ペンシルペインター
七乃はふと
プロローグ「やっとボクを見てくれた」
猫は今にも力尽きそうだった。
すでに日は落ち、街灯の光の届かない箇所には、墨汁をこぼしたような闇が広がる。
首が垂れた猫は、壊れたメトロノームのように揺れながらも、前後の足を動かし続けた。
後方から目も眩む二つの光が迫ってきていることに全く気付いていない。
耳をつんざくような高音が何度も鼓膜を震わせ、風圧で白い体毛が逆立っても道を譲ろうとは思わず、光の方が避けていく
道が二股に分かれていることに気づいて立ち止まると、今まで垂れ下がっていた首を上げ右左に目を注ぐ。
しかしどちらが正解か分からなかったので、適当に選んで歩き出した。
歩く度に、足の裏に釘を打たれるような痛みが走るが歩みを止めようという考えはなかった。
もう人家は見えず車道を照らす街灯も少なくなり、傍の林はバケツいっぱいの墨汁がぶちまけられ、闇と半ば同化した看板には蛇出没注意と血文字のようなペンキで書かれていたが、それが一体何を意味するのか分からなかった。
ほぼ下を向いて歩いていたので、林の中から飛び出てきた銛に全く気づがなかった。
万が一気づけたとしても、疲労と栄養失調の体では避ける事は不可能。
初めて異変に気づいたのは、柔らかい体毛をくぐり抜けて突き刺さる神経を分断するような鋭い痛み。
体内に流れ込む異物を感じた途端、体が自らの意思を離れて動きが止まる。
視界が九十度傾いたところで、自分が倒れたことに初めて気づく。
横倒しの世界の中で、銭の模様を貼り付けた凧糸が上の林から降りてくる。
横長の瞳孔には、ヒゲの垂れた自分の顔が映っていた。
凧糸が横に大きく裂け出口の見えないトンネルが間近に迫ってくる。
恐怖で反射的に瞼を閉じようとしても一ミリも動かない。
進みたくもないトンネルに呑み込まれながら思い浮かぶのは、母が生きていた頃の辛くも幸せな時だった。
いつのまにかトンネルが動きを止めていた。
出口の見えないトンネルがゆっくりと視界の端に移動し、代わりに現れたのは二本の足。
爪先立ちの足が近づき体が持ち上げられる。
金属の体に抱き抱えられるが、もはやヒゲのセンサーでも硬いとも冷たいとも感じない。
辛うじて機能している聴覚が同族の声を捉えた。
「返事しなくていいから聞け。助けるから絶対死ぬな」
消え入りそうな命の炎が、ほんの少しだけ勢いを取り戻す。
その作業を終えた途端、力が抜けたように意識を手放した。
陽射しで暖められた草原に寝転がるように全身が心地よい。
言う事を聞くようになったヒゲを動かして草原の正体を掴もうとする。
長い指に抱き抱えられ、母と違う肉球もない掌に、凹凸のある体は沈み込みそうなほど柔らかく、深い眠りに誘うような安心感を感じる。
肌は短い毛に覆われているが、偶に丸石のようにすべすべしている部分に当たる。
頭の上から、夜明けを歓迎する小鳥の囀りのような音が聞こえてきた。
『もう大丈夫。よくここまで辿り着いたわね』
崩れ落ちそうな体にストールを巻いてくれながら、意識を繋ぎ止めようと声をかけてくれる。
何を言っているか分からないが、頭を撫でられる度に目の前の存在は敵ではないと水を吸い込む砂のように心に染み込んでくる。
心地良さで深い闇の世界に落ちていく途中、また声が聞こえてきた。
『このままだと生命の炉は燃え尽きてしまう。でも私ならあなたの炎をもっと大きくする事ができる。力が欲しい?』
あごの下を撫でられながら、白猫は死にたくないと頭の中で叫んだ。すると麻痺した声帯から、か細い鳴き声が出た。
『あなたの意思は伝わったわ。じゃあ目を閉じて、今はお休みなさい』
言われた通りに瞼を閉じると、どこからともなく鈴の音が響き渡り、夜明けの太陽のような熱を身体の内側から強く感じた。
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