【File08】異次元屋敷

【00】瞬間移動


 薄墨色うすずみいろの空から、矢の如き雨が降りそそいでいる。

 路地の側溝では唸るような音を立てながら水が溢れ、用水路では濁流が大蛇のようにうねっていた。

 凄まじい早さで枯れ枝やペットボトルなどのゴミが渦を巻き、流されてゆく。

 その住宅街の往来には誰もいない。

 ときおり、軽トラックや軽自動車が路面に溜まった水を跳ね除けて飛沫しぶきをあげながら走り去っていった。

 そんな中、志熊弘毅しぐまこうきは突風に煽られて、目元に張りついた髪の毛を払い、顔をしかめた。

 学校の校門を出てからたったの数分……既に彼の身体は滝行でもしたかのようにずぶ濡れだった。

「糞……」

 舌打ちをして、己の不運を悔やむ。

 突然の局地的なゲリラ豪雨。

 暴風に乗って斜めからやってくる大きな雨粒は、まるで人体を穿つ弾丸のような勢いがある。目を開けて立っている事もままならなかった。

 この住宅街を抜けた場所に横たわる大通りを渡れば家も近い。懸命けんめいに歩みを進める。

 一歩ごとに、たっぷりと雨水を吸った革靴が、かぽっ……かぽっ……と間抜けな音を立てた。

 そうして、大通りに差しかかったときだった。

 ここを抜ければ、あと二百メートルほどで家に着く。信号は青だ。志熊は足を速め横断歩道を横切ろうとした。

 すると次の瞬間だった。

 雨音の向こうから近づいてきたエンジン音が、けたたましいクラクションに塗り潰される。

 ブレーキが悲鳴をあげた。

 志熊は強い衝撃と共に吹き飛ばされる。

 彼の身体がずぶ濡れのアスファルトに弾んで転がった。

 そこに容赦なく雨は降り続ける。


 歪み、廻る視界……霞む意識……志熊は思った。


 ……死にたくない……死にたくない……俺には……やらなければならない事がある……。


 志熊は訪れる苦痛の中、ゆっくりと目蓋を閉じる――




 砂埃すなぼこりにまみれ、ひび割れた引き戸の磨り硝子を貫くかのように紅い夕陽が射し込んでいる。

 クレセント錠の周囲の硝子が円く割れ落ちており、鍵は破壊されてなくなっていた。

 その引き戸が、ガラガラと砂を噛むような音を立てて開く。

「おじゃましまーす」

 声をひそめてそう言ったのは、短髪を針鼠のように立てたブレザー姿の男子であった。

 彼が三和土たたきに足を踏み入れようとした瞬間、その背中を押す者がいた。

「うわっ!」 

 背筋を震わせる。

「てめぇ!」

 短髪の男子が、勢いよく後ろを振り向くと、同じ学校の制服を着た男子二人と女子一人がゲラゲラと笑っていた。

 彼らは来津高校に通う生徒である。

 短髪の男が何か文句を言おうとすると、女子が悪戯っぽい笑みを浮かべながら、彼の身体を押した。

「ほら。翔太しょうた先輩。誰かに見つかったら不味まずいから、早く入ってくださいよ」

「ちょっ、さっき背中を押しやがったのは、誰なんだよ……南方みなかた、お前か? それとも、ゆうか? 孝夫たかおか? ちょっ」

「ほら、早く。翔太先輩」

「てめえ、南方……」

 翔太と呼ばれた短髪の男子はいきり立つ。しかし相手の南方は後輩の女子である。いまいち強く出れずに玄関の中へ押し込まれてしまう。

 そのあとに、同級生の男二人――勇と孝夫も続いた。

「そんな怒るなって。藤女子の彼女に嫌われるぞ?」

「そうそう。早く入れよ」 

「ちょっ、お前らまで……」

 ぼやく翔太を他所に、再び引き戸はガラガラと音を立てて閉ざされた。 




 天井からは綿のような蜘蛛の巣が幾重にも垂れさがっている。

 床は白い埃で覆われており、歩く度に靴あとがついた。

 玄関から左手には破れた障子戸があって、その碁盤目ごばんめの枠の向こうには荒れ果てた和室が窺えた。

 いたるところにビニールなどのゴミが散らばり、酷い有り様だった。

 壁や天井などにもいくつか穴が空いている。

 しかし、皿やカップなどの食器類や、洗剤やその他の清掃用具類などはいくつか残っており、この屋敷が廃屋となる前の生活が忍ばれて妙に生々しい。

 そうして、四人は、その洋扉の前に辿り着く。

「ここか……」 

 翔太が扉をしげしげと見つめた。

 この廃屋は、彼らの学校では『絶対に怪奇現象が起こる』と有名な場所だった。 

 彼らの前にある洋扉の向こうの書斎しょさいで、奇妙な現象が起こるのだという。

 四人はその噂を確かめる為に、遊び半分でやってきたのだ。

 翔太が壊れたドアノブに手をかけて振り返り、仲間たちの顔を見渡した。

「行くぞ……?」

 ギィ……と、小鬼の歯軋はぎしりじみた音が鳴り、書斎への入り口は開かれた。

 一同は扉口から中を見渡す。

「意外と……綺麗ですね」

 南方が感想を漏らした。

 ここに来るまでの場所よりも書斎は段違いに綺麗だった。

 広さは六畳といったところか。床は板張りで右手にベッド、左手の壁際には天井までの高さの本棚があった。

 お堅い理系の専門書や百科事典、実用書が主だったラインナップだったが、海外の古典SFや怪奇小説も少なからずあった。そのいくつかは床に落ちて埃をかぶっている。

 そして、入り口すぐ右側の廊下に面した壁が、室内へと張り出しており納戸の扉がついていた。

 正面奥の窓際には立派な書斎机が鎮座ちんざしている。

 そこにはブックエンドに挟まれた冊子やクリアファイル、古めかしいデスクトップパソコンが置いてあった。

 パソコンの本体やキーボードの上には、結束バンドで止められたケーブルや延長コードの束が無造作に置いてある。

「幽霊とかは、いないみたいだな……」 

 翔太が恐る恐る部屋に足を踏み入れ、三人が続く。

 物色が始まった。

 しばらく経って翔太が本棚から抜いたH・G・ウェルズの作品集を手に持ち「こういうの持って帰ると犯罪なんだっけ?」と誰にでもなく訊いた。

 それに答えたのは孝夫だった。

「もう、家に入ってる時点で不法侵入だよ」

 そして、孝夫が納戸の扉に手をかけて開けようとした……その瞬間だった。

「あれ?」

 翔太の右手にあった本がいつの間にかなくなっている。

 怪訝けげんな表情で眉をひそめる翔太。

 次の瞬間、彼はウェルズの作品集が本棚の元あった場所に戻っている事に気がついた。

 ……と、その数秒後だった。

「お、おい……」

 ベッドの近くにいた勇が声をあげる。

 書斎机を物色していたはずの南方の姿が見当たらない。

「ちょっ、どこへ行ったんだよ?」

「消えた?」

 将太と孝夫の顔が見る見る青ざめる。

 すると、部屋の外から消えた南方の悲鳴が聞こえた。

南方みなかた!」

 孝夫が女子の名前を叫んで入り口の洋扉を開けた。

 そこには……。

「翔太先輩……私、いつ部屋の外に出たんですか?」

 半泣きの南方がそこに立っていた。

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