第43話 皇太子の本気

 翌日は乗馬に行くことになった。


 エマとしては歌合わせで問題なかったのだけれど、あんなことがあった後だから刺激するのはやめようと言う皇太子の一言で急遽予定変更した。


 乗馬にはエマと王女とレイチェルにルークと皇太子、レイチェルは相変わらず大量の側仕えを従えていて、当たり前のようにロビンもいた。すました顔で立っているロビンを見て腹が立って、エマはそっちを見ないようにした。


 男性たちは皆、自分の馬に乗って王宮の裏手の乗馬の練習場へ移動する。王宮の裏手には広い練習場が続いている。そのさらに奥には小高い丘や山に続く道があって、そこまで馬でかけていくこともできる。

 エマも多少乗馬はできるけれど、男性に混じって走れるほどではないから王女とレイチェルと馬車でそこまで移動する。

 王女は乗馬はできないし、レイチェルも得意ではないと言っていたけれど、おそらくできないのだろう。だけど一応乗馬服を着て、3人で馬車に乗り込む。


 ただ見ているだけではつまらないし、こんなことならレイチェルの秘密でも調べていたいと思うエマだけど、行かないことはできない。

 思い通りにならないからイライラする。


 でも、エマを本当に苛立たせたのは他のことだった。



「ね、ルーク様」

 レイチェルはそう言ってルークにしなだれかかった。


 と言うのも、どうしたのかわからないけれど、レイチェルは今日はルークにべったりだった。朝あった時からルークに色目をつかい、ルークの隣で腕を掴んで離さなかった。

 確かに元々ルークに近づいている傾向はあった。

 だけどここまでと言うのは、ちょっとおかしい。


 しかもルークとエマの普段の様子を見ていたら、レイチェルのことも知っていると思っていい。

 レイチェルの裏の顔を知っているルークにこんな風に近寄るなんて、

 …何か裏がある。


 だけどその狙いがわからない以上、こっちは何もできない。

 エマはレイチェルを見ながらため息をついた。


 王宮の裏手に出るまでの道も、レイチェルはルークの馬に乗りたいと言って聞かなかった。だけど、婚約者になるはずの皇太子の前でそれは許されない。


 だから馬車にレイチェルとパトリシアとエマの3人で乗っていくことになった。だけど、馬車の中で会話は弾むことはない。特にルークにベタベタするレイチェルを見た後では仲良く話す気にもなれないエマが黙っていると、レイチェルが思わせぶりな視線を向けてきた。


「ルーク様に馴れ馴れしくしてはいけないですか?」

「いえ、そんなことないです」

 エマは愛想笑いをする。顔が引き攣りそうになるのを必死で堪えた。

 レイチェルは小首を傾げてエマを見る。

「そうですよね、だってエマは別に婚約者でもない、ただの職場の同僚ですものね」


 その小馬鹿にしたような言い方に思い切りムッとしながら、エマは苛立ちを堪えて苦笑いする。

「そうです。同僚です」

「でも、ただの同僚であればエマが怒る理由もないですよね」

 そう言ってレイチェルが顎を軽く上げて笑うから、エマはムッとしていながらも笑顔を返す。

 だけどレイチェルはエマの目を見て笑った。

「それとも、エマはルーク様を独り占めしているつもりですか?」

 その時のレイチェルの目が挑むようにエマを見たから、エマは思わず固まった。


 言い返そうとしたら、それより前にエマの隣にいるパトリシアが声を上げた。

「エマとルークは婚約者ではないけれど、それはお兄様の婚約者になる予定のあなたには全く関係ないわ。我が国の事情について色々言われたくないわよ」

 いつになくキッパリとしたパトリシアの言葉にレイチェルが一瞬驚いて、だけどすぐに口を開いた時、馬車が止まった。


 外から馬車のドアが開かれて、まずレイチェルがそれからパトリシアが、最後にエマが降りた。

 馬車から降りて顔を上げると、レイチェルと視線があった。

 その思わせぶりな視線にエマが思わず立ち止まった。


 レイチェルは笑った。


 そして、すぐに視線を逸らすと、既に走り出しているルークの元へ駆けて行った。




 それからルークはレイチェルにせがまれて、レイチェルを乗せて二人で裏の山まで馬で走りに行った。それをレイチェルの護衛騎士の一人が馬でついていった。

 それを見送りながら、エマはそっと息を吐いた。


 パトリシアは屋外のテーブルでお茶を飲んでいる。レイチェルが連れてきた側仕えはなぜかパトリシアの背後に立っていて、まるでパトリシアの側仕えのようだった。

 ロビンはさっきまで練習場で馬を走らせていた。今は姿を見かけないけれど、馬を休ませているのかもしれない。



 やることもないし、人と話す気にもなれなくて、エマは一人ぽつんと歩いていく。


 王宮の裏に来たのは初めてだけど、思ったより山が近く、ちょっとした山登り気分で新鮮だ。山の新鮮な空気を吸うと、頭の中も冴えてくる気がする。エマは両手を伸ばして深呼吸した。

 深呼吸すると頭や胸の中のもやもやがすっきりと晴れていく。


 あたりを見渡すと、エマが立っている場所の少し上に、白いきれいな花が咲いているのが見えた。


 近くに行って見上げると、山側の急な坂道の上に白い花がたくさん咲いていた。呼び鈴型の純白の小さな花が連なって咲いている様子は、神秘的で美しかった。


 なんだか以前つけていたかんざしを連想させる。

 あれはしばらく毎日つけていたし、とても気に入っていたから、無性に懐かしくなった。


 エマは思わず笑顔になると、その花を摘もうとして急斜面に足をかけた。

 その時、後ろから声がした。



「エマ、そこは危ないよ」



 振り返ったら、そこには皇太子がいた。

 いつものように白い騎士服を着て、エマに向かって微笑みながら歩いてくる。


 エマは踏み出していた足を元に戻した。

「危ない……ですかね。登ればいけるかなって」

 その返事に皇太子は苦笑いした。

「エマには無理だよ。代わりに私がいこう」

「え?」

 驚いているエマを置いて、皇太子はさっと軽い身のこなしで急斜面を駆け上ると、あっという間にその花が咲いているところまで行って、そして花を摘んで戻って来た。


「ほら、どうぞ」


 そう言って笑顔でエマに花を差し出した。


「あ、りがとうございます」

「どうしたの?驚いて」

「え、イヤ……身軽だなって」

「当たり前だよ。私だってこう見えて騎士と一緒に訓練しているんだから」

 クスッと皇太子は笑った。

「女性に贈る花を摘むくらいはできるんだよ」


 差し出された花を受け取る。

 その花は遠くで見るよりもずっと小さくて、可憐だった。

 花を手にとって振ると、白い小さい花が揺れるようでかわいい。


「きれいな花ですね」

「この花を見たことある?」

 エマは首を振ると皇太子は笑った。

「山にはよく咲いている花だよ。隣国からきた花でね。ギエルって名前なんだ」

「ギエル?」

「そう」

「かわいい花ですね」

 エマがそう言いながら花を顔に近づけて匂いを嗅ぐ。ちょっと甘い香りがしたと思ったら、皇太子が慌ててそれをエマの顔から遠ざけた。

「だめだよ、エマ」

「え?」


 皇太子は焦ったようにエマの手を握ると、花を少しでも遠くにやる。

「この花はね、見た目は可愛らしいけど毒があるんだ」

「毒?」

「そう。見るだけならいいけど、花粉や花に毒があるんだ。だから匂いを嗅いだり花を食べたりしてはいけない」

「そうなんですね」

「葉や茎は大丈夫だよ。だめなのは花と根。この花から毒を作ることもあるんだ。だから気をつけて触らないといけない」

 皇太子はその花をエマから取ると、近くの湧水でそれを洗った。洗った後でその花を数回振って水を払うと、エマの上着の襟に挿した。

「上着の上からなら、肌に触れないから大丈夫だよ」

 その花はまるでブローチのように上着に収まった。

 それを見てエマも思わず笑顔になる。


 二人で湧水で手を洗いながら話をする。

「一度花粉を洗ったから少しはいいと思うけど…でもむやみに触ってはいけないよ」

「はい」

 エマは神妙な顔をして頷いた。


「ギエルの花言葉を教えてあげようか」

「はい」

 皇太子はエマを見て、優しく微笑む。

「『純粋』って花言葉がある」

「素敵です」

「エマにピッタリだね」


 皇太子がじっとエマを見て笑うから、エマは居心地が悪くなる。返事がしにくい。


 皇太子がそっと首を傾げてエマを見つめる。

「それから、『希望』とか『再び幸せが訪れる』って意味もある」

「……そうですか」


 なんだか落ち着かなくて視線を彷徨わせるエマに、皇太子は近づいた。

「私にも幸せは来ると思う?」

 じっと見つめる皇太子の視線を、エマは逸らせた。

「来ます。……絶対に来ます」

「本当?」

 エマの手に、皇太子はそっと自分の手を重ねた。


 はっとして息を止める。

 視線を上げると皇太子がじっとエマを見つめていて、その視線が絡んだ。



「エマ」

 目の前に青い瞳があった。


 少し深い青い色の瞳がエマを見つめる。


 エマの手を握る手に、力が入る。


 瞬間、だめだって思った。

 このままではいけないと思った。


 だけど手を掴まれていて、逃げることができない。

 その時にはもう、エマは逃げられなかった。



 皇太子はエマの手を握りしめた。


「私には立場があるから、エマを正妃にすることはできない」


 反対の手が、エマの腰に触れて、戸惑うエマの腰を引き寄せる。


「エマをたった一人の妃にすることはできないけど、その代わり君を一番大事な側妃にすることはできる」



 皇太子はそっとエマの頬に顔を寄せた。

 そう、ほんの少しエマが動いたら、その唇がエマの頬に簡単に触れてしまうくらい近かった。



「約束するよ。エマを一番愛する、一番大切に思う側妃にする。だから……」



 ずっと、そばにいてくれないか。



 皇太子の頬がそっと、エマの頬に触れた。



 エマは返事をできなかった。


 多分、エマはその前からずっと、皇太子が本気だとわかっていた。

 わかっていて、気がつかないふりをしただけなのだ。


 その目を見て、エマは皇太子が本気であることを理解した。




 ******


「エマ、どこに行っていたの?」


 練習場に戻ると、パトリシアがめざとくエマを見つけて声をかけた。変わらずテーブルでお茶を飲んでいる。だけどその顔は退屈そうだった。


「エマがいないから探したわ」

 そしてエマの隣にいる皇太子を見てホッとしたように息を吐いた。

「ああ、そう。お兄様と一緒だったの。ならいいわ。心配して損した」

 パトリシアがうんざりした視線を向けると、練習場でルークとロビンが障害物を使って競争をしている。

 障害物を馬で華麗に飛び越えるたびに、歓声が上がった。

 皇太子もそっちに向かって歩いていく。


 それを見ていたレイチェルが、パトリシアのいるテーブルに歩いてくると笑顔で話しかけてきた。

「ああ、喉が乾いちゃった」

 そう言ってエマを見て楽しそうに笑う。


「遠乗り、楽しかったわよ。山のかなり上の方まで馬で行ったの。ルーク様は乗馬が上手なのね」

 エマもパトリシアもそれに黙って返事はしなかった。

 だけどレイチェルはご機嫌で椅子に座ると嬉しそうに笑うと、エマを見た。

「ねえ、私もお茶を飲みたいわ。淹れて下さる?」

「あなた、それはエマじゃなくて自分の側仕えに頼みなさいよ。エマは私の専属魔術師なんだから」

「あら?だめなのかしら?」

「あんなにたくさん人を連れているけど、あの人たちはいつも何もしないじゃない。お茶汲みはエマにやらせる仕事ではないわ」

「そうなの?」

 レイチェルがエマを見つめる。その目が意地悪しく光った。


「専属魔術師さんは私のお願いは聞いてくれないのね」


 レイチェルがニヤリと笑ってエマを見る。


 ここで戦っても意味がないことは理解できた。


 エマは黙って頷いた。

「少々お待ちください」

 面倒だけど絡まれるのはもっと嫌だ。


 エマがお茶の入ったポットを見ると、もう空っぽだった。

 新しく入れ直すかと、テーブルの脇にあるワゴンに向かう。ワゴンからレイチェルが好んでいるお茶の葉を出してポットに新しい茶葉を入れると、持ち運び用の小さなかまどにかけてあったヤカンをとってお湯を注ぐ。

 そこで少しの間、お茶を蒸らす。


 何かあってはいけないから細心の注意を払う。

 だけどパトリシアもレイチェルも、なんならたくさんいる側仕えたちも、競技場でのルークとロビンの争いに注目している。

 エマもそれを見たい気持ちがあるけれど、お茶を淹れることに集中した。

 しばらくお茶を蒸らしたら、新しいカップにお茶を注いでカップをソーサーの上に置いて、レイチェルの前に出す。


「どうぞ」

 レイチェルはわざとらしいほどにっこりと笑った。

「ありがとう」


 その好意的とも思える笑顔に、少し嫌な感じがした。


 一際大きな歓声が上がって、練習場を見るとルークとロビンの勝負が終わったのがわかった。

 いい試合だったのか、みんなが拍手を送っている。

 ちっとも勝負を見ることができなかった事にため息をつきながら目をやると、ルークとロビンが馬を降りてこっちに歩いてくるのが見えた。


 さっきのことがあるからか、エマはルークをじっと見つめられなくてその目を逸らせる。


 秘密なんて作りたくないのに、どうしても秘密ができてしまうのをどうしたらいいのだろう。

 そうぼんやりと考えながら、ワゴンの上から新しいお菓子を選んでお皿に乗せてテーブルに置く。


 またため息をついた時だった。



 がちゃんとお皿のぶつかる音がした。



 顔を上げるとレイチェルが真っ赤な顔で喉を押さえている。

「く、苦しい……」

「え?」

 パトリシアが驚いた顔をしてレイチェルに駆け寄った。

「ちょっと、あなたどうしたの?」

「お茶を…飲んだら急に…苦しい」


 そう言って倒れると苦しそうに咳き込み始めた。

「大変、医者を!」

「急いで吐かせろ!」

 誰よりも早くロビンが駆けつけて、レイチェルの背を叩いて応急処置を始める。

 それをエマが手伝おうとした時だった。


「あの人が…あの人の入れたお茶が…」


 苦しそうに顔を歪めるレイチェルがエマを見た。

 震える指がエマを指差す。


 体が震えた。

 横から伸びた腕に体を拘束される。

 レイチェルの護衛騎士の一人だった。


「わ、私は何も……」

「あなたのお茶を飲んでから、おかしくなったのですから、一番に疑われるのはあなたです」

 エマはそれを振り払おうとして、だけど反対側から拘束される。

「ウソ。私じゃない!」


 レイチェルの護衛騎士がエマを見た。

 その目がつっとエマの胸元に止まる。


「でも、あなたは今、毒を持っていますから」


 エマの胸元には、ギエルの花が飾られていた。

 それはついさっき、皇太子が飾ってくれたものだった。


「ちが…これは違う」

「あなたが一番怪しいことに変わりはありません」


 エマの腕が後ろで掴まれる。

 ルークがその騎士の肩を掴む。

「やめろ、彼女じゃない」


 だけどレイチェルの護衛騎士は苦い顔でそれを突っぱねた。


「我が国の王女を害する者に対しては公正な判断と適切な処罰を求めます」



 まだレイチェルの救護が続く中、エマは護衛騎士に連れられてその場を離れた。


 そうしてエマは隣国の王女、レイチェルに毒を盛った罪で投獄された。

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