【第2章】彼女がいた世界、そして笑う

第1話

 前橋静香は、一言で表すなら、名前の通り静かな奴だった。

 いや、静かというにはいささか表現が有機的すぎるかもしれない。

 それはまるで宇宙でただ一人取り残され、他には何も残っていないかのような、空虚で、味気なくて、それでいて本人はそんなこと何とも思っていないような『無』な女の子だった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



 入学して3週間が経とうとしていたある日の放課後。


 授業の復習をするために持ち帰ろうとしていた教科書を忘れていたことに気が付き、すでに駅に着こうとしていた足取りを止め、教室に戻ることにした。

 少しずつ暖かかくなってきているが、夕方になると途端に肌寒さを覚える、そんな季節だった。


 下校してからすぐに引き返してきたはずなのに、教室はもぬけの殻だった。

 賢明高校は県内でもトップ3に入る進学校だ。

 ごくありきたりだが、校風である文武両道にたがえず、生徒たちは勉強と部活動に励み、高い成績をキープしている。

 俺のように部活動以外のことに集中する奴もいるが、ほとんどの生徒は何かしらの部活動に入り、思う存分、青春を謳歌している。

 部活動で青春するのもアリだったのかもしれない。

 窓の外で各々の活動に励む生徒たちを見ながらそんなことを思っていたとき、誰もいないと思っていた教室の中から声が聞こえた。


「君はこの学校、楽しい?」


 非常に淡白な音色、しかしどこか儚げでいつまでも聞き続けたくなるような、そんな声だった。

 声のする方向に体ごと向けて正体を確かめる。


 前橋静香だ……。


 もうすぐ日が沈み暗くなりかけていたこともあって、いたことに全く気が付かなかった。

 というか、こちらに声をかけてきたというのにもにかかわらず、暗がりで本なんて読んでいやがる。

 目を悪くしてしまうぞ。

 もしかしたら、俺ではなく本の世界に入っていたために、思わず声が出てしまったのかもしれない。

 仮に俺に話しかけていたとしても、いきなり女の子と二人きりで会話というシチュエーションを考えたら、緊張してうまく口が開かない自信がある。

 そうやって己自身と向き合っていると、再び彼女の口が開く。

 今度はこちらに顔を向けて。


「君に言っているんだけど、太田直行君」


 はっきりと自分の名前を呼ばれたってことは、本当に俺に話しかけていたのか。

 夕日の光にちょうど被らず陰に隠れている彼女。

 でもしっかりと分かる。


 飲み込まれてしまうのではないかと錯覚されてしまうほどの黒髪。

 腰のあたりまで綺麗に伸びている。

 そして目にギリギリ被らないようにきっちりと整えられた前髪、教室の暗がりとは相反して、白く透き通った肌、まるで心の奥底を見透かしてしまうのではないかと思うほど、はっきりとした大きな瞳。

 人形と言ってしまっても差し支えないほど可愛らしく、それでいてどこか生気を感じない佇まい。


 同じクラスの高崎さんは、学校でもトップクラスの美少女だ。

 前橋さんも美少女だが、それとはまた違ったカテゴリーというか、自ら進んで影を潜めて目立たないようにしているため、注目はされていない。

 だが意識すればはっきりとその魅力に取りつかれてしまう、そんな存在だ。

 だからこそ、入学してからすぐに名前を憶えてしまった。


「ねぇ、聞いているんだけど」


 気付かぬうちに俺のすぐ目の前までやってきていた。

 身長は高からず低からずという感じだ。

 これがキスをするのにちょうどいい身長差というやつか。

 恥ずかしげもなく気持ち悪い感想が思い浮かぶ。

 黒ストッキングは太もも付近まで伸びているが、肉付きはそれほどでもないため食い込みは少なく、すらりと細い足を床まで伸ばしている。

 そしてなんといっても、そのストッキングとやや短くしたスカートの間の絶対領域。

 これが某アニメに出てくるA〇フィールドのような働きをしているせいで他を寄せ付けないのではなかろうか。

 それに……スンスン……なんの匂いだろう、春のように心地よく、それでいて優しく心を包まれるような香りだ。

 だが、そんな香りとは裏腹に、


「さすがにここまで無視されると傷つくわ」


 傷つくと言いつつ、絶対にそんなこと気にしていないと分かる淡白な返しだった。


「え、う、あ、あ……」


 声が思うように出せない。

 それどころか目を合わせることすらできない。

 妹以外の女の子とこんな風に面と向かい合うのはいつ以来だろうか。


「大丈夫? 息してる?」


 身体をピクピクさせながらなんとか言葉を発しようと頑張っていると、今度は下から覗き込むように顔を近づけてきた。

 これが噂に聞く、秘儀「上目遣い」というやつだろうか。

 動きに合わせて揺れる髪の毛が夕日の光を浴びて美しく輝いて見える。

 そして、いっこうに目を合わせられない俺。がんばれっ!

 

「もういいわ、あなたってもしかしてコミュ障ってやつかしら? なんか今話したい気分なの。だから聞いてちょうだい」


 入学してからクラスメイトとまともにしゃべった姿を見たことがない彼女が、女の子とまともにしゃべれない俺にしゃべりかけている。

 それもひっきりなしに。

 彼女のことは全く知らないが、もしかしたらすでに1年分くらいの文量を話しているのではなかろうか。


「私、この学校が嫌いなの」


 ん? 突然何を言い出すんだ、この人は。


「突然何を言い出すんだこの人は、って思ってるでしょ。フフッ」


 ……エスパーかこの人は。

 というか今、笑った?


「顔に出てるわよ、太田君」


 マジか。

 でもなんか最初ほど緊張もしなくなった。

 いつの間にかピクピクも収まっている。


「将来やりたいことなんてないし、でもとりあえず大学進学はした方がいいかな、なんて思って近場で一番レベルの高いこの学校を受験したの。そしたら周りの意識が高いっていうか、ちゃんと高校生活を満喫してやろうって感じが前面に出てて、なんか自分には合わないなって、そんな気がしてたの」


 たしかに前橋さんは、どこか冷めていて、他と関わらないために壁を作っているような気がする。

 というか、前面に出しすぎていて彼女に話しかける人を見たことがない。


「そんなとき、同じクラスに私と同じように周りとあまり関わらないようにしていた人がいた。君だよ、太田君」


 ふいに、またさっきと同じように顔を覗き込んできた、今度は俺の視界に入るように狙いをさだめて。


 ————目が合った。


 綺麗な瞳。

 しっかりとその瞳の中で俺が映っているのを確認できた。


「やっと目が合った。やっぱり太田君は……特に女の子と話すのが苦手なようね。違う?」


 言葉にはできなかったが、うなずくことで、ようやく最初のコミュニケーションを取ることができた。


「いかにもマジメそうだものね。さぞ女の子と仲良くなるために、脳内トレーニングとかしてるんじゃないかしら」


 やっぱりこいつはエスパーだ。

 間違いない。

 画面の向こうにいる美少女たちを悟られないように今は何も考えないでおこう。


「でも、太田君みたいな人がいて安心してたの。なかなか学校生活に馴染めない仲間だってね。だから誰もいない教室に君が現れたんで、つい舞い上がって話しかけちゃった。すでに中学校生活3年間よりも喋ったかもしれないわ」

「そこまでかよっ!」


 ヤバっ!

 思わず突っ込んでしまった。

 1年分くらいかと思ったら3年分だったんだ。

 それは思わず声が出るだろ。


「フフッ、やっと喋ってくれたわね。それに意外といい声してるわ」


 せっかく緊張が解けたと思ったのに、そうやって気軽に褒めないでくれ。

 またピクピクしちゃうだろ。


「私、親ともあんまり会話しないから、久しぶりにこんなに話せてなんかすっきりしちゃった」


 気持ち良さそうに大きく伸びをする。

 ちょうど夕日が沈み、教室は真っ暗になった。


「もう遅いし、私は帰るわ。ごめんなさいね、呼び止めてしまって」

「べ、別に……」


 少し言いよどんだけど、声は出せた。

 だが視線は彼女の足元を見つめたままだ。


「今度はしっかりと目を見てお話ししましょ。またね、太田君」


 小さく手を振りながら自分の席に向かい、スクールバッグを肩に下げる。

 そして、すらっと美しい立ち姿と綺麗な足の運びでテクテクと歩いていき、視界から姿を消した。

 真っ暗な教室に、今度こそ自分一人だけとなった。

 いつの間にか部活動に励んでいた生徒たちの声もなくなり、次から次へと下校を始める姿がちらほら目に入った。

 なんか……疲れた……

 でも、


「久しぶりに女の子と話せた。しかも喋った姿を見たことがない前橋さんと」


 これはもしかして、美少女ゲームでいうところの出会いイベントだったのではなかろうか?

 これはもしかして、静香ルートに入ってしまうということなのだろうか?

 前橋さんは俺の運命のパートナーなのか?

 精神的にも肉体的にもぐったりしていたはずなのに、そんな突然やってきたイベントに喜びと期待を膨らませたのだった。


 だが――これが前橋静香と話した最後の日となった。

 この日以降、なかなか前橋さんと話す機会に恵まれず、ゴールデンウィークに突入。


 そして連休明けの5月6日。


 彼女は、交通事故で帰らぬ人となったのだ。



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