第30話 その感情の名前

 ドアをノックしたら、すぐにドアが開かれた。

 目の前のルークは夜会服から着替えて、くつろいだ格好をしていて、エマをみて驚いた顔をした。

「なに?どうしたの?」

 何を話したらいいのかエマは迷って、視線を逸らせた。

「ええと…」

 だけどそこでルークはドアから体をずらして、エマの前を空けるようにした。

「とりあえず、入れば?」

「え?」

 そう言って自分はさっさと部屋の中に入ってしまう。


 本当に入っていいのか、ためらうエマを振り返って

「入らないの?」

 もう一度声をかけた。

 迷ったけれど、エマはルークの部屋の中に足を踏み入れた。


 その部屋はエマの部屋とほぼ同じ作りだった。

 違うのは、エマの部屋は女性用らしく明るい色合いで家具がまとめられていることと、ルークの部屋は真ん中にエマの部屋よりも大きなベッドがある事だった。


 ふと見ると、ベッドサイドのテーブルには分厚い本とグラスが置いてあった。

 琥珀色のその液体がお酒だとわかって驚いた。


「お酒…飲んでたの?」

 エマが問いかけると、ルークは肩をすくめた。

「うん、なんとなくね。眠れないから」

 そう言ってルークはベッドに腰かけると、両手を背後について、じっとエマを見つめた。

 夜着の上にガウンを羽織ったエマの格好を見て、口を開く。

「君も寝るところだったんじゃないの?」

「わ、わたしもなんだか眠れなくて……」

 ルークの部屋なんて視線のやり場に困るから、ついうつむいてしまう。

「で、なに?」

「あ、ええと……」

 エマは俯いたままくちごもった。


「お礼を、言おうと思って」

「お礼?」

 不思議な顔をした後で、ルークが気がついたように体を起こした。

「ああ、君が水浸しになるのを助けたこと?……君が鈍臭いのはよくわかったから大丈夫だよ」

 いつものように軽口を叩いたルークに、エマが言い返さないから、ルークは驚いた顔をする。

「どうしたの?君。疲れたの?」

 ベッドに座ったまま、エマの手をちょんと突く。


 エマは首を振った。

「ううん……。全部私のせいなのに、私、なにもできなくて悪いと思って」

 なんともないような顔で笑うルークを見たら、自分の無力さを感じて、エマはつい弱音を吐いた。

 俯いたままのエマを、ルークは心底驚いたように見つめた。

「……君、そんなこと気にしてたの?」

「そんなことって……、当たり前じゃない。私のせいであなたが罰を受けることになったし、今回だってダフネの父親の不正を調べるの、普通の仕事に加えてやるのは、大変だったでしょう?」


 エマはルークを見つめた。

「私のせいで、あなたに迷惑がかかってばっかりで……自分が情けない」

 気持ちが落ち込んで、エマは俯いた。


 しばらくして、ルークのため息が聞こえた。

「勘違いしないでよ」

 その突き放すような言い方にエマはハッと顔を上げた。

 ルークは手で髪の毛をかき上げた。

 その眉が不満そうに寄せられる。


「僕にとってこんなことは、なんでもない。君に迷惑をかけられたなんてことは思わないし、これでダメになるような人間だと思わないでほしい」

 そうしてまた大きく息を吐いた。

「なんなの。君。この間から弱気なことばっかり」

 呆れたようにエマを見た。


「あ、当たり前じゃない。だって、私、あなたに迷惑をかけてばかりだもの」

 思わず言い返すと、ルークは首を振った。

「僕はなんともない。だから、君はそんなことを気にしなくていい」

「でも……」

 それでも言い返したエマを止めるように、ルークはエマの手をぎゅっと握りしめた。その手の強さに、エマはルークを見つめる。


「何かあったら助けるのは当然だろ?それに、僕じゃない人を頼る方がイラっとするよ」

 あやすようにエマの手を握ったり離したりする。

 その手の温かさが、心地よかった。


「君は今まで通り、明るく笑っていればいい。時々ちょっとうるさい時もあるけど、僕はそういう君の威勢のいいところもす……」

 そこでルークは言葉を止めた。

 そしてエマの目をチラッと見て、視線を外した。真っ直ぐに前を見て、誤魔化すように咳払いをした。

「まあ、つまり、君の元気な所は、ものすごく良いと思っているってこと」

 わざとらしくもう一度咳払いして言った後で、ルークはエマを見上げた。

「だから、気にしなくていい」


 そう言われても……。

 気持ちは落ち着かないけれど、きっとルークは引かないだろうと思って、エマは黙って頷いた。

「でも……ごめんなさい」

「だから、謝らないで」

「ご……わかった」

 ちょっとおかしなエマの返事を、ルークは苦笑いして聞いていた。


 エマの手をパッと離すと、肩をすくめた。

「じゃあ、これでいい?もう遅いし、君も休みなよ」

 座っているベッドから立とうとしたルークの腕を、エマは急いで掴んだ。ルークがエマを見上げて驚いた顔をする。

「あ、あの……」

 エマは勢いよく声を出して、だけどすぐに口をつぐんだ。何回も口を開いて、閉じる。

「何?一体どうしたの?」

「ええと……まだ、話があって」

「話?まだあるの?明日にしたら」

 それにエマは思い切り首を振った。

「だ、だめ!今日でないとだめ」


「なんなの一体」

 不審気にエマを見るルークに、エマは思い切って声を上げた。

「ちょっと……目をつぶっていて」

「は?なに?君、そんな怖い顔をして何をいうわけ?」

「いいから!早く目をつぶってよ!」

 思い切り警戒するルークに向かって命令すると、渋々ルークは目を閉じた。


「変ないたずらとかしないでよ」

「しないわよ。失礼ね」

「はい。これでいいんでしょう?」

 ベッドに座ってルークが目を閉じる。


 いつもぱっちりと見開かれているルークの目が、今はしっかりと閉じられていた。驚くほど長いまつ毛が、瞼を縁取っている。

 こんな時なのに、綺麗な顔だなと思って見つめてしまう。



 エマがゆっくり近づくと、そのエマの様子を感じるのか、ルークが声を上げた。

「何?ちょっと怖いんだけど」

「だから、黙ってて」

 はいはい、とルークが返事をして口を閉じる。



 ベッドのはじに座ったルークの目の前までくると、エマは手を心臓に当てて、深呼吸をした。

 気持ちを落ち着けて、それからゆっくりルークに向けて伸ばした。


 ルークの頭を自分のお腹に引き寄せて、そっと、ルークを抱きしめた。



 エマの腕の中で、ルークの体がびくりと動いた。

 そのルークの戸惑いごと、

 全部包むように抱きしめた。



「な、なに?いきなり」


 ルークの焦ったような声がする。

「こ、これは……別に変なことじゃないから」

 エマが慌てて返事すると、焦ったせいでうわずった声になってしまった。


「その……あ、あなたが前に教えてくれたじゃない。こうしたら元気になるって。だってあなた、珍しく疲れているみたいだったし……、少しでも元気になってくれたらいいなって」


 こんなのまるで言い訳みたいだとエマは焦る。

 だけど、止められなかった。


「あのね。さっきも言ったように、これは励ますためにやっているんだから。お世話になったお礼と、あなたを元気づけるため。だから、全然変なことじゃないから」


 そう言ったら、ルークの手が伸びて、エマの背中をぎゅっと抱きしめた。

 そのまま自分の頬をエマの体に擦り寄せる。

 エマの心臓がぎゅっと高鳴った。


 ルークが視線を上げてエマを見る。目があって笑った。


「うん……悪くない」


 満足そうに言って、またエマの体に頬をつけた。

 確認するように小さく頷く。

「ちょっとイメージとは違うけど、これはこれでいいんじゃない?」

「イメージと違うって」

「まあ、これはこれでいいって」

 お腹の上でくぐもった声がした。その後で見上げてきた顔が笑っていたから、エマは顔を赤くしながら、安心する。

 手をそっとルークの頭に添えると、輝くような金髪が指の間からこぼれていった。



「ねえ」

 少ししてルークが声を上げた。そのままエマの手を引くと、エマを自分の隣に座らせた。


「でも、やっぱりこっちの方がいい」


 腕を伸ばしてエマを囲うと、今度は正面から抱きしめた。

 今度はエマの頬がルークの胸にピタリとくっついて

 慣れた体勢に安心して、エマは自然にルークに体を寄せた。



「君はどっちがいい?」

「え?ええと……」

「いつものとさっきのと、どっちがいいの?」

 そう言われて考えて、だけどすぐに気が付く。

 いつの間にかルークに抱きしめられることに、慣れている自分に。


「ど、どっちでもない」

「は?なにそれ」

 エマの返事にルークは笑って、手であやすようにエマの背中を叩いた。

 視線だけ動かしてエマを見つめる。


 エマの目を見つめて、口を開いた。

 その目が煌めいてエマを見る。


「今夜は一緒に寝る?」


 それにエマの顔が一気に赤くなった。

 言葉を失って、口を開けたまま固まると、それを見てルークは吹き出した。


「ちょっと……なによ」

 ムッとしてエマが言い返すと、ルークは額をエマの肩に当てて笑った。

 その肩が小刻みに揺れている。


「君の顔……ひどい」

「ば、馬鹿にして」

 ルークはくすくすと笑ったままエマを見る。

「さすがに、それは無理だよ。僕、我慢できない」

「え?なにが?」

「君はいいの。こっちの話」


 ようやく笑いがおさまると、ルークはエマから体を離した。

 あまりにもあっさり離すから、エマが驚くほどだった。


 ベッドの上でルークはエマの頭を撫でた。

「いいから、もう今日はおしまい」

「うん」

「おやすみ」


 だけどエマはすぐに立ち上がれなかった。


 なんだか、もう少しこうしていたい気がして。

 それがおかしいことだとわかっているけれど、それでもそうしたかった。


 だけど、ルークが自分をじっと見つめているのがわかったから、自分の部屋に戻ることにした。

「おやすみなさい」


 そうして立ちあがろうとしたら、ルークがエマの手を掴むと、自分の方へ引き寄せた。

 その力が思いの外強かったから、ドアへ体を向けていたエマは体のバランスを失った。ぐらんと揺れた体をルークが受け止める。

 エマのすぐ目の前に、ルークの顔があった。



 ランプの光が、ついさっきエマが触れたルークの金髪を光らせている。

 上から自分を見下ろす人のことを、エマはじっと見つめていた。

 その少し伏せた目が、ただ自分だけに向けられていることを痛いくらい感じた。


 ルークはなにも言わなかった。

 ただ黙って、エマに向かって、ゆっくりと顔を下ろして


 その唇がエマの頬にふれた。


 エマの心臓が大きな音を立てた。



 あっという間に体を離したルークは、笑顔でエマの顔を見つめる。


「おやすみ」


 だけど、エマの体から力が抜けていて、すぐに動くことなんてできない。

 そうしたら、ルークが楽しそうにわらった。

「なに?やっぱり一緒に寝たいの?」


 それにエマは弾かれたように立ち上がった。

「も、戻るわよ。当たり前でしょう」

「じゃあ、今度こそ、おやすみ」

「……おやすみなさい」


 エマはドアに向かって歩く。そして自分の部屋へ戻ろうとしたら、背中から声が追いかけてきた。


「エマ」

 振り返ると、さっきみたいにベッドに座ったルークがじっとこっちを見ていた。

「また、こうして僕の部屋に来てよ」

「……気が向いたら」

 その返事にルークはクスッと笑った。

「待ってる」


 エマはそれには返事をせずに、黙って身を翻した。

 そうして今度こそ、エマは自分の部屋に戻って、ドアを閉めた。





 ドアを閉めて自分の部屋に戻ったら、張り詰めていた気持ちが緩んで、エマはドアに背をつけたまま、床に座り込んだ。



 まだ、心臓が落ち着かない。

 エマは右手を伸ばして、自分の唇をそっと指で触れた。



 さっき、確かにルークの唇は、エマの頬に触れた。


 だけど、同時に、

 頬の近くの唇も、同じように柔らかいものが掠めた。


 それが何か、エマははっきりと理解していた。




 心臓がドキドキしている。

 鏡を見なくても、エマの顔は真っ赤だ。


 もうエマにだってわかる。

 誰にでも、こんな風になるわけじゃない。


 手に触れたり、抱きしめられて胸が高鳴るのも、顔が赤くなるのも、

 離れたことを寂しく思うのも

 自分ではない誰かと一緒にいると、胸が苦しくなるのも


 全部、ルークだからだ。




 ルークのことを好きになるなんて、あり得ないはずだった。

 エマがルークに抱くのは、絶対に恋愛感情ではないはずだった。



 でも、今自分がルークに対して抱いているのは、

 この感情の名前は……。


 そこまで思って、エマは息を飲んだ。


 その感情の名前も、

 もう誤魔化しきれないくらい、その気持ちが大きくなっていることも


 エマはもう、わかっていた。






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