第19話 犬と王女と二人の関係
気に入った人にはべったりする、というハンナの言葉は本当で、その犬——雄の犬で名前をロキという——はエマの部屋に入り浸るようになった。
朝のうちに自分でドアを器用に開けて隣からエマのいる部屋へと現れて、それから夕方までべったりひっついている。夜寝る時も当然のようにエマのベッドの上で足元に丸まって寝ている。
朝起きるといつの間にかいなくなっているから、夜のうちに自分の寝床に戻っているようだけど。
それから、ロキのおかげでいいこともあった。
厳しいハンナは、いつまでもエマを病人扱いする。ベッドからようやく出られたけれど、なかなかエマを歩かせてくれない。
少し歩きたいと言っても、まだ足が腫れているとハンナは渋い顔をする。
それがロキと一緒に散歩といったら、信じられないほど簡単に許してくれた。
「ロキがいるなら、いいですかね」
最初は部屋の中を歩く程度だったけれど、今はヘイルズ家の庭を散策するまでになった。
この家の中でロキに対する信頼感は絶大だった。
腫れていた脚の具合もだいぶ良くなった頃、今回の事件で謹慎していたはずのパトリシアがお忍びでやってきた。
倒れてから、1週間が経っていた。
皇太子の完璧なお忍びスタイルと比べると、満点とは言いにくいけれど、それでもこの間のことを思えば、随分ちゃんとした状態でパトリシアはやってきた。
ただ、相変わらず先触れもなく突然やってきて、戸惑う執事を振り切るようにしてエマのいる部屋まで入ってきた。
扉を開けていきなりパトリシアが入ってきた時、ソファで作業をしていたエマはその姿を見て思わず見間違いかと思ったくらいだ。
だけど真っ直ぐにエマの座るソファまでやってきたパトリシアは、心配そうにエマを見つめた。
「元気になった?エマ?」
******
「いや、本当につまらないのよ」
パトリシアがヘイルズ家のお茶を優雅に飲みながら不満をぶちまけた。そして自分の少し後ろに控えて立つ厳しそうな女官をチラッと見た。
「もう、あれはダメ、これはダメってみんながうるさいの。全部お兄様の指示なんですって、失礼しちゃうわ。こんなんじゃ気軽にエマのところに遊びにも来られないじゃない」
あの時『もうお忍びはしない』と誓っていた人と同じと思えない。
やっぱり人間の本質はあまり変わらないのかとエマは苦笑いした。
パトリシアはため息をついた。
「お兄様がエマのお見舞いに来た時も、私も一緒に行くって言ったのに、絶対だめって言うのよ。どうせ二人で私の悪口言っていたんでしょう?」
「そんなことないですよ」
「本当?じゃあ、お兄様と二人で何を話してたの?教えてよ」
それを聞いてエマは思わずドキッとした。
皇太子に秘密にしてね、と言われたことを思い出したのだ。
あれはただの人間愛のようなもので、あの行動におかしな意味はないとエマは思っている。ロキを抱きしめるのと同じレベルだ。
そしてあれは皇太子に言われるまでもなく、気軽に人に話すことではないと思う。
もちろんパトリシアにも言うつもりはない。
だから咄嗟にエマは誤魔化した。
「あ、ええと。あの事件の後のこととか」
「ふうん」
パトリシアは少し眉を上げた。
じっとエマを見つめる視線からは、今の言動をかなり怪しまれている気がしたけれど、意外にも王女はあっさりと引いた。
「そう」
王女はエマから視線を外すとヘイルズ家自慢の焼き菓子を食べて、あまりの美味しさに感動していた。
怪しまれていないと判断して、安心する。
秘密って難しいなとエマは内心冷や汗をかいた。
こんな秘密持ちたくなかったと、少し皇太子を恨めしく思った。
「ところで、あの後ルークに会っていないんですって?」
パトリシアが驚いた顔でエマを見る。エマが苦笑いして頷くと、
「呆れた。本当なのね」
と心底驚いた顔をした。反対にエマは顔を俯けてしまう。
だけどすぐにパトリシアはすまなそうな顔をした。
「あの時のことで、ルークにもペナルティが与えられたのよ」
「え?」
エマは驚いて顔を上げた。パトリシアは言いにくそうに続ける。
「あの事件のほとんどはお兄様がうまく処理したけど…ひとつだけ隠せない事があったの。あの時、ルークはお兄様の馬で王宮から出たけど、王宮を馬で走るなんて、普通は許されない。夜ならまだ誤魔化しようもあったけれど、まだ人もいる時間だったから見ている人もいたし、お兄様も庇いきれなかったのよね」
「そんな…。この間、そんなことは教えてくれなかった」
皇太子はそんなことは何も言っていなかった。
だけどパトリシアは当然のように肩をすくめた。
「そりゃあ、聞いたらエマが自分を責めるでしょう?言わなかったのはお兄様の優しさよ」
エマは少しためらってから、尋ねる。
「あの、それってルークの今後に響きますか?」
「さすがに大丈夫だと思うけど……」
エマのためにルークの経歴に傷がついたのだとしたら、耐えられない。
思わず膝の上で手を握り締めた。
本当なら、なんの傷もなく王道の出世街道を走るはずだったルークの邪魔をしてしまったことに、罪悪感を感じる。
パトリシアは励ますようにエマに笑いかけた。
「まあ、ペナルティくらいあった方がいいのよ。あの人、やりたい放題だったんだから」
「え?」
「あいつがあの時に持ってた剣、見た?あれは国王が皇太子の即位する時に授ける大事な剣で、簡単に使う剣じゃないのよ。それをあいつが持ち出した挙句に、あなたを助けた後、道路に放り投げたんだから。私だって目を疑ったわよ。それなのに、私がそれを責めたら、あいつ、近くにあった剣で一番切れそうだったから使いましたって答えたのよ。全く、なんだと思っているのよ」
雨の中で水溜りに沈んだ剣は記憶がある。
だけどそれがこんなに由緒正しいものだとも知らなかった。
思わずエマも青ざめる。
「あの事件の後も、あいつ堂々とお兄様の仕事を私に回してきたりするのよ。ありえないわ」
パトリシアの声がどんどん大きくなってきた。それにエマが苦笑いする。
それからパトリシアはお菓子をつまみながらしゃべり倒した。
それがかなり盛り上がってきた時、いつものように隣の部屋から自分でドアを開けてロキが入ってきた。
いつものように歩いて私のところまで来て、そしてパトリシアを見て立ち止まった。
不審そうにパトリシアを見つめる。
反対にパトリシアは犬を見て目を輝かせた。
「犬がいたのね」
「ええ。お利口さんですよ」
「かわいいわね」
私が優しくロキを撫でていると、パトリシアは立ち上がってロキのところまでやってきた。その目が興味深そうにロキを見て笑っている。
「あいつの犬にしてはかわいいじゃない」
そう、手を伸ばして撫でようとした時だった。
ロキは思い切りパトリシアに向かって牙を剥いて吠えたのだった。
******
「本当に飼い主に似て、可愛くないわね」
なんとかロキを大人しくさせると、ロキはいつものように私の膝に頭を乗せて座った。撫でてあげると気持ちよさそうに喉を鳴らす。
その様子を見てかわいい、と思わず目を細めてしまう。
それを苦い顔で見ているのはパトリシアだ。
吠えられるわ、噛まれそうになるわ散々だった王女は、今はロキのことを睨むように見ている。
エマとロキを見てため息をついた。
「本当、飼い主に似ているわ」
ため息をつきながら王女はエマの格好をじっと見た。
「な、なんですか」
「そのドレスとか、どうなってるわけ?」
「ドレス?」
あんまり考えていなかったけれど、着るものや靴はいつも出されるものを使っている。さすがというか、どれも上等だった。
今日は焦げ茶色にところどころ赤をあしらったドレスを着ている。とても着心地が良くて、エマも気に入っていた。
でもどうやって準備しているのかまでは考えなかった。
そういえば女の姉妹がいないのに、どうしてこんなに女性のドレスがあるのか、考えたことがなかった。
エマが答えに困っているとハンナが口を挟んだ。
「おぼっちゃまに言われてキチンとお嬢様のものを準備しております」
「へえ、エマの分をね……」
そうしてロキを見て、そこで何かに気がついたのか、急に姿勢を正した。
ちょうどお茶のおかわりを淹れているハンナに王女は声をかけた。
「ねえ、あの犬、隣の部屋から来たけど、隣の部屋は?」
ハンナはお茶を淹れる手を止めた。
「ここ、客室じゃなくて、家族用の部屋でしょう?隣は誰の部屋?」
パトリシアの質問にハンナは少し迷った後で、答えた。
「おぼっちゃまのお部屋ですね」
「え?」
「わ、なんなのあいつ」
その答えにパトリシアとエマは同時に声を上げた。
エマまでが驚いたことに、王女は苦い顔をした。
「どうしてあなたはそれを知らないのよ」
「客室かと思ってしまって」
「いやね。よく見たらわかるじゃない。むしろ今まで気にしていないあなたがおかしいわ」
確かに客室と家族の部屋は場所も部屋の感じも違う。よく見ればわかるけれど、余裕がなかったのも事実だ。
でも、まさか隣がルークの部屋だとは思わなかった。
だけど、そこで急にピシリとパトリシアの動きが止まった。
「え、でもエマとあいつの部屋が隣で」
パトリシアはエマを見て、それからロキを見て、
そして最後にいつもロキが出入りするドアを見た。
「ドアには鍵がない……」
考え込むような顔をして、しばらくして、はたとパトリシアは固まった。
そして数秒間、視線をうろうろさせて迷った後で、言いにくそうにエマを見つめた。
「あの…」
「はい」
パトリシアは珍しく、顔を真っ赤にした。
「ルークと会っていないって言うのは、嘘で…もしかしてあなたたち…」
「え?」
「その、そういう感じ、なの?」
「そう言う感じ?」
「だって、鍵のついていないドアで繋がった隣り合う部屋で寝ている訳でしょう?つまり、その……」
ピンと来ていないエマの耳にパトリシアは口を近づけると、小さく囁いた。
その大人向け恋愛小説でよく出てきそうな内容を聞いて、エマは目を見開いた。
「ち…違います!」
エマは顔を真っ赤にして思わず立ち上がった。
だけど王女は苦笑いして肩をすくめた。
「違っても違わなくてもいいけど…そう思われても仕方ないわよ」
「いや、誤解です。そんなこと、ありません」
「つまり、夫婦の部屋ってことでしょう?」
「ふ、夫婦ではないです。本当に、私はあのドアの向こうは知りません」
「別にお互いが両方を知る必要はないわ。片方だけ知っているだけでもいいのよ」
「……だから、絶対違います」
王女は呆れたように笑った。
「まあ、もうどっちでもいいけど……。そう言う関係だから、将来を見据えて、身の回りの物とか揃えているんでしょう?」
「将来って……」
エマの顔がさらに赤くなった。
必死に否定したけど、王女はそれを苦笑いで受け止めた。
「とりあえず、一つだけ言っておくけど」
パトリシアはエマを見て薄く笑った。
「エマの外堀はもうほとんど埋まっているわ」
その生温かい目が、痛かった。
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