【09】ニートの俺が勇者になる


 桜が散り、梅雨が訪れた。

 その鈍色にびいろの空模様と同じく、吉島拓海の心は鬱々としていた。

 あの小茂田愛弓の見返り姿をスマホで撮った日以来、彼女からの連絡がぱたりと途絶えてしまったからだ。

 いつもなら週一くらいの頻度で、彼女の方から異邦人でのお茶のお誘いのメッセージがあった。

 しかし、もう一月ひとつき以上も連絡がない。

 何度も吉島から連絡しようと試みた。しかし、文字を打ち、送信ボタンを押そうとする寸前で取り止める……それを何度も繰り返す事しかできなかった。

 そもそも、これまでに彼の方から愛弓に連絡しようとした事は一度もなかった。

 やましい事はしていないとはいえ旦那を差し置いて、既婚者の女性と連絡を取り合う事に後ろめたい思いがあったからだ。

 ただ、彼女の方から誘いがくるならば仕方がないと、吉島は自分自身に言い訳して、異邦人で愛弓との逢瀬おうせを重ねていた。

 そうするうちに梅雨が明けた。

 まだ愛弓からの連絡はなかった。

 撮影に出掛けるとき、わざと小茂田家の前を通ってみたりしたが彼女と出会う偶然は起こらなかった。

 清恵なら何か知っているかもしれない……と、思ったが聞き出す勇気が湧かなかった。

 もしも、愛弓の身に何かあったのならば……。

 反対に愛弓の身に何も起こっていなかったとしたら……。

 それは紛れもなく喜ばしい事であったが、もしもそうならば、愛弓は単にあの異邦人で過ごす時間に飽きてしまったという事になる。

 吉島は何も知りたくなかった。

 ただ冬が終わる前の彼女がいた日々に戻りたいだけだった。




 真夏となった。

 蛇沼の田園風景は緑一色に染まり、田螺たにしや蛙をついばさぎなどの野鳥の姿が見られるようになった。

 この頃、吉島はたったの一度だけ、自室の窓のカーテンの隙間から、小茂田邸に向けて望遠レンズを向けた。

 愛弓への妄執がそうさせたのか、それとも純粋な彼女への想いからだったのか吉島自身にも判然としなかった。

 ともあれ、彼のファインダーは愛弓の姿を捉える事はなかった。

 居間の窓のカーテンが開いており源造の母親がソファーに座って熊のぬいぐるみをっていた。

 その窓際の飾り棚には幾つかのテディベアの背中が見えた。




 ……更に時は流れて八月の頭。

 その日の朝、吉島の元に小茂田愛弓からメッセージが届いた。

 ずっと連絡をしなかった事への謝罪と、久々に会いたい旨が短い文字数の中にしたためられていた。

 更に待ち合わせ場所は、何時もの異邦人ではなく藤見駅の駅裏であった。

 怪訝に思いながらも胸踊らせて、待ち合わせの当日に電車で藤見市へと向かった。

 駅に到着すると、吉島は地下通路を通って駅裏へと急いだ。

 駐車場や駐輪場の他には、マンションや美容院などがぽつぽつとあり、その奥には古い住宅街が広がっているばかりで人気ひとけはない。

 しばらくロータリーの辺りをぶらぶらとしていると、待ち合わせの時刻より三分早く愛弓が車に乗ってやってきた。

「久し振り。ごめんね。乗って」

 愛弓が窓から顔を覗かせた。

 すると吉島は、ぎょっとする。

 左目に眼帯をしており、少しだけ頬が腫れていた。

 吉島は助手席に乗り込む。

「今日はどこへ?」

「別にどこって訳じゃないんだけど……」

 そう言って愛弓は車を走らせる。

「誰にも見られていない場所で話したかったんだ」

 弱々しく笑う。

 そして、近くにある人気ひとけのない駐車場へと向かった。

 車を止めると愛弓は、ふうー、と息を吐き出してルームミラー越しに吉島へと微笑みかけた。

「何も訊かないんだね」

 まるで責められているような気になり、吉島は顔をしかめる。

「ご……ごめん……なさい」

 やっとの事でそれだけ口にすると、ルームミラー越しに愛弓が首を横に振るのが見えた。

「謝る事ないよ。拓海くんはやっぱり優しいね。だから……」

 一つ息を継ぐ。

「私が勝手に話すね」

 お互いの事を訊かない。

 自分の事を喋らない。

 その暗黙のルールが破られようとしていた。吉島はごくりと喉を鳴らす。

「……旦那の知り合いがね……私が異邦人から男と出てくるところ、見たんだって」

 あまりにも、あっけらかんと言い放つ愛弓の顔をルームミラー越しに見た。

 彼女はゆっくりとかぶりを振り、

「拓海くんのせいじゃないよ。それから拓海くんの事は喋ってないから」

 源造は激怒し、彼女に暴力を振るった。

 散々に殴りつけ、蹴って、踏みにじった。

 嫉妬というより、自分が馬鹿にされたような気がしただけなのだろうと愛弓は語る。しかし、人間関係の機微に疎い吉島には、その違いがいまいち解らなかった。

 因みに拓海の名前はスマホには女性の名前で登録してあり、メッセージの履歴はいちいち消しているそうだ。

「バイトも辞めさせられてね……」

 義母も彼女をかばってはくれなかった。やっぱり水商売の女は信用できないと、愛弓を散々になじった。

 ともあれ、ここ数ヵ月ずっと愛弓は、ほとんど家の外にも出してもらえなかったのだという。

「もう、連絡しないつもりだったけれど、やっぱり、お別れを言いたくて」

「そんな……」

 吉島は大きく目を見開く。

「ごめんなさい。拓海くん。私はもう……」


「嫌だ!!」


 愛弓の言葉を制するように吉島は声を張りあげた。

 こんなに大声を出したのはいつ以来であろうか……吉島は自分でも良く思い出せなかった。

 しかし、咄嗟にその言葉が口を吐いた。

 あの異邦人から出た後で、愛弓に向かってシャッターを切った時のように、無意識に声が出た。

「拓海くん……?」

 驚いた顔の愛弓。

 吉島は荒い呼気を整えてから言う。

「警察に……行こう……」

 すると愛弓は迷いなく言葉を返した。

「ありがとう。でも、無理だよ。だって、あの人の親戚、警察にコネがあるもの」

 そのお陰で源造が何度も法の裁きを免れている事は、吉島も聞き及んでいた。

「な、ならば、このまま……逃げれば……」

「もしも捕まったら、殺されちゃうよ」

 愛弓はどこか吹っ切れたように微笑む。

 それは諦感ていかんと絶望に満ちた、酷く悲しい明るい笑顔だった。

「だから、もう拓海くんも、私と関わらない方がいいよ」

 もう彼女は恐怖に蝕まれ、支配され、抵抗する気力と勇気をなくしていた。

 それが、ありありと伝わって、吉島にも理解できた。

 しかし、それは彼にとっての絶望でもあった。


 ……嫌だ……絶対に嫌だ……このままでは世界が壊れてしまう……。


 吉島は心の中で叫んだ。

 そして、このときだった。

 彼が囚われの姫と自らのちっぽけな世界を救う勇者となる決意を固めたのは……。




 しかし、これよりしばらく経ったある日の事だった。

 突然、吉島の元に愛弓からこんなメッセージが届いた。


 『浮気相手と一緒に遠くでやり直す事にしました。旦那には秘密にしておいてください。今までありがとうございました』


 それを見た瞬間、吉島は釈然としない物を感じ、大きく落胆した。

 しかし、別に彼女を救うのが自分でなくとも、彼女が幸せならばそれでいい……心の弱い吉島は、必死にそう思い込んで自分自身を誤魔化した。

 それからまた冬が訪れて梅の枝先が花吹き、桜舞い散る春となる。

 そうして、西木千里が蛇沼新田にやってきた。

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