第18話 目が覚めてから

 エマの目が覚めたのは、それから2日後だった。


 雨に打たれたのが原因なのか、ずっと高熱が続いて眠り続けていた。だけどエマ本人はその時のことは全く覚えていない。


 エマが目を覚ましたのはちょうど太陽が一番上がった時間で、それを見てすぐ近くにいた若い女性のメイドらしき人が慌てて人を呼びに行った。


 一人になった部屋でエマは重だるい上半身をなんとか起こした。

 ベッドに寄りかかりながら、エマは部屋の中を見渡す。エマが寝ているのはとても豪華な部屋で、最初王宮のどこかの部屋かな?と思った。だけど窓の外から見える景色が明らかに王宮のものとは違うし、周りの様子も王宮のものとは違った。

 どう考えても王宮の女子寮の自分の部屋ではないし…ここはどこだろうと思ってベッドから出ようとしたけれど、残念ながら体が痛くて起き上がるだけで精一杯だった。

 それでもその柔らかいベッドの上等さに驚いていると、ドアが開いてさっきと違うメイドが顔を出した。


「まあ、目が覚めたんですね」


 初老の白髪混じりのメイドはエマの元へとやってくると、額に手をあてたり、顔色をよく見て、最後に笑って大きく頷いた。

「まだ微熱はありますけど、大丈夫そうですね」

 その笑顔が親しみのある感じだった。


 メイドはほっとしたように息を吐くと嬉しそうに笑った。

「おぼっちゃまもこれで安心しますね」

 だけど、その言葉にエマは眉を寄せる。

「…おぼっちゃま?」

 エマは不思議な顔をした。


 おぼっちゃまって、誰だ?


 だけどそのメイドはエマに何か飲むものをお持ちしますね、と言って部屋を出ようとする。それを慌てて止めた。

「あの、ここは…どこですか?」

 そのメイドは一瞬驚いた顔をして、だけど少ししてにっこり笑って答えた。

「ここですか?ここは…ヘイルズ家になりますよ」

「え?」

「気絶されたお嬢様をおぼっちゃまが連れ帰って来たのですよ。覚えていませんか?」


 何も覚えていない。


 おぼっちゃまが連れ帰ったって…何?


 エマは手を口に当てた。もしかして…。

「は?え?」

 メイドは私を見て、くすくすと笑った。

「おぼっちゃまがね、お嬢さまのこと抱いて馬車から降りて来た時は、私もびっくりしましたよ。あのおぼっちゃまがあんなことをするなんてね。しかもあんな顔で」

 照れたようにメイドが頬を染めた。


 エマの体はピシリと固まった。


 抱いて馬車から降りたって……。

 そしてこんなに周りを困らせるなんて、一体どんな顔をしていたんだ、あの人は。

 聞いているだけで落ち着かなくなる言葉を連呼されて、エマの顔から血の気が引いた。



 だけど、それに気がつかないようで、思い出してメイドはさらに楽しそうに笑う。

「ベッドに寝かせるまで、誰にもお嬢様のことを渡さなかったんですよ。自分が運ぶからって、大事そうに抱きしめて……。ねえ」

 そう言ってチラリとエマを見る。


 ねえ、って言われても困る。

 恥ずかしさで顔から火が出るかと思った。


 でも何よりも大切なことがある。


 ヘイルズ家のおぼっちゃま、と言われてエマが思いつく人は一人しかいない。

 まさか……そう思ったところで、エマの頭に気を失う直前の記憶が戻ってきた。



 あの人に助けられて、その胸の中で大泣きした。

 そう、確かに泣いた。それだけじゃない。


 エマの記憶が確かなら、ルークに泣いて抱きついて、あろうことか、『ごめんなさい』と謝った気がする。

 私が、あの人に。よりによってルーク・ヘイルズに。


 頭の中に記憶が蘇ってくる。


 記憶だけじゃなくて、雨の中で握りしめた黒いローブの感触とか、抱きしめてくれた腕の硬さとか、エマの肩に触れたルークの濡れた鮮やかな髪の色とか、そんなたくさんのことを一気に思い出した。


 エマの背中をさすった、濡れているのに驚くほど熱い、大きな手のひらも。


 あっという間にエマの顔が真っ赤になった。


 思い出したら、恥ずかしくてたまらない。

 私……、とんでもないことをしたかも。

 思わず頬に手を当てて固まる。


「お嬢さま、大丈夫ですか?」

 その声でメイドがエマのことを心配そうに見つめているのに気がついた。

 


「とっても大事にされているんですね。ルークおぼっちゃまに」


 その言葉にエマは思わずベッドの上に倒れ込んだ。



 恥ずかしくて死ねるとはこの事だと思った。

 この言葉を身をもって体験することになるなんて、思わなかった。




 ******


 聞いた話をまとめると、あの日怪我をしたエマを王宮には置いておけないとルークが自分の家に連れ帰った、らしい。だけどその後、エマは高熱を出してしまい、その間ずっとヘイルズ家で医師の診察を受けながら眠っていた。

 と言うことらしい。

 医師を呼んで薬を飲ませたりと、かなり丁重に扱ってくれたようだ。


「おぼっちゃまはとても心配されていたんですよ」

 子供の頃のルークの世話係だったというハンナは、今でもルークをおぼっちゃまと呼ぶ。


 ハンナは優しい見た目と違い、意外に厳しくて、エマがベッドから降りるのもなかなか許してくれなかった。

 まだ微熱が、とか、まだ体がふらついているとか言われて、起きてから2日間もエマはベッドの上で生活していた。そろそろ床ずれができるんじゃないかと心配になったところで、突然ベッドから出る許可が降りた。


 ベッドから出るとすぐに湯を使わせてもらって、きれいに着替えさせられた。急にどうしたのかと思っていたら、すぐに理由がわかった。


 皇太子がお忍びでエマのお見舞いに来ることになったのだ。




 着替えてから人に付き添われてやってきた応接室には、もう皇太子が来ていた。

 お忍びとは言ってもちゃんと何人も護衛をつけた『正統なお忍びスタイル』で、いつもよりかなり簡素な格好をしていたけれど、それでも皇太子のオーラは健在で、相変わらず輝くような美男子ぶりだった。



「今回はエマに迷惑をかけたね」

 ソファに座っていた皇太子はエマを見るとホッとしたように表情を緩めた。よく見るとその表情からは少し疲れているように見えた。

「あの、気にしないでください」

「元気になったみたいでよかったよ」


 そう笑うと、皇太子は簡単に私に事後経過を話してくれた。

 私は気を失ってからずっと寝ていたし、この家の人はあの事件のことは知らないから、その後のことは誰も教えてくれなかった。

 だから私も気になってたくさん質問した。


 あの時の犯人は全員生きていて、皇太子は彼らにそれなりの処罰を与えたこと。

 パトリシアはしばらく反省のため外出禁止、それから大量の公務を行うなどのペナルティが与えられたという。

 だけど、王女が王宮を抜け出して事件が起きた、なんて知られてはいけないので、今回のことは表には出さないことになった。


 皇太子は私の姿を見て、目を細めた。

「ずっと寝込んでいるって聞いたから、パティも心配しているよ」

「私の方こそ、ご迷惑をおかけして」

「いや、君に怪我をさせて、しかも危険な目にあわせてしまったのはこっちだ。申し訳ないと思っている」

 そう言って頭を下げた。恐れ多くてエマは震えた。


 だから慌てて話題を変えた。

「今は王女には誰がついているのですか?」

「ん?王宮で一番厳しい女官を厳選して5人づつ24時間つけているよ。安心して」

 笑顔でそう言い切った皇太子は、それなりに曲者だと思う。パトリシアがうんざりしているのが、簡単に想像できた。


 エマはひきつった笑顔で返事した。

「じゃあ、私が元気になったら、すぐに戻りますね」

 そう言った後で、気が付く。


 あんな事件を起こした側近は、普通はクビだ。

 エマも例外ではないだろう。


 それに気がついてチラッと皇太子を見上げると、視線があった。

「私はやっぱり…クビですかね?」

 意外にも皇太子は首を横に振った。

「いや、エマはお咎めなしだよ。悪いのは全部パティだし、むしろ君は全力で守ってくれたわけだからね。パティの信頼も厚いし、本当ならそのまま働いてもらいたいけど…でも」

「でも?」


 言いにくそうに口籠もりながら皇太子は苦笑いした。

「ルークが嫌がるかもしれないな」

「ルークが?」


 苦笑いのままの皇太子はうん、と言って頷いた。

「今回もね…パティのせいでエマが怪我したから、世話をするべきは私とパトリシアになる。だからエマをヘイルズ家から移して王宮で引き取ると何度も言ったけれど、ルークに断られたよ」

 はあ、と呆れたように肩をすくめる。

「え?」

 驚くエマを見て、皇太子はさらに苦い顔になった。


「本当は目が覚めたって聞いて、もっと早くにエマのお見舞いに来るつもりだったけど、それもルークは許してくれなくて」

「……は?」


 今度こそエマは耳を疑った。

 皇太子の申し出を断るって……。

 ルークはどれだけ偉いのだ?


「だから、仕方なくルークの父親のヘイルズ卿に手紙を出して事情を説明して、なんとか今日お見舞いに来る許可をもらったよ」

 いや、手間がかかったね。

 そう言ってなんでもないことのように笑う皇太子と反対に、エマは笑えなかった。


 なんだかすごい話を聞いてしまった。

 何をしているのだ、あの人は。


「すみません。私のためになんだか申し訳ないです」

 急いで頭を下げたエマを見て、皇太子は笑った。



「ルークはエマのことが大切なんだよ」

「え?」

「大切なんだよ。エマのことが。……とても」

 そう言うと、そっとエマへ視線を向けた。


 皇太子はエマと視線があうとふわっと微笑んだ。

 そうして手を伸ばしてエマの頭に触れた。


 そんなことをされるなんて思わなくて、反射的にエマの体がびくりと反応した。だけどそれに構うことなく、その手はエマの頭を撫でた。


 皇太子はじっと、エマのことを見ていた。

 その目が驚くほど優しかったから、エマは思わず心臓が大きく鳴るのを感じていた。

 皇太子は大事なことを言うように、もう一度言った。


「大切、なんだよ。エマのことが」


 誰が、とは言わなかった。

 その目がじっとエマの目を見つめていて、その視線に絡め取られたみたいに、エマは動けなかった。



 だけど皇太子はすぐにその手を離すと、人差し指を立てて自分の口元に当てた。エマを見て、今度は悪戯っぽく笑う。


「今のは、私とエマだけの秘密だよ」


 エマがそれに目を丸くすると、その顔を見て、またクスリと笑った。


 それから顔をずらしてエマの後ろに控えていたハンナにもにこりと笑いかけた。

「聞いていたよね。今のはルークに言ってはいけないよ。絶対に」


 ハンナがどんな返事をしたのか、わからない。

 だけど皇太子は満足そうに笑った。




 その後ですぐに、いつものように笑った。

 もう、その顔も仕草も話し方も、いつもの皇太子だった。

「でもエマも元気になったから、ルークも安心しただろう。あいつ、エマにしつこくべったりくっついているんじゃないのか?」

 呆れたように話す皇太子の言葉に、エマは困って首を傾げた。

「いや…それが。まだ会っていないんです」

 皇太子は驚いて目を丸くした。


「え?ルークに会っていないの?」

「はい。忙しいん…ですよね?」

 エマの問いに困ったように皇太子は肩をすくめた。

「忙しいといえば、忙しいけど……。でも毎日この家に帰っているよ」

「そうなんですか」


 毎日家に帰っていて、だけどエマのところには顔を出すことはなかった。

 それって、もしかして…嫌われた?

 勝手なことをして、心配させて大騒ぎになって…呆れられた?


 そう思ったらエマの気持ちが、思っていたよりもずっと、落ち込んだ。

 別に好かれていたいわけではない。

 だけど嫌われていると思うのは、また違った衝撃がある。



「エマ、気にすることはないよ」

 あからさまに気落ちしているエマを励ますように皇太子が笑った。

「あのルークがね、君を助けに行く時は、あり得ないくらい感情を剥き出しにしていたんだ。ルークはいつも冷静だからね。あんなこと、今まで見た事がなかったよ」

「そうなんですか?」

「そうだね。必死だったんだよ。あのルークが」


 そう説明されても、簡単に信じられない。

 そんなエマの気持ちを励ますように、皇太子はエマの肩を叩いた。


「あんなにまでして守った君のことを、嫌いになることなんてないよ」


 そんな言葉を残して、皇太子は颯爽と帰っていった。



 ******


 ハンナに付き添われて部屋に戻って、部屋のソファに座ろうとして、ハンナが怖い顔をしてエマを見た。

「お嬢様、疲れたでしょう。休みましょう」


 エマはそれにうんざりする。

 もういい加減椅子に座って過ごすくらい、許してくれてもいいではないか。

「大丈夫よ。もう元気だから、座っていようかと思って」

「足を引き摺ってましたよ」

 それにぐ、と言葉を飲み込んだ。


 確かにあの時挫いた足はまだ痛む。

 見られていたのか、とため息をつく。


「ダメです。休みましょう」

 腰に手を当てて怖い顔をするハンナに、エマは視線で訴えてみる。

「ダメです。お嬢様に何かあったら、おぼっちゃまに怒られます」

「おぼっちゃまって……」


 別に会っていないんだからいいじゃないか。


 そう、拗ねたように言おうとした時だった。


 廊下につながるドアではない、壁側のドアが開いて、そこから白いモコモコが部屋に入ってきた。



 その白いモコモコは、部屋の中に入ってくると、そのままエマを見た。

 視線があって、エマは驚く。

「……犬」

 エマが呟くと、その犬はエマの目の前までやってきて、エマの顔をじっと見つめた。

 その犬は真っ白で、ふわふわの毛に覆われていた。真っ黒いつぶらな瞳がエマを見ていて、可愛らしい。

 エマがそっと頭を撫でると嬉しそうに体を擦り寄せてきた。

「うわ」

 体の大きい犬だから体を寄せられて、思わず体のバランスを崩して、椅子から転げ落ちた。

 だけど犬は構わずエマの顔を舐める。



 エマがその犬をぐりぐり撫で回していると、ハンナが困った顔をした。

「あら、入ってきちゃったんですね」

「この犬って?」

 エマの質問にハンナは笑った。


「おぼっちゃまの犬なんですよ。おぼっちゃまがまだ子供の頃に飼い始めて、それからずっと一緒にいるんですよ。とっても可愛がっていますよ」



 それを聞いて、エマは思い出した。


 魔法学校の卒業パーティで言われたこと。

『君は僕の家で飼っている犬に似ている』

 ……それって、この犬のことだ。


 思わずじっとその犬を見つめてしまった。

 似てない…気がする。



 その犬はエマの目を見て、キョトンとしたように首を傾げると、少ししてまるで笑っているように口を開いて、エマの顔を舐めた。

「あら、気に入られちゃいましたね」

 その様子を見てハンナが嬉しそうに笑った。

「気難しいんですか?この子」

「そうですね。気に入らない人にはそっけないですよ。でもその人のことを気に入るともう、べったりです」

 飼い主と同じですね。そう付け加えてハンナは笑った。


 ベタベタしてくる犬を撫でてあげながら、エマはハンナに質問した。


「私とこの犬…似てますかね?」

「どうしてそんなこと、聞くんです?」

「昔、ルークに言われたんです。私がこの犬に似ているって」


 返事がないことに気がついてハンナの方を見ると、視線があった。

 ハンナはじっとエマを見つめて、それから苦笑いすると、返事をしないで出ていった。


 え?どっち?


 思わずエマは顔をしかめた。






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