第8話

 待ち望んでいた梅雨がやってきた。


 じめじめとした気候は、ボクの癖毛には天敵だが、雨が屋根に落ちて響く音や傘にあたってポツポツと心地よいリズムを聞かせてくれるおかげで、少しは気分が晴れやかになる。


 あの一件のあと、結葉は引きずることはせず、すぐに元の彼女に戻った。

 あんな風に取り乱してしまうほど、ボクのことを心配してくれていることを誇りに思うと同時に、もっと強くなりたいとも思うようになった。


『あとで覚えてろ』


 先輩にあんなことを言われて怖かったけど、未だに何もされていない。

 それどころか、ボクのクラスの女の子と付き合うことになったらしく、ボクたちのことなんか忘れてしまったようだ。


「ケイ先輩、本当にかっこよくて、ここのところ毎日連絡しちゃってるんだ」

「きゃー! いいないいな! ねぇカナちゃん、もっと聞かせてよ!」

「いいよ! 誰かさんが相手にしてくれなかったおかげで私が付き合えたんだから感謝しないとねぇ」


 あの先輩(名前はケイらしい)の話をわざとボクたちに聞こえるように話している。


「別になんとも思ってないのにね。私には柊がいるんだし」


 そんなことおかまいなしに、ボクの隣に居座っている結葉。

 まぁ確かに、あの先輩がどこの誰と付き合おうとボクたちには関係ない。

 むしろ、火の粉が飛ばないように壁になってくれたカナっていう人には感謝しないと。

 同じクラスなのに苗字は知らないけど。

 でも、後にこの感謝を後悔することになろうとは思いもしなかった。


 放課後、掃除当番のため体育館横にあるゴミ捨て場へと向かっていたとき、


「よう、武田ちゃんじゃん」


 ケイ先輩と仲間二人がたむろしているところに遭遇してしまった。


「元気してた~? あのときは世話になったなぁ」

「……」

「あれ? ビビッて声も出なくなっちゃった? あのときも朱宮が助けに来なかったらお漏らししちゃってたんじゃね? あはは!」

 下品な笑いを浮かべる男たち。

 もっと強くなりたいと誓ったんだ。ここで逃げるわけにもいかない。


「あれ以来、別の女と付き合ったんだけどさぁ、なんか全然やらせてくれねぇんだよな」

「お前、そればっか言ってんな」

「だってそうだろ? 顔はそこそこ可愛いから大目に見てたけど、そろそろ別れようかな」

「ケイ、お前ひどいな」

「別にいいだろ」

「でさ……」


 ボクのことなんか忘れて最低な会話を続けていたと思ったら、急に話を振られる。


「あのとき言ったよな。あとで覚えてろって。そのときが来たんだよ。俺たちさ、仲良くなったことにしておいてさ、朱宮にケイ先輩は良い人だから一度付き合ってみればって言ってくんねぇかな?」

「なんでボクが?」

「だってよ、お前としかちゃんと話さないらしいじゃん。そんなお前が良い人って言ってくれれば、朱宮も信用してくれるだろ? お前らも付き合ってるわけじゃないみたいだし」

「……そうですけど」

「だったらいいじゃねぇかよ、武田ちゃん」

「前にも言いましたが、お断りします」

「あっ? 今なんて?」

「お断りしますって言ったんですよ!」


 思わず大声が出てしまった。

 でも、あのときみたいに逃げずに立ち向かうことができたんだ。少しは成長できたのかもしれない。

 けど、


「あはははっ! 見ろよ! こいつ、怖くて震えてるぜ?」

「マジじゃん! あはははっ!」


 ケイに続いて仲間たちも下品な笑いを浮かべる。

 言葉の上では立ち向かうことができたけど、やはり身体まで言うことを聞かせることはできなかったみたいだ。

 心では負けてないつもり。でも身体は追い付いてくれない……。


「あのさぁ、初めて見たときから思ってたんだけどさぁ、お前もなかなか可愛い顔してるよなぁ」

「お前、見境なさすぎ! 相手はちゃんと選べよ!」

「でもよぉ、こんな顔して震えちゃってるところを見るとさぁ、なんかぞくぞくしちゃうよな。ちょっとこっち来い」

「ゔっ……!」


 ものすごい力で引っ張られる。ボクの力では到底抵抗なんてできない。

 そのまま近くの倉庫に投げ込まれてしまった。


「おい、お前ら。ちゃんと見張っとけよ」

「お前マジかよ。本当にやっちまう気か?」

「うっせぇな! 見張っておけばそれでいいんだよ、何も言うな!」

「う……。わ、分かったよ」


 仲間たちはケイ先輩の圧力に負け、指示通り倉庫の外で見張りをするために出て行ってしまった。

 最悪だ。足の震えがますます激しくなって全然動けない。


「俺だってさ、別に誰でもいいわけじゃないんだぜ」


 じりじりと歩み寄って来る。

 倉庫内のカビの臭い。

 恐怖を煽るような薄暗さ。

 そして、ニヤついた気持ち悪い笑いを浮かべながら迫って来る男。

 片手だけでボクの両手を掴み、そしてもう片方の手で口を押えながら地面に押し倒される。

 足をバタバタさせたところで、何の効果もない。

 大声を出そうにも大きな手で口を押さえつけられているため、遮られる。

 なんでボクがこんな目にあわなくちゃいけないんだ……。

 視界がぼやけてくる。

 目頭が熱い。熱い……。

 荒い鼻息がすぐ目の前まで迫って来る。

 どうしてこんな男に……。

 諦めかけたそのとき、外が騒がしいことに気付く。


『なんでもねぇよ、あっち行ってろ!』

『なんにもないなら中を見せてください! 柊がいるんでしょ? 柊! 柊!』


 結葉の声だ。


『うるせぇぞ! ちょっと黙って……うおっ!』

『てめぇ何してんだ……ゔっ!』

『柊! 中にいるのね!』


 バタンッ!


 開かれた扉の向こうには、雨でずぶ濡れになりながら息を切らせている結葉。

 雨で外は暗いはずなのに、彼女だけは光に照らさせて輝いているように見えた。


「さぁ、柊。行くよ!」


 そう言ってボクの手を掴んで走り出そうとするが、ケイ先輩の手がそれを阻む。


「おい朱宮、俺たちは別に変なことをしてたわけじゃ————」

「うざい」


バチバチッ!


「ゔぉっ……」


 最初は気付かなかったが、さっきからずっと手に持っていたらしいスタンガンをケイ先輩の首元に当て、抵抗の間もなく倒してしまった。

 おそらく外にいる仲間二人も同じように倒してしまったのだろう。

 自分よりも断然力の強い人たちを相手にしているのにも関わらず、結葉の表情は「無」そのものだった。

 まるで道端に落ちている石を見ているかのような何の感情も感じない目。

 こちらに向くと同時に表情が一変し、優しくボクに微笑みかける。


「行こ。柊」

「う、うん」


 さっきまでの足の震えは嘘のようになくなっている。

 そして彼女に手を引かれて、ただただ夢中で走った。

 ボクと同じくらいの背格好のはずなのに、目の前にいる女の子の背中がとてもたくましく、眩しく見えた。


「「ハァ、ハァ、ハァ……」」


 お互い息を切らしながらいつもの階段まで逃げてきた。

 濡れていないところがないんじゃないかってくらい雨にさらされてしまった。

 だけど、そんなことお構いなしに、結葉がボクの懐に飛び込んでくる。


「よかった。無事で……」

「うん……。いつも助けられてばかりでごめん……。でも、どうして居場所が分かったの?」


 その言葉を聞いたあと、彼女が自分のスマホを取り出す。


「これ。この前の事件のとき、お互い何かあったときにすぐに探せるように位置情報共有アプリを入れてたじゃん」

「あ、そっか」

「でも、このアプリ使えない。学校のこっち側ってことは分かるんだけど、細かい場所がなかなか定まらなくて、結局走って探し回っちゃった。でも分かりやすくお仲間が外にいてくれたおかげで助かった」

「そのスタンガンもあの事件の日から?」

「うん、いつでも柊を守れるように」

「なんかボク、本当に情けないね……」

「そんなことない! 柊は! 柊は私を救ってくれたんだよ? 情けなくなんかない! でも……もう嫌だ……」


 力強くボクをかばってくれたけど、結葉の目からは涙があふれていた。


「ボクも……もうこんな思いはしたくないし、結葉を……泣かせたくない……」

「私なんてどうでもいいの……。柊が私に向かって笑ってくれればそれで。……私がいるから柊が傷つけられちゃうのかな」

「そんなこと—————」

「そんなことあるよ! 私がいるから柊が傷付く。私が柊を傷つけてるのと同じなの! もう嫌だよ……。こんな思い……もうしたくない……。ごめんなさい……。私を嫌いにならないで……。ごめんなさい……ごめんなさい……」


 この前の取り乱しとは違う、心の中で泣き叫んでいるかのように、苦しげな声とともに嗚咽している。

 目はどこか虚ろだ。

 さっきまであんなに輝いていたのに、その輝きは影を潜め、空よりもどんよりと暗いオーラをまとっている。


 ボクが弱いから、ボクが情けないから、結葉にこんな思いをさせてしまったんだ。

 情けないけど、すぐには強くなれない。それは今日証明された。

 だったら弱いなりにできることをやるしかない。

 彼女と一緒なら、どんな険しくて先が見えない道だとしても突き進んでいける。

 今度はボクが彼女の手を引っ張る番だ。

 弱くたって、弱いなりに立ち向かってみせる!


 そしてその数日後、ボクは学校へ行くことを辞めた。

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