【02】孫子の兵法書


 西木がオカ研の部室を訪ねてきた翌日の放課後だった。

 桜井と茅野は西木と共に、藤女子の校門前のバス停から路線バスに乗り、蛇沼新田を目指した。

 地平の果てが霞んで見えるほど広大な田園地帯では、刈り取りを間近に控えた稲穂が無数にひしめいている。

 その只中ただなかを割ってバスは走る。

 三人は最後尾の座席に並んで座り、とりとめもない会話にせいを出す。 

「……じゃあ、西木さんは、将来はカメラマンを目指しているという訳ね」

「うん。ちょっとコンテストの審査員やってたプロの人とつてができたから高校を卒業したら、その人に付いて本格的に勉強させてもらうつもり」

 西木は、そこで茅野に話を振る。

「茅野さんは? やっぱり、進学?」

「そうね……」

 茅野は首肯しゅこうして、推薦で県内の大学を受けるつもりである事を明かした。

 そこで窓の外を見ながら、ぼんやりとしていた桜井が話に割って入る。

「あたしはねー……」

 このとき茅野は、どうせ桜井の事だから『宇宙最強の女』とか言い出すんだろうな……と、高を括っていたのだが……。

「本格的に料理の修行をして、まずは調理師免許を取るよ」

「へえー。桜井ちゃんって料理できるんだ?」

 西木が目を丸くする。

「うん。作るのも、食べるのも好き」

 桜井は屈託なく笑う。

「智子さんのお店でかしら?」

 と、茅野が問うと桜井は首を横に振る。

「ううん。身内のとこだと甘えが出るからね。健三義兄さんの知り合いのレストランでしっかり修行する。もう話はついているんだ」

 いつもぼんやりとして子供っぽい親友が、意外にもしっかりと将来を見据えていた事に、茅野は驚きを露にする。

「……いずれは、自分のお店を持ちたいものだよ」

 そう瞳を輝かせて語る桜井に茅野は素直に謝罪する。

「……何かごめんなさい、梨沙さん。貴女はいつも、私に新鮮な驚きを与えてくれるわ」

 当の桜井は唐突な謝罪を受けて、

「ん? それは、どうも」

 と、きょとんと首を傾げる。

 すると西木が右手の窓の向こうにぽつんと見える木立に囲まれた黒い盛土を指差す。

「見て。あれが楝蛇塚よ」

「カカショニいないね……」

 桜井がその言葉を発したとき、車内にいた何人かの年配の乗客が眉をひそめた。




 やがてバスは黄金色こがねいろの海原に浮かぶ集落へと到着する。

 この集落は行政区画的には藤見市に隣接する来津市らいつしの蛇沼地区という事になる。

 三人はバスを降りて集落内を闊歩かっぽする。

 ときおり自家用車や軽トラックとすれ違うも、往来に人の気配はなかった。

 広い庭を持つ大きい家が並び、それらの庭先にはお稲荷様の祠や柿の木、歴史を感じさせる立派な土蔵が見られた。

 道に沿って用水路が流れており、分岐点には道祖神が祀られていた。

「ひとつ、聞きそびれていたのだけれど……」と、茅野が話題の切れ目に質問を発した。

「何?」

 西木が応じる。

「その吉島さんを殺した小茂田という男についてだけど、いったいどういう人物だったのかしら?」

「小茂田は、この辺りでは有名な名家の親戚筋なの……」

 西木は忌々しげな表情で語る。どうやら警察に影響力のある人物とも血縁があるのだという。

「ただ、小茂田は短気な乱暴者で、若い頃は随分とやんちゃをやらかしていたって話」

「よくいる、ろくでなしのボンボンって訳だね」

 桜井の身も蓋もない評価に西木は苦笑する。

「……それで、その吉島さんが横恋慕よこれんぼしていたという愛弓さんという女性は?」

 多少、聞きづらそうにして茅野が問うと、西木は特に気を悪くした様子も見せずにその質問に答えた。

「それが私は、その人の事を知らないんだ」

「知らない?」

「ちょうど、私が蛇沼に引っ越してくる半年前くらいだったらしいんだけど、その愛弓さんが家出したんだって」

 愛弓は来津市内のキャバクラに勤めていたらしく、その客と駆け落ちしたという噂らしい。

 どうやら、小茂田との夫婦仲はあまり良くなかったようだ。

「小茂田と結婚してすぐに愛弓さんが流産したらしいんだけど……」 

「らしいんだけど?」

 桜井が問い返し、西木が言い辛そうに答える。

「小茂田が暴力を振るっていたんじゃないかって……」

「その小茂田って、クソだね」

 桜井がばっさりと切り捨てる。西木は苦笑して注釈を付け加えた。

「お母さんとお爺ちゃんが話しているの聞いただけだから、単なる噂話だけどね」

 どうやら彼女の情報ソースは、もっぱら母親と祖父の世間話らしい。

 だいたい祖父が寄り合いで耳にした噂話を母に聞かせるのだが、声が大きくて別室にいても話の内容が解る程なんだとか。

 その為に西木は、本人が知りたくもないご近所の事情にやたら詳しい。

「じゃあ、吉島さんが小茂田家に侵入した時には、既に愛弓さんはいなかったって事なのね? そして、それは周知の事実だった」

 茅野が顎に指先を当てて眉間にしわを寄せる。

「師匠は愛弓さんの事で小茂田を妬んでいたっていう話だけど、愛弓さんはもういないのに小茂田の所に行くなんて、おかしいでしょ? やっぱり、カカショニを見たから気が触れたのよ、きっと」

 西木は鹿爪らしい顔で言う。

「そういえばだけど……」

 そこで、桜井が唐突に話題の転換を図った。

「今日はこれからどこへ行くの?」

 その疑問に茅野は右手の人差し指を立てて、得意気な表情をする。

「“彼を知り己を知れば百戦危うからず”よ」

「お、孫子だね」

「あら、梨沙さん、知っていたのね」

「戦いの基本だからね」

 西木が話を引き継いだ。

「これから、この道の先にある安蘭寺あんらんじに行って、住職からカカショニの伝承について色々と聞かせてもらう予定よ」

 何でも西木は、その住職とも仲がいいらしい。

 そこで桜井が何気ない調子で西木に問うた。

「西木さんが卒業してお世話になるプロの人って、男の人?」

「うん、そうだよ。ちょっと話す機会があって……そしたら、何か気に入られちゃってさー」

 桜井は茅野と顔を見合わせ、もう一度、西木に問うた。

「西木さんって、歳上キラーなの?」

「いや。そんな事は……多分、ないと思うけど。あははは」

 西木は照れた様子で笑って誤魔化しす。

「その住職も、師匠の同級生で友だちだったらしいんだ。それで師匠の立場にも同情的な人でさ……師匠が死んだ後に色々と話を聞かせてもらったり、こっちの話を聞いてもらったり……」

「ふうん」

 と、桜井が気の抜けた相づちを打ったすぐあとだった。

 曲がり角の向こうに延びる道の先に寺が見えてくる。

 安蘭寺であった。




 その安蘭寺からさほど離れていない場所にある一際大きな屋敷の居間で、高価なソファーに腰を埋めながら針仕事に勤しむのは、小茂田源造の母親である小茂田富子こもだとみこであった。

 彼女の趣味は手芸で、主にハンドメイドのテディベア制作を趣味としている……とはいっても、材料や型紙が一式揃った簡単製作キットばかりであったが。

 今も綿を詰めた手や足をかがり縫いで、丁寧に胴体へと縫いつけている最中だった。

 そんな中、居間の奥の入り口から源造が姿を現し、何も言わずに横切って玄関の方へ向かう。

 どうせまた、どこぞへ飲みに行くのだろう。

 しかし、大人しく酒でも飲んでいてくれるならまだマシだった。

 富子はもう、源造が何かをする度に妹の富江に頭をさげるのはまっぴらだったからだ。

 妹の富江の旦那は県警に影響力のある人物で、その力で源造がこれまでに行ってきた悪事をずっとなかった事にしてきたのだ。

 しかし、妹にこれ以上良い顔をされるのは、もう彼女のプライドが許さなかった。

 そんな富子の気持ちとは裏腹に、源造は父である源之助が数年前に他界して以来、ますます歯止めを失っていた。

 職を転々として、ろくに働きもせず、揚げ句の果てにはあの愛弓とかいう水商売の女を連れてきた。

 富子が彼女と初めてあった時には、もう既にお腹に子供がいた。

 あのときは、源造が涙を浮かべながら懇願こんがんし『これからは、真面目に働くから』と、彼女との結婚の許可を求めてきた。

 水商売の女というのが気に入らなかったが、所帯を持てばドラ息子も少しはまともになるだろう……そう考えた富子は渋々結婚を許可したのだった。

 もっとも、そのお腹の子供も源造の暴力で産声をあげる前に死んでしまったのだが……。

 やはり、あの女と源造の結婚を許可したのが間違いだった。

 富子は、愛弓のいつも何かに怯えているような小動物じみた顔を思い出し、歯噛みした。

 しかし……。

「あと、もう少し我慢すれば……」

 富子はそう独り言ち、フェルトの布地に力強く針先を押し込んだ。

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