【04】憑依


 ホテルの中は酷い有り様だった。

 内装は中世ヨーロッパのロココ調を模した華やかな物だったようだが、今は見る影もない。

 エントランスホールの壁紙や床のいたる所が破れており、汚れた下地がのぞいていた。

 壁についた照明や部屋を選ぶパネルは、ほぼすべてが破壊されている。

 そこら中に、○○連合だとか、“殺”だとか“死”だとかの何やら物騒な漢字の羅列がスプレーで画かれていた。

 窓はすべて木板でふさがれている為に、日中だというにも関わらず薄暗い。

 内部の構造自体は宿泊施設というより、元となったマンションに近かった。

 マンションの内装を無理矢理ラブホテルに改装したといった感じだろうか。

 開け放たれたままの玄関から射し込む光が届かない場所までくると、九尾たちは懐中電灯をつけた。エントランスホールを通り抜け、奥のエレベーターホールに向かう。

 エレベーターホールには、アメニティの置かれていた棚や、貸し出し用のコスプレ衣装が吊るされていたであろうハンガーラックがそのままになっていた。エレベーターの隣には上階への階段がある。

 そこから両翼に延びた通路のうち、右側の先にある三号室に向かう。

 廊下の先にある非常扉は内側から木板が打ちつけられているようだ。これも男の遺体が発見されたあとになされた処置だろう。

 そして三号室の前に辿り着く。

 扉はぴったりと閉ざされており、その表面には赤いスプレーで大きく“入ったら死ぬぞ”と書かれていた。

 九尾は躊躇ちゅうちょする事なくドアノブを掴み、扉を開けた。

 ががが……と、扉板の下部が床とこすれる音がして、そのいわくつきの部屋の入り口は開かれた。




 部屋に入った瞬間、ほんの少しだけ卵の腐ったような臭いが鼻先をかすめた。

 天井の鏡張りはすべて割れ落ちていた。荘厳そうごんで華麗な壁紙や装飾は、やはり全てが劣化して破損している。

 そして、部屋の中央の回転ベッドの上には……。


 ……お……おおぅ……。


 血塗れになった全裸の男が苦悶の表情を浮かべ、地べたに落ちた虫のようにゆっくりと蠢いていた。

 右眼、左頬、喉……顔面から胸元にかけて、数十ヶ所に渡り刺し傷があった。

 へそのした辺りが真一文字に切り裂かれ、そこからイチゴのような色合いのはらわたがまろびでている。男はそれを必死に手で抑え、濁った視線を緩慢かんまんにさ迷わせていた。


 ……お、おお、おお。


 当然、この男は原田には見えていない。

 恐らく過去に起こった心中事件の被害者であろう。

 彼は死んでなお、ずっと死に際の苦痛を味わい続けているのだ。

「先生……何か視えますか?」

 九尾はその質問には答えず、ベッドの奥へと目線を向ける。

 その割れ落ちて枠だけになった硝子張りの向こうにある浴室でぼんやりと佇むのは、全裸の女だった。

 濡れそぼった長い癖毛の先端から水滴をしたたらせている。

 女の喉には深々とえぐられた穴があり、そこから……ごぼ、ごぼ、と、詰まった排水溝のような音をさせながら、黒く濁った血を吹き出させていた。それは女の乳房を汚し下腹部を赤く染めあげ、股下から赤い滴となって落下している。

 彼女の虚ろな目線は、回転ベッドで悶える男に注がれている。相当な執着があるようだ。

 かなり凄惨な光景だが、これが過去の残滓ざんしであるならば、九尾にとっては恐怖を覚える対象にはなりはしない。

 彼女が恐れるのは現実の暴力だけである。

 この二人の……特に女の霊はかなり強い力を持っているが、ほとんど他者には興味を示していない。

 取りあえずは、放っておいても問題はない。

 そう判断した九尾は更に部屋を見渡す。

 ここで死んだという浮浪者の霊の気配は感じない。

「どうですか? 先生」

 九尾の傍らで原田が心配そうに彼女の顔を覗き込んだその瞬間だった。

 いつの間にか、女の霊が風呂場の外にいた。そして、瞬きまばたをした次の瞬間にはもう回転ベッドの隣に立っていた。

「な……何で……?」

 九尾の見立てでは、この女の霊と男の霊は関係性が二者間で完結していた。

 ゆえに、ここを訪れる人には、殆ど興味を示さないはずだった。

 しかし、その目はなぜか原田の方に向けられている。

「そうか……」

 九尾は気がつく。

 恐らく原田は偶然にも、あの回転ベッドの上の男と良く似た気質を持っているのだ。

 その事があの女の霊を磁石のように引き寄せてしまっている。

「原田さん……ここは危険です。早く出ましょう」

「え、あ……はい」

 女の姿が見えていない原田はいまいちピンときていないようだ。九尾は若干の苛立ちを感じて叫ぶ。

「早く!」

 原田は怪訝けげんな顔で扉口へ急ぐ。すると、その間にも女の霊はまるでコマ送りの映像のような動きで、じわじわと九尾たちとの距離を詰めようとしていた。

 原田が扉を開けるのにもたつきながらも、何とか外に出る。九尾もそのあとに続いた。

 廊下を渡りエレベーターホールに出る。

 原田がエントランスホールへと出ようとした瞬間だった。

 突然、物陰から血塗れの女が現れ、原田にのしかかるように抱きつく。

 女の姿は原田の身体に溶け込むように消えた。

 原田はがくりと膝を突きうなだれる。

「原田さん! 原田さん!」

 九尾が原田に駆け寄る。

 すると、原田は再び立ちあがり、思いきり右腕を振り回した。その拳が九尾の頬を強打する。

「きゃっ!」

 九尾はよろけて尻餅を突いた。その表紙にショルダーポーチの中の物が床にぶちまけられる。

 痛みを堪えて頬をさすりながら、視線をあげると仁王像のような形相ぎょうそうで原田が彼女の事を見おろしていた。

「アナタみたいなオンナがいるからワタシはシアワセになれないのよ……」

 地の奥深くから聞こえてくるような重く暗い囁き。

 九尾は有らん限りの声で絶叫した。

 霊に取り憑かれた原田が九尾にのしかかる。

「シね、シね、シね、クソアバズレのゴミオンナ……」

 除霊する為には精神統一が必要になる。この集中力の乱れた状態では力を発揮できない。

 九尾は股間を蹴りあげる。

 しかし霊に取り憑かれた原田は、いっさい意に介した様子を見せない。

「くっ……」

 原田は九尾の頭部を両手で持ちあげ――


「シね!」


 その後頭部を床に叩きつけた。

 九尾は意識を失った。

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