【07】異邦人


 吉島拓海が飯代愛弓いじろあゆみに出会ったのは小学五年生の頃だった。

 物静かでいつも独りで本を読んでいる……そんな、大人びた彼女のはかなげな横顔に密かに惹かれていた。

 しかし、内気で容姿にも自信がなかった彼は、その思いを打ち明ける事ができなかった。

 やがて中学二年生の夏休みが終わり、風の噂で愛弓が同じ学校の先輩とつき合い始めた事を知った吉島は、落胆したと同時に納得もした。

 その先輩はサッカー部のレギュラーで少しやんちゃな、吉島とはまったく逆のタイプだった。

 吉島は自分は最初から彼女とは縁がなかったのだと、胸に秘めていた思いを忘れる事にした――


 それから年月が経ち、吉島は都内の大学を卒業後、首都圏のある企業に就職した。

 そのあと上司のパワハラや同僚のいじめにあって心身を壊し、その翌年の春先に蛇沼の実家へと帰郷する。

 そこで数少ない友人である清恵から、あの飯代愛弓が小茂田源造と結婚していた事と、その源造から彼女が暴力を受けて流産していた事を聞かされる。

 この暗いニュースを聞いた時、心が病んで錆びついていた吉島は、特に何の感慨も抱かず「そうなんだ」と曖昧な言葉を口にしただけだった。




 やがて季節は移り変わり、鉛のような曇天が頭上を覆い尽くし、寒波と共に冬が訪れる。雪が降り、何日も陽の光は見えない。

 まるで世界そのものが気を病んでしまったかのような毎日……。

 そんな中、その日の空には久々に晴れ間が覗いていた。

 吉島は昼前に目覚め、のそのそと起きて身支度を整える。

 カップラーメンを腹に入れて防寒具を着込み、カメラなど撮影用の機材を持って、その日も田園地帯へと向かう。

 ここ何年か、ずっと変わらない朝のルーティン。

 勤めていた頃より、遥かに規則正しい生活をしている自分に思わず苦笑する。そして、この認識も定期的に幾度となく繰り返されてきたものである事を思い出す。

 蛇沼の集落から田園地帯へ出るまでの間、何人かの近隣の住人とすれ違う。白い息を吐きながらスノーダンプやスコップを片手に雪かきに精を出していた。

 一応、黙礼をするが、ことごとく無視される。

 その度に自分が世界に必要とされていない気がして胸が痛んだ。

 このままではいけないのはよく解っていた。

 しかし、いつもそこで思考が止まる。何も考えたくなくなる。

 やがて、吉島は集落を出て広大な田園地帯に辿り着く。

 澄み渡った空気に遠い青空。

 そこにはまるで城塞のような雲がいくつも浮かんでいた。低く唸るような風の音が空いっぱいに響き渡っている。

 吉島はサングラスをかけて辺りを見渡した。

 何もない荒涼たる白。どこまでも続く大雪原がそこにはあった。

 深呼吸をして冷えた清廉せいれんな空気を肺にいっぱい取り込む。

 すると、前方からやってきた軽自動車が百メートル先ぐらいで、側溝に前輪のタイヤをはまらせてしまった。

 むなしいエンジン音と共にタイヤが空転する。

 どうやら、道に落ちていた大きな雪の塊を避けようとしてハンドルを取られたらしい。

 運転席の扉が開く。

 中から現れたのは、モコモコとした防寒着姿の小茂田愛弓だった。

 彼女は一瞬だけ吉島と目を合わせると、車体を押し始めた。

 吉島は迷う。

 ここは当然ながら手伝うべき場面だ。

 しかし彼は心身を壊して以来、人と話すのがすっかり苦手になってしまった。

 おまけに小茂田愛弓とは、ほとんど口を聞いた事もなかった。

 集落であまり良く思われていない自分が話しかけて、嫌な顔をされないだろうか……。

 どうせ自分が手を貸さなくても、そのうち誰かやってくる。その人に助けてもらえれば……。

 まるで少年のように思い悩む吉島の脳裏に清恵から聞いた言葉が甦る。


『今、愛弓さん、上手くいってないらしくてな……』


 彼女は流産をしてから源造や義母とうまく行っておらず、集落でも孤立しているらしい。

 自分と同じだ……吉島は、ぼんやりとそんな事を思った。

 と、その瞬間だった。カメラのシャッターを切るように一歩を踏み出している自分に気がついた。

 そのまま車の近くまで駆け寄り勇気を出して声をかける。

「す、すいません……手伝いま……す」

 そのとき、小茂田愛弓は、ほっとした様子で礼を述べた。




 それから数日後だった。吉島拓海はバスに乗り、来津駅へと向かった。そのあと電車へと乗り継ぐ。

 車の免許は持っていたし、家に自家用車はあった。

 しかし、車は両親が使うため遠慮して、彼はいつも徒歩や公共の交通機関で移動する事がほとんどだった。

 この日の彼の目的地は県庁所在地の駅ビルの中にある家電量販店であった。

 特に目的があった訳ではなかった。幾つか欲しい物はあったが、全部ネット通販で済ませられる物ばかりだった。

 しかし、ここ数日ずっと天候が悪く、家の中で塞ぎ混んでいたので気晴らしのつもりだった。

 ようは単なる気まぐれである。

 そんな訳で電車に揺られ、改札を出たところで後ろから声をかけられた。

「吉島くん……」

 驚いて背筋を震わせて振り向く。

 その声の主は……。

「こんにちは」

 小茂田愛弓だった。

「あ……あ……こ、こんにちは」

 どもりながら挨拶を返すと、彼女は気安い調子で話かけてきた。

「買い物?」

「あ……うん。ちょっと」

 言葉に詰まる。しかし彼女は嫌な顔をする事なく会話を続けようとする。

「私はね、アルバイト。車エアコン壊れちゃって修理に出しているから、電車できたんだけど。まさか吉島くんと会えるだなんて嬉しい」

「あ……う……」

 頬が赤くなるのが自分でもよくわかった。

「あの……」

「うん」

「あの……その……何の仕事?」

 吉島がモゴモゴと口の中で言葉をさ迷わせる間、彼女は急かす事なくじっと待っていた。それがとても嬉しかった。

「この近くのカラオケ。けっこう時給がいいから」

「そ……そうなんだ」

「ねえ」

「……な、何?」

「時間あるなら、少し付き合ってよ。まだシフトまでけっこうあるんだ」

 どうやら、かなり早めに出てきたらしい。本来ならウインドウショッピングを楽しむつもりだったのだとか。

「この前のお礼。どこかでお茶でもしよ?」

「あ……あ……」

 吉島は断ろうと思った。しかし、彼女は駅構内の時計に目をやり、その言葉を遮るように言う。

「ちょっと歩くけれど、私のお気に入りのお店。もう何年も行ってなかったけど、まだやってるらしいから」

 結局、押しきられてしまった。




 そのあと吉島は愛弓と共に駅前の喧騒から少し外れた喫茶店へと向かった。

 『異邦人』という店名で、雑居ビルの地下にあった。

 昔ながらの純喫茶といったおもむきの店である。

 大きな柱時計を始めとしたアンティークの調度品……その外界から切り取られ、時が止まったかのような店内の空気を満たすのは、密やかな話し声と珈琲の芳ばしい香りだけ……。

 二人は少し薄暗い照明に照らし出された古めかしい空間で四十分程、とりとめもない会話に興じた。

 それによれば、今の彼女は小茂田の実家で暮らしている為に生活には困っていなかったが、家にいたくないのでアルバイトをしているらしい。

 家にいたくない理由は話してくれなかったし、吉島も訊く事はできなかった。

 それ以外は、彼女に質問を受けてカメラの事や写真について、ぼそぼそと吉島が答える。

 そうするうちに時間となり、連絡先を交換したあと、店の前で愛弓と別れる。吉島は再び電車に乗って蛇沼へと帰還したのだった。

 それから、一週間後に愛弓の方からメッセージが届いた。

 また『異邦人』でお茶をしたいというお誘いと共に……。

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