは……無理か」
「そうね」
茅野は神妙な表情で頷く。
「悪霊がそれを見越して、どこかに使役した動物を待ち伏せさせているかもしれない。悪霊が一度にどれくらいの動物を操れるのか、条件は何なのか……というのは解らないけれど」
「でも、そのレコーダーの羽音は雀蜂の羽音なんでしょ? 蜂の群れを操れるんだから、悪霊が操れる動物の数は百匹や二百匹ではきかないんじゃないの?」
桜井の指摘に茅野は首を振る。
「雀蜂の毒には“警報フェロモン”が含まれている」
「けいほう……ふぇろもん……?」
「これは、仲間の、働き蜂を呼び寄せ、攻撃性を煽る物質よ。雀蜂はこの警報フェロモンの含まれた毒を敵に噴射して、マーカーにするの」
「なるほど……つまり、一匹の雀蜂を操る事が出来れば、群れをけしかける事が出来るって事だね」
「そうよ。そして小見山氏を蜂に襲わせた方法も多分これよ。恐らくこの悪霊は、それほど沢山の動物を一度に操れる訳ではない。それが出来るなら、例えば冬でも動ける鼠や猫か何かの群れをここにいる私たちにけしかけてくるはず」
「なるほど。……でも、だからといって一匹しか操れないと考えるのは、危険だって事だね? 待ち伏せは警戒するべきだと」
茅野が首肯する。
「……というか、私なら必ずそうする」
そこで茅野は押し黙る。らしくない、逡巡した態度……。
桜井はすぐに彼女の意図を悟る。相棒の喉に引っ掛かって出てこない、その言葉を……。
「うん。ならば、悪霊を封じるしかないよね」
その言葉には、いっさいの悲壮感はなく、不満も不安もなく、あくまでも気安く、何時もの調子だった。
「あたしが瓶とコルクを取ってくればいいんでしょ? 循」
「梨沙さん……でも……何か別な方法があるかも」
何時もの冷静沈着な茅野循らしくない表情。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ……」
桜井はスマホを吊るしていたネックストラップを外して、ダッフルコートを脱いだ。
そして床に置いたリュックから鉈を取り出して革鞘のベルトを腰に巻く。
更に不必要だと思われる物を外に出して重量を軽くしてから、再びリュックを担いだ。
「循は、ここでお姫様しててよ。必ず戻ってくるから」
「今の梨沙さん、無駄にイケメン過ぎて、一周回って小憎たらしいくらいよ」
「それは、どうも」
そう言って、桜井は裏手に面した小窓の前にゆく。
鉈を鞘から抜いて、硝子を割り落とす。次に木枠をガシガシと破壊する。木片が裏口の庇の上に落下して転がり、かなり大きな音を立てた。
「熊は聴覚が鋭敏よ。今ので釣られて裏口の方に向かってくれれば良いけど……」
茅野が天井裏の入り口の蓋をそっと開ける……そっと閉じた。
「やっぱり駄目ね。動く気はないみたい」
「向こうからしたら賢い選択だよ」
そう言って割れた窓に上半身を潜らせて、外に身を乗り出す。窓の
「あっ、待って。梨沙さん、これ……」
と、差し出した茅野の右手には防犯スプレーがあった。
「あくまでも人間用だから過信しないで頂戴。それから、もしも熊が天井裏の入り口の下を離れて梨沙さんの方に向かったらスマホのアラームを大音量で鳴らすから。しっかり耳をすましていてね」
「りょーかい」
桜井はスプレーをハーフパンツのポケットにねじ込む。
そして「ていやっ」というかけ声と 共に屋根の縁に飛びついてぶらさがった。
茅野が窓際に立って屋根にぶらさがる桜井を見あげる。
「気をつけて……梨沙さん」
桜井が片手を離して茅野に向かって親指をぐっと立てる。
「あいるびーばっく」
「梨沙さん、それ、割りと縁起でもないから!」
茅野のその突っ込みには答えずに、桜井は
その桜井の両足が消えると茅野は屋根裏の入り口の蓋を開ける。
月輪熊の跳躍力は垂直飛びで一メートル程度だ。
ジャンプと共に身体を伸ばせば、ギリギリ届くかもしれない。蓋を開けるのは極めて危険である。しかし、熊は飛びあがろうとしない。
じっと茅野の事を見あげている。
「
茅野は、ほくそ笑む。
熊は基本的に警戒心が強く臆病な動物である。それは、悪霊の支配下にあっても変わらないらしい。
あの玄関での防犯スプレーの接射は心理的な枷となるほどの効果はあったようである。
どうやら、無理に深追いはせずに獲物がじれて屋根裏から降りてくるまで、とことん待つつもりらしい。
そんな月輪熊と茅野は睨み合う。
少しでも熊の気を逸らす為に……。
「さてと……」
桜井は傾いだ屋根の上を慎重に移動して、館の正面に向かって左手後方の縁を目指す。
屋根にぶらさがり、慎重にベランダの
ドアノブを握るが……。
「まあ、鍵はかかっているよね」
桜井は少し迷った末に、ドアノブを破壊する事にした。
大きな音を立てれば熊に気づかれる恐れはある。
しかし、屋根裏の小窓を破壊した時の音にまったく動く気配を見せなかったので、今回もスルーしてくれるのでは……という目算があった。
それに扉が破壊されている書斎側から周り込むとなると、廊下に出なければならない。
そうなると熊が書斎の方を向いた場合、その視界に入ってしまう恐れがある。
それよりはリスクが少ないだろうという判断だった。万が一、熊がこちらの物音に興味を示しても、寝室の廊下側の扉は壊されていない。
最低限、扉板を破壊するのにかかる分の時間的余裕はあるので逃亡は容易だ。
「よし!」
そんな訳で桜井は鉈を何度か叩きつけ、ドアノブを破壊する。
扉を開けて室内に入ると瓶を拾ってリュックに入れた。
「コルクは、と。……あれ?」
見当たらない。
辺りを探すがどこにもない。
「あれ……?」
背筋にざわざわと寒気が走る。
家具の引き出しの中やベッドの下、
しかし、コルクはなかった。
これでは悪霊の真名が解らない。
桜井は少し考えた後で、一度屋根裏へと戻る事にした。
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