【09】後日譚


『ミュンヒハウゼン症候群ね』


 と、言ったのは、リモート通話アプリに映し出された茅野循であった。

 それは二〇二〇年の緊急事態宣言下の事。   

 当時、恒例となりつつあったリモート女子会で、九尾天全は妹との思い出を、画面越しの桜井と茅野に語って聞かせていた。

 それは、霊能者である彼女にとっての原点とも言える出来事だった。

「……そうよ。だから、田村さんの娘さんは、二階の窓から飛び降りたの」

 九尾が茅野の言葉を肯定すると、画面の向こうで桜井梨沙が首を傾げた。

『みゅんひ……はうぜん……?』

 すると、茅野がすかさず解説に入る。

『ミュンヒハウゼン症候群は、周りの人の気を引きたいがために、虚言や詐病、ときには自傷行為などを繰り返す虚偽性障害の事ね』

『ふうん……』

 と、いつもの気のない返事をしたあと、桜井は画面端に映り込んでいた湯気立つ湯飲みを手に取り、ずずず……とすすった。

『つまり、その田村さんのお子さんは、お母さんの関心を引きたくて、二階から飛び降りちゃったと……』

「そうね」と、九尾は首肯すると、ノートパソコンの隣に置いてあった“越乃寒梅こしのかんばい”の四合瓶を切り子グラスの上で傾ける。

「田村さんが多忙な実業家で、あまり家に帰っていない事は、近所でもよく知られていたから。きっと、寂しかったけど、なかなか、その気持ちを口に出せなかったのね」

 あのあと、佳音の部屋の前まで行って、扉越しに尋ねたところ、本人が自らの意思で窓から飛び降りた事を認めた。

『じゃあ、その娘が、訳の解らない言葉を話し始めたっていうのは?』

 その桜井の疑問に九尾は酒を一気にあおってから答える。

「それは、ドイツ語よ。ぬいぐるみに取り憑いていたのは、第二次世界大戦下で亡くなったドイツ人の少女の霊だったの」

 どうやら、佳音はぬいぐるみの霊とコミュニケーションを取るうちにドイツ語を覚えてしまったのだという。本人によれば、一月ひとつきぐらいで、簡単な日常会話を話せるレベルにはなっていたのだという。

『やはり、幼い子供は、吸収力や適応能力が高いわね。羨ましいわ』

 と、言って、本日二本目のドクターペッパーのリングプルを開ける茅野。その彼女の背後には、棚に置かれた瓶の中のまむしが虚ろな眼差しで、ぷかぷかと浮いていた。

『それで、けっきょく、どうなったの? その熊のぬいぐるみは……』

 桜井に促され、九尾は事の顛末てんまつを語る。

「そうね。まあ危険な霊ではないんだけど、かなり力の強い霊だったし、そのままだと、他の悪いモノを呼び寄せてしまう事もあるから、ちゃんと、わたしと妹で説得して、魂が本来向かうべき場所へと自分から逝ってもらったわ」

『確かに、ポルターガイストを起こせるくらいの力はあるみたいだし、妥当な判断ね』

『逝く前に、手合わせ願いたかった……』

 と、肩を落とす桜井であった。

 因みに塚本神山は、このあと間もなく活動休止を発表し、二〇一九年頃まで表舞台から姿を消す。

 一応、理由については、自身のホームページで体調不良と発表していたが、この一件で本物の心霊現象があると知って、インチキ霊感商法に懲りたであろう事は明白だった。

 ただ、現在は心霊系Youtuberとして、活動を再開している。

「……まあ、そんな訳で、これが霊能者のわたしにとって“最初の事件”と言える出来事かな」

 と、九尾が感想を述べると、二人は何とも言えない表情で黙り込む。その様子を怪訝けげんに感じた九尾は、画面に映った二人の顔を見渡す。

「何? どうしたの? 何か言いたい事があるなら言いなさいよ」

『いや、センセ……』

 桜井が口火を切り、茅野が続ける。

『先生の妹さんって、やっぱり、先生の妹さんだったのね……』

 桜井が頷く。

『この短い話からも、隠し切れないポンコツ駄目人間臭が……』

「いやいやいや、何を聞いていたのよ!? 確かに、正直、ちょっと、アレなところはあったけど……」

 と、九尾天全は、二人に向かって妹のかっこよかったエピソードを早口で語り始めるのだった。




 二〇一〇年の三月末。

 例の田村邸の一件から一夜明けた朝だった。

 岡田世花は、ダイニングのテーブルで九尾天全こと岡田恵麻と向き合い、いつもの通りに朝食を食べ進めていた。

 その最中だった。

「……ねえ。世花」

「何?」

 世花はカリカリに焼かれたベーコンエッグを突っつく手を止めて応じる。

「……やっぱり、わたしと一緒に、お父さんの跡を継いで、霊能者をやらない?」

 黙り込んでうつ向く世花。構わすに九尾は話を続ける。

「大丈夫だって。昨日は……上手くやれたでしょ?」

「うん」

 けっきょく、田村有加子は仕事量をセーブして、できるだけ娘との時間を作る事にしたらしい。

 まだ、どうなるかは解らないが、あの親子の関係は確実に良い方へと進んでいるように思えた。

「わたしだけじゃあ、田村さんと佳音ちゃんは救えなかった。もちろん、世花独りでも」

「うん」

「わたしも世花も、一人じゃ、お父さんと同じになれないかもしれない。でも、二人で足りないところを補えば……」

「うん」

 実は、世花はもう、昨日の段階で父親の跡を継ぐ道を進もうと、心に決めていた。

 しかし、それは九尾が言うように、二人で力を合わせれば父のような霊能者としてやっていけると自信を深めていた訳ではない。

 昨日、田村邸へ向かう前に九尾天全の口から出た言葉……。


 『もしかして、わたしなんか、“九尾天全”になれないって思ってる? 一緒に力を合わせても、私とじゃあ、お父さんのようにやっていけないって思ってる!?』


 自分の煮え切らない態度が、自分の存在そのものが、知らず知らずのうちに、彼女に劣等感を与えていた事に、世花は罪悪感めいた感情を覚えていた。

 そして、器用で何でもできると思っていた恵麻が、自分と同じように、自らに自信が持てないでいた事に、ほんの少しだけ安堵を覚えた。

 ともあれ、世花は九尾の申し出を了承した。


 ……しかし、数ヶ月後。

 瀬戸内海に浮かぶ夜鳥島にて、彼女はこのときの判断を後悔する事となる。







(了)

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