【File02】弁天沼

【00】小学生時代


 誰もいなくなった小学校の教室の後方だった。一個の机を囲み、四人の生徒が座っている。

 四人は右手を伸ばし、人差し指の先を机に置かれた紙の上の十円玉に乗せていた。

 そのうちの一人が他の三人に目で合図をする。

 次の瞬間、四人が同時に同じ文言を口にした。


「コックリさん……コックリさん……どうぞ、お戻りください」


 すると十円玉が、すうっ、と動き出し、紙の上に描かれた五十音を指し示す。

 一文字目は……。


 『い』


 二文字目は……。


 『や』


 三文字目は……。


 『だ』


 四人のうちの一人が小さな悲鳴をあげた。

 別な者が「落ち着いて! もう一度行くよ? 指離さないで」と、他の三人に声をかける。

 四人はもう一度、同じ文言を繰り返す。


「コックリさん……コックリさん……どうぞ、お戻りください」


 十円玉が動き出す。一文字目は……。


 『し』


 二文字目は……。


 『ね』


 四人のうちの一人が絶叫する。指を十円玉から離して立ちあがる。

「嫌! もう無理!」

「待って! 冷静になって! 指を戻して!」

 にわかに騒然となる教室内。

「ちゃんと、終わらせないと、コックリさんに呪われる!」

 次の瞬間だった。

 獣じみた叫び声が響き渡った。




 夕暮れ時の校舎だった。

 当時、小学生だった桜井梨沙は急いで生徒玄関へ駆け込んだ。

 いったん家に帰ったあと、林間学校の保護者同意書を机の中に入れっぱなしにしていた事を思い出したのだ。

 この同意書に親からハンコをもらわないと、楽しみにしていた林間学校へ行く事は出来ない。

 幼い桜井は息を切らせながら教室へと急ぐ。

 赤い光に照らされた廊下を渡り、階段を駆け登り、すれ違った教師に廊下を走るなと注意され、ようやく桜井は辿り着く。前方の入り口から教室へと駆け込んだ。

 その瞬間だった。

 突然、視界の左端から現れた何者かが飛びかかってきた。

「何!?」

 桜井はバックステップで襲撃者の突進をかわす。

 すぐさま右足で踏み込みなおし鋭い右フックでそいつのボディをえぐる。続けてショートアッパーであごを跳ねあげた。

 襲撃者は膝を突いて四つん這いになり、げー、げー、と嘔吐おうとし始めた。

 その顔をよく見ると、同じクラスの菅野亮すがのりょうという男子だった。

「あ、ごめん……」

 ついつい、やってしまった。

 桜井は口許を手で抑えながら、一歩、二歩と、後退りする。

 そこへ、更に三人のクラスメイトが駆け寄ってくる。全員が女子で菅野の取り巻きたちだ。

 菅野の背中をさすったり、心配そうに彼の顔を覗き込んだりしている。三人のうちのひとりが慌ただしげに、掃除用具入れへと向かった。

 その光景を眺めながら、桜井は両目に涙を溜める。

 クラスメイトに暴力を振るってしまった。もしかしたら先生や両親に怒られて、林間学校へ行かせてもらえないかもしれない……。

 更に最悪な事に、菅野は女子にとても人気があった。その彼に、こんな事をしてしまったのだから批難は免れないだろう。

 もしかしたら、クラス中の女子たちに嫌われてしまうかもしれない。仲のよかった友だちとも絶交かも……小外刈こそとがりにしておけばよかった……少なくとも最後のショートアッパーは余計だった……。

 思考がぐるぐると回り始める。

「ちが……違うの……」

 桜井の瞳から涙がこぼれそうになった。その寸前だった。

 菅野がよろめきながら立ちあがり、かぶりを振った。そして口元を右手の甲でぬぐいながら言う。

「あれ……俺、どうしたんだ? いったい、何を……」

 桜井は思った。

 記憶が飛んでいる。つまり、事態はかなり深刻だ。早く病院に連れて行って精密検査を受けさせなければ……。

「菅野く……」

 桜井は菅野に声をかけた。

 その次の瞬間だった。

「桜井さん!」

 菅野の取り巻きの女子たちが――


「本当に、ありがとう!」

「ありがとう! よかったぁ……桜井さん、すごーい!」

「……桜井さん、ありがとう!」


 何故か一斉に泣きながら、桜井へと感謝し始めた。

 このあと、桜井はクラスの女子からたくさんお菓子をもらった。

 そのお菓子が美味しかったので、彼女はこの件について深く考えるのをやめた。

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