第5話

 伊勢崎先輩から逃げて教室へ。


 教室に入るやいなや、クラス中でこそこそ話が聞こえる。


「伊勢崎先輩と何かあったのかな」

「告白とか?」

「え~! ないでしょ!」

「伊勢崎先輩と手を繋いでただろ! 羨ましい! いや、恨めしい!」

「ていうか、あいつの名前、太田っていうのか。あんな奴いたっけ?」


 さすがに名前くらいは憶えててくれよ。あと勝手に恨まないでくれ。2カ月も一緒に過ごしてきたクラスメイトだろ?


 まぁいいや。


 走ったせいなのか、先ほどの出来事のせいなのかは分からないが、心臓の鼓動が未だに鳴り止まない。


「おいおい、なんだったんだよ、さっきのあれは? ふんすふんす 」


 後ろの席にいる友助が、先ほどの伊勢崎先輩と同じくらいの近さまで接近してくる。

 前のめり過ぎ! あと鼻息も荒過ぎ!

 俺は近づいてくる顔を懇切丁寧に押しのける。


「いろんな出来事が重なった結果だ。お前には関係ない」

「そんなこと言うなよ、俺たち親友だろ? で? 何があったの? 告白?」

「んなわけあるか! 俺も心の整理がついていないんだ。ちょっと黙っててくれ」


 手でバッテンを作り、これ以上はもう勘弁という合図を送る。

 そのまま黒板の方を振り返るが「あとで教えてくれよ?」という言葉を残し、友助はそのまま何も聞かずにいてくれた。

 相手が踏み込んでほしくないところを、ちゃんとわきまえて接することができるのが、こいつのいいところだ。人との距離感が絶妙。

 だからこそ、いろんな女の子と付き合うことができるのだろう。長くは続かないが。


 ちなみに、さっきからずっと、俺の頭にパンチを繰り出し続けている前橋さんは無視している。

 目にハイライトが宿っていない。

 ごめんよ前橋さん。

 また急に走って負担をかけることになっちゃって……

 そして怖いです……


 でもしかたないじゃん。

 あれはさすがにレベルが高すぎる試練だったよ?

 声には出さないものの、口の動きだけで「ごめんなさい」と謝った。


「いくじなし」


 そう吐き捨て、前橋さんは教室の一番後ろにあるロッカーの上にちょこんと腰かけた。

 いまやそこが彼女の定位置になっている。


 ひとまず頭を整理しないと。

 ほどなくして、朝のホームルーム開始を告げるチャイムが鳴り、同タイミングで安中先生がやってくる。

 口を動かしながら何やら喋っていることは分かるが、今の俺の耳には届かない。

 視界をわざとぼやかせ、先ほどの伊勢崎先輩との出来事を思い起こす。


 いい匂いだったなぁ~。

 あとなんか柔らかかった~。

 迫りくるレモンとスイカ。

 それらが俺の全身を優しく包み込む。

 あ~幸せ。

 そこへ女の人の声が耳元で囁かれる。


『私は、君がほしいの』

『私は! ずっと待ってるから! 君が陸上部に来てくれることを! 絶対に!』


 レモンとスイカだったものが伊勢崎先輩に代わる。

 目の前にはぷるんとした唇。

 ゆっくりとその唇が開かれ————


『直行君』


「うおっ!」


 と、そこで、我に返る。


「太田、朝から締まりのない声を出すな」


 安中先生がややご立腹気味だ。


「すみません……」

「本日の最後の授業は、私の英語だ。たくさん資料を持ってくるつもりだったし、手伝ってくれ。

その締まりのない顔を少しでも引き締めてやる」

「う……はい」


 頭を整理するつもりが、変なことを思い浮かべてしまい、挙句の果てにはそのせいでこの体たらく。

 はぁ。朝から何やってんだよ、俺は。

 こんなんじゃ、2週間後の期末試験で1位を死守できなくなってしまう。


 切り替え切り替え!


 ペチペチと軽く頬を両手でたたき、気合を入れ直す。

 せめて勉強だけでも意地を見せてやる。

 そして、ゆくゆくは恋にだって真正面からぶつかってやる!

 その後の俺は、朝の出来事を頭の片隅に追いやり、なんとか授業を乗り切ることができた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る