from Y to Y

岡崎市の担当T

柔らかな土の薫る いつもの駅で

―― 例えば、待ち合わせに遅刻した彼氏への「ばか」という伝言。

―― 例えば、連絡のつかない知人に予定の変更を告げる連絡網。

―― 例えば、電車が何分遅れていますという駅長からの謝罪文。



 面積の少ない平野部に田畑が広がり、農協と商店街が未だ幅を利かせる町。コンビニなんて洒落たものも無ければ、都市伝説レベルのショッピングモールなんて物も存在しない。生活できないほどではないが、決して便利とは言えない、山間やまあいの片田舎。

 そんな町に、何十年も様相の変わらない、古ぼけた駅がある。


 決してゼロではないものの、採算は取れない程度の利用者数。改札も券売機もない、木造平屋という時代遅れの駅舎。


 その入り口右横7歩の所に、色あせた黒板がある。


 大多数に向ける広告でありながら、個人のやりとりにも使われた用途の広さ。携帯やインターネット、果ては電光掲示板さえ無いような時代において、往来・喧騒の中心だった駅という場所には、必ずあったらしいそれ。



 掲示板。



 伝わった、伝わらなかった、数多くのメッセージが詰まっているであろう、その名残。

 学校に行く為にその駅を利用する私、佐倉 所縁さくら ゆかりは、通りがかる度に、その黒板がどうしても目に留まる。









 期末のテスト週間に入り、授業後は早々に帰宅。二両編成の電車に揺られること二十分。

 ギシギシという不安を煽る音と、不必要に揺れる車体のあわせ技をもつ御老体は、今日も無事にこの駅へと辿り着いてくれた。電車の停止を確認して、ランプの点灯したドア両脇の開閉ボタンへと手を伸ばす。


 毎駅乗客の乗り降りがあるわけではないこの路線の車両には、自動ドアなどという便利な機能は完備されていない。冷暖房の節約がどうとかで、ホームに電車を待つ人が居る時ですら、各車両の真ん中、都合二箇所ほどしか自動では開かないそうだ。

 両端の扉にデカデカと書かれている、外気に晒され色褪せた文字。


『このドアは開きません』


 存在に価値がない。



 私ともう一人、小中高とクラスが分かれたことすらない、生粋の幼馴染で無二の親友、志野 翔子しの しょうこと二人連れ立って、電車から降りた。濃紺色のスカートと、後ろで留めた栗色の髪先が、風に吹かれて肌をくすぐる。

 真っ先に目を引くのは、ホームの柵の向こう。急勾配の山肌を駆け上がる、石垣と緑の映える段々畑だ。脇を流れる小川では、からからと水車が音を立てている。見慣れれば見慣れる程に、田舎具合が際立つ景色だ。


 駅舎に程近い先頭車両の運転席。

 鉄道員の制服を着た中年の車掌が、窓から上半身だけ身を乗り出していた。ちゃんと出てこないのはサボりだと思う。

 定期を見せて彼の横を通り抜けると、何故か横に居たはずの翔子の姿がない。


所縁ゆかり!」


 名前を呼ばれて後ろを振り返ると、車掌の目の前で立ち止まり、鞄をまさぐっている翔子がいた。次いで制服のポケットを叩く。ホームの方を見渡してもう一度、今度は手を突っ込んでポケットを確認。

 動作が次に進む度、焦りが酷くなっていく。


「定期! ちょ、定期が無い! 所縁! 貸して!!」


 貸せるわけないでしょ馬鹿。


 ピークに達したのか、こちらに手を伸ばしながら叫ぶ翔子。肩口でシャギーの入った緩いウェーブの黒髪を振り乱し、気の強そうなつり目が右往左往していた。

 車掌さんが苦笑してこっちを見ている。仕事の邪魔してすみませんと、視線で謝っておいた。


「乗る時鞄に入れてたじゃない。内ポケに無いの?」


 しょうがないなぁと溜息一つ、心当たりを告げると大慌てで再び鞄を開ける。それだけ確認し、私は駅舎の外に出た。


 親友の勝鬨かちどきをBGMに、入り口脇へと目を向ける。


 一日二回は流し見る、黒い板。

 建物と同じ時を歩んできたのだろう。その表面は所々が剥がれ落ち、書いては消し、書いては消しを繰り返されてきたために、既に全体が白ばんでいる。

 使おうと思えばまだ、掲示板として機能はするだろう。いつから在るのか見当もつかない風化しかけたチョーク。白粉の染み付いた黒板消し。視線を上に向ければ、うっすらと「お忘れ物」や「伝言」といった、掠れた文字も読み取れた。


 けれど、使えるからと言って、使う道理があるわけでも無く。携帯という連絡手段が確立した昨今、私のように思うところが無ければ誰も目を向けやしないだろう。意識の片隅にも、留まりはしないだろう。それが普通。それで当たり前。私だってそのうち気にもしなくなる。


 そう思っていた。









 翔子と別れ、少し足早になりほんの数分。

 スペースは在っても、肝心の車が無い車庫。石彫りの表札には『佐倉』の字。住宅地にある他の家屋と同様に、少しひなびた一軒家。

 私の家だ。


「ただいま、お兄ぃ」

「おぉ」


 敷居をまたいですぐ左にある居間の更に奥。兄『浩一こういち』の書斎と化した仏間から、適当な返事が返ってきた。上に部屋があるくせに、わざわざ布団まで持ち込んで、こんな所で寝泊りしている奇特者だ。

 以前「何でそんなとこ書斎にしたの?」と聞いてみたら「階段上り下りしたくねぇ」と、なんともダメダメな回答を貰ったことがある。

 ちゃぶ台を迂回して襖を潜り、部屋の右隅にある仏壇の前に正座。両親に帰宅の挨拶をと、手を合わせしばし黙祷。


 一つ息を吐いて目を開ける。

 左を向くと、ローテーブルに置かれたノートパソコンと真剣に睨めっこするお兄ぃの横顔が見えた。寝巻きであろう、愛用のスウェットとTシャツ姿だ。確実に着替えていない。というか、三日に一回くらいしか洗濯物が出てこない。パンツだけは変えているのが救いか。せめて髭くらい剃りなさいよ、みっともない。


 二つ目の息を吐いて、視線を彼の後ろにずらす。

 辞書や辞典に始まり、ファッション雑誌に料理本、政治経済の専門書から、子供向けの絵本まで、実に様々な冊子が畳の上に散乱している。仕事の資料だと分かってはいるが、些か節操が無さ過ぎではないだろうか。あまり仏間を散らかして欲しくないのだが。

 …ちらりと見えた、いかがわしい写真集はどっちだろう? どうにも判断に困る。


 まぁ、こんな無精者でも、学生の頃から物書き一本で家計を支えてくれている一家の大黒柱なのだ。ご近所では『浩ちゃん先生』なんて呼ばれていて、これでかなりの有名人でもある。言いたいことは山ほどあるが、あまり強くも言えないのが辛い所。


 三つ目の息を吐いて立ち上がる。

溜息をつくと幸せが逃げると言うが、なら私は今いくつ幸せを逃がしただろうか、なんて迷走した思考を抱えながら、四つ目の溜息をついて階段を上った。


 二階にある自室。ドアの正面に横向きに設置された学習机に鞄を置いて、胸元のスカーフを外す。

 白い壁紙に、ベージュの枕と絨毯が目立つ部屋。ベッドの向かいにある本棚の上には、いくつかの小物と共に、家族5人の集合写真が飾られている。


 左で長男が父に絡まれ、長女は真ん中で頭を撫でられ、右には母に抱かれた末の弟がいた。

 涙が出そうな、その光景。一瞥だけして、すぐに視線を他所へと逸らす。


 衣替えしたばかりの半袖の白いセーラー服から、ネイビーのデニムパンツに薄い水色のニットカーディガンという、若干衣替えの済んでいない私服に着替え、財布を手に取り部屋を出た。

 少しだけ奥歯に力を込めながら、階段を下る。


 一階に下りて暖簾を潜り台所へ。連絡網やら町内行事予定やらが張られたコルクボードの前を横切り、冷蔵庫の中身をひとしきり確認。分かりきっているけど一応聞いておこうと、隅に古新聞の積まれた廊下から、居間を挟んでボサボサの後頭部に一声問いかけた。


「買い物行くけど、晩御飯何がいい?」

「刺身」


 背中を向けたまま、こちらを見ることも無く即答するお兄ぃ。靴を履きながら、呆れの言葉も吐く私。


「好きだね。相変わらず」

「当然」


 手繰り寄せた資料にかじりつきながら、またも二文字。本当にぶっきらぼうな答えしか返さない人だ。私の親友はこの朴念仁の一体どこに惚れたのか、小一時間ほど問い質してやりたい。


 縦格子とスモークガラスの玄関を開け、行ってきますと外に出た。

 少しだけ、雲が多めの青空を眺める。




 梅雨時の珍しく晴れた六月のある日。今日はお兄ぃの二十三歳の誕生日。普段は何食べたいかなんて聞かない。値段を見てから何を買うか決めるからだ。

 で、明日は私の誕生日。何が食べたいかなんて考えない。買い物に行った時、欲しいと思ったものを買うからだ。


 ……欲しいと思うのが例え安いという理由からでも。


 橋を渡り左に折れて、用水路沿いをしばらく進む。右手側には田んぼや畑の広がる開けた空間があり、その向こう側に目指す商店街が見える。突き当たった少し大きめの道を右折し、白線と畦に挟まれた狭い範囲を目的地までひた歩く。

 商店街の外縁。二,三日置きに必ず足を運ぶ最寄りのスーパー。キュウリ、ナス、トウモロコシ等、人間同様に夏模様へと衣替えを始めた野菜の陳列棚と、夕飯の買い物に沸き立つ主婦達の間を抜けていく。

 安いものは無いかと視線を巡らせながら、まずは目的の鮮魚コーナーへ。


「浩ちゃん先生の誕生日か。よし、好きなの持ってけ。全部にタイムセールの札張ってやる」


 そう息巻くエプロン姿の店長さんが、たこすずきかれいかつおまで、全部半額にしてくれた。

 いつもお世話になります。奥さんに怒られないと良いですね。

 そう思いながら、引き摺られて行く彼に手を振った。


 豚肉が安かったし、付け合せにもう一品、豚汁でも作ろうかと、材料を求めて店内を行ったり来たり。以前「大根に味が滲み込んでねぇ。一晩寝かせろ」とか言われたっけ、あの馬鹿兄に。

 ……なんか、むかむかしてきた。


「……所縁ちゃん?」


 呼び掛けられてはっとする。大根を手にしながら、頭の中で奴の間抜け面に拳を入れていると、周りに居た奥様方が、なんとも言えない表情でこっちを見ている事に気が付いた。どうやら随分と不機嫌な顔をしていたようだ。

 何でも無いですと縮こまりつつ、そそくさとレジへ向かう。


 大根をそのまま持って来ていることに気が付いたのは、レジに入った後だった。丸々一本も、腐らす前に使いきれるだろうか……。




 会計を済ませ自前のエコバッグに食材を移す。空になった籠を足元に重ね置いて顔を上げ、不意にあげそうになった悲鳴を必死に飲み込んだ。

 視界一杯に広がった、見知った顔のドアップ。彼我の距離は二十センチも無い。目玉が飛び出るかと思った。

 引き攣る頬をどうにか押さえて、とりあえず声をかけてみる。


「…こんにちは。何してるの? おばさん」


 ジーンズに長袖のTシャツという、ラフな格好をしたショートカットの中年女性。翔子の母だ。台の反対側から手をついて、こっちに身を乗り出している。こんな姿勢でも私と視線の高さが変わらないのはなんか悔しい。


「相変わらず不景気な顔してるなと思って。目が死んでるわよ?」

「ほっといてください」


 出会い頭にずいぶんな物言いだ。自然、半目になる。


「そんなイジけたように睨んでも可愛いだけよ?」


 そう言った彼女に微笑まれて、言葉に詰まる。だめだ。この人にはどうしても勝てない。

 一度目を伏せ、今日何度目か分からない溜息をついた。


「浩ちゃんの誕生日だし今日は来るだろうと思ってね。待ってたのよ」


 そんな私の様子を他所に、手提げ袋から何かを取り出す。

 現れた物を見て、私は絶句した。


 扇情的なポーズを取る女の子の表紙絵。直接的な単語が飛び交う見出し文字。グラビアではない、はっきりとした危険域。


 そう。エロ本だ。


「浩ちゃんがこないだ本屋で立ち読みしてたの。買わずに帰ったから誕生日プレゼントにと」

「直接渡してください!!」


 顔を真っ赤に染めて叫んだ私は、絶対に悪くない。何事かと周囲の注目を受けるも「ああ、なんだ。志野の奥さんか」とすぐさま霧散した。なんという信頼感。もちろん皮肉だが。


 すると彼女はおもむろに、顔の前に持ってきたそれの表紙をゆっくりと捲った。意味深な行動に自然と視線が向く。

 現れたそれが見えた途端、私は悲鳴を上げた。



 ピンクで書かれた「妹特集」の文字は、最早他人事ではない。



「冗談よ。本命はこっち」


 期待通りの反応だったのかケタケタ笑いながら冊子を台に置き、もう一度鞄に手を入れた。何処からが冗談か、真剣に問い質すべきだろうか。

 面白半分でこんな物買ってこないでよ、と、毒つこうとしてもう一度絶句。

 ドンと置かれた二升ビン。地元の蔵の銘柄の、しかも一番高いやつ。お酒ってこんなサイズが売っているのかと、少し唖然とした。


「祝い酒よ」


 でか過ぎるよ。


「ちなみに一升は浩ちゃんの分だけど、残りの一升は明日のゆーちゃんの分ね」

「私、未成年です」


 一日違いの誕生日を一緒くたに扱われる事に今更思う所など何も無いが、さすがにプレゼントまで纏められたのは初めてだった。

 お兄ぃはともかく、私はお酒なんて貰っても正直困るのだけど。


「少しくらい羽目をはずすのも時には必要よ?」


 暗に呑めとそう言い捨てて、じゃあねーなんて陽気に手を振り彼女は立ち去った。


 二升。3.6リットル。瓶の重さも含めれば優に4キロを超える。持って帰れというのか、これを。

 辟易しながら、鎮座する大質量を睨みつける。贈られた身で言えた義理ではないが『来るだろう』なんて曖昧な根拠で持ち歩く位なら、いっそ家まで届けて欲しかった。

 米に混ぜて炊くと美味しそうだけど、こんな高い酒を調理酒として使うのは些か抵抗がある。結局、全部お兄ぃのお腹に収まる事になるのだろう。ヤツの駄目人間具合がまた進行するのかと思うと、やっぱり溜息が漏れた。

 しぶしぶとスペースを作り、どでかい瓶も袋に詰める。

 季節を先取る大量の花火とか、梱包用のプチプチだとか、今までの頭を抱えるようなプレゼントと比べれば遥かに実用性はあるのだが、ほとほと微妙なことに変わりはない。ギャグなのかマジなのかの区別も付かない。何がしたいのだろうか、あの人は。


 悪癖だという自覚はあるが、どうにも止まない溜息をもう一つ。見慣れたスーパーを後にする。




 きっちりと置いていかれたエロ本は、もう見なかったことにした。









「お帰り、お姉ちゃん」

「うん。ただいま」


 台所でランドセルを背負ったまま、昌人が麦茶を飲んでいた。こっちに気付いて振り返り、声をかけてくる。私はその横に並び、挨拶を返しながらテーブルの上に買い物袋の中身を広げた。

 私の胸くらいまでしかない身長。時計回りのつむじが見える。


 大根はこのままじゃ冷蔵庫に入らないな。半分に割らないと。そう思い脇に避けると、昌人がすすすっと。置かれたそれから、あからさまに距離をとった。

 そんな嫌がらなくてもいいじゃない。大丈夫よ、今日は使わないから。




「お兄ちゃんはまたお刺身?」


 主菜だけ並べられた食卓。二階から降りてきた弟の昌人が、ちゃぶ台を覗き込みながら、お兄ぃに訊ねた。


「お前嫌いだっけ?」


 お兄ぃがキーボードを叩く音を響かせながら訊ね返す。


「そんなこと無いけど」


 それだけ言って、ちょこんと座る昌人。

 キッチンで炊きあがったご飯を掻き混ぜ、しばらく蒸らしていた私は、二人の会話を背中越しに耳にして、眉がハの字になる。弟の好みくらい把握できないのかしら、この唐変木。

 煮立った豚汁の味を見て、そろそろ良いかと声をかける。


「昌人、運ぶの手伝って」

「うん」


 二つ返事で駆け寄ってくる、今年でようやく年齢が二桁になる弟。はねた襟足がぴょこぴょこ揺れる。子犬を彷彿としたのは内緒にしておこう。

 支度が整って、ようやくパソコンから離れるお兄ぃ。三人揃って、頂きますと手を合わせる。

 刺身を一切れ摘みながら、お兄ぃが私に視線だけ向けて口を開いた。


「明日は所縁が誕生日だろ。何か欲しいものあるか? 食いたいもんとか」

「現金か松茸」


 思考を挟む余地すら無く口が滑った。


「何だその夢の無い答えは」


 刺身を醤油に浸し、呆れたような声を出すお兄ぃ。


「家計を預かる者としては最大級の夢なんだけど?」

「・・・・・・あっそ」


 冷めた私の返答に、諦めたような表情で刺身を口に放り込んだ。私も十分ぶっきらぼうなのだろう。まぁ、こればっかりはしょうがない。



 誕生日だなんて、手放しで喜んでいられる日でもないのだから。



「昌人、明日検診行くからまっすぐ帰ってきなさいよ。私も学校終わったらすぐ帰るから」

「あ、うん」


 自分の誕生日と、昌人の一年検診が重なるようになって三年目。仏間にある、両親の遺影を眺めて思い返す。

 絶対忘れない日を選んだつもりだったが、お兄ぃと翔子に、口を揃えて「お前、枯れ過ぎ」なんて言われたっけ。

 うん、そろそろ吹っ切れたのかも。


 「何がいけないの?」と、泣き叫んだあの日が懐かしく思えるくらいには。









 風呂から上がって、回しておいた洗濯物を干してから、机に向かい宿題を始める。


 昔、結婚記念日にお父さんから聞いたんだ。昔あの掲示板にこう書いたらしい。


『彼女募集中!』と。


 それに対しお母さんが書き込んだらしい。


『私、立候補!』って。



『『何そのレトロな出会い系』』


 と、お兄ぃと一緒になって馬鹿にしてやった。お母さんが本気で涙目になっていて、びっくりした覚えがある。

 機嫌を取ろうとしたんだ。まだ幼い昌人は自分たちで面倒を見ると。記念旅行だし二人で行ってきなよって。



 数学の文章題に眉を顰めて唸っていると、時計の針が十二時を指し一音奏で、私が十七歳になったことを告げる。ほぼ同時に携帯が鳴って、親友からの誕生日メールが届いた。絵文字と顔文字が乱舞する文面に、XだのYだのと言った難敵が一時思考から追い出され、眉間の皺が取れる。


 『意地悪言うお兄ちゃんお姉ちゃんなんか知らないもん』って年甲斐も無く可愛く拗ねて。お父さんはお父さんで爆笑しながら結局3人で出かけて。




 帰ってきたのは、包帯だらけの昌人だけ。




 それからだ。

 通る度にあの掲示板が気になるようになったのは。









「いってきまーす」


 朝食を終えて、私と昌人は家を出る。お兄ぃはいまだ夢の中。ただ、隣を歩く昌人も夢の中なのは問題あると思う。


「所縁ー」


 家の付近とは違い、蔵なんかの並ぶ、古いというより古風な町並みを抜けると、待ち合わせ場所になっている踏切の前で、翔子が妹の頼子よりこちゃんと一緒に手を振っていた。


「おはよう翔子」

「おっす」

「メールありがとね」

「なんの」


 朝の挨拶と簡潔な感謝の言葉に、はにかんだ様な笑顔で答えてくれる翔子。何の変哲も無いこんなやり取りに、救われている自分がいる。


「頼子ちゃんもおはよう」

「おはようございます」


 昌人の頬をぺちぺちと叩いている頼子ちゃんにも挨拶を投げかけると、折り目正しい返球をくれる。男勝りな翔子とは似ても似つかないな。顔は似てるんだけど。


「おぁおぅふぉぁいわふ……」

「今日もおねむだな、昌人」


 すぐ横では、相も変わらず呂律の回らない朝の昌人に翔子が苦笑していた。


 頼子ちゃんに手を引かれて、線路沿いに小学校へと向かう未だ寝ぼけ眼の昌人を見送る。

 踏切を横断して直ぐの駅。いいタイミングで来た電車に乗り込みながら、翔子から毎年恒例のお誘いを受けた。


「帰りどっか寄る?」

「ごめん。昌人を病院に連れて行かないと」

「そっか」


 分かっていて、それでも遊ぼうと誘ってくれる親友に、心の中で感謝する。なかなかそれに応えられない自分を、もどかしくも思う。


「主婦も大変だね」

「誰が主婦よ、誰が」

「近所のおばちゃん連中と井戸端会議に興じる様はまんま主婦なんだけど。自覚無い?」

「・・・・・・」


 おかしいな。否定できない。

 口を尖らせている私を余所に、電車はゆっくりと走り出した。









「だから、あのズボラさが良いんじゃん」

「ごめん翔子。何度言われても私には理解できないわ」


 放課後の帰り道。翔子にお兄ぃのどこがいいのか久方ぶりに聞いてみた。その想いが変わっていることを願ったのだが、結局”あばたもえくぼ”は変わらないようだ。早いところ目を覚まさないだろうか。


 結局、ノロケながら奴のダメなところを列挙していった翔子。辟易した私は空返事を繰り返した後、いつもの三又路で未練なく別れた。語り足りなさそうな翔子を振り返りもせず、まっすぐ帰って玄関をくぐる。

 鞄を置いて腰を下ろし、靴を脱ぎながら家の中に声をかけた。


「ただいま」

「おけぇり。おめでと」

「ありがと。昌人は?」

「まだ帰ってきてねぇよ。」

「そう」


 脱いだ靴をきちんと揃え、昌人の靴が無いのを確認して家の中へと振り返る。

 すると、廊下の突き当たり、洋式のトイレで便器に座り、顔を向けながら答えるお兄ぃと視線が合った。


 もう一度言う。視線が合ったのだ。


「何だよ?」

「扉を閉めろと何回言わす気? ど変態」

「開放感よくない?」

「よくない」


 悪びれる様子も無く、夕刊片手に寛ぐお兄ぃ。人の誕生日になんて物を見せてくれるんだ、こいつは。写メ撮って翔子に送ってやろうかしら。さすがに夢から醒めるだろう。

 …私が変態認定受けそうだけど。ただでさえブラコンとか言われているのに。ちなみに弟の方だ。断じて兄ではない。

 ツカツカと廊下を進み、思いっきり扉を蹴飛ばして、トイレの横にある階段を上り自室に入る。昌人が帰って来るまで宿題でもしようかと、着替えを済ませて机に向かった。






 ふと時計を見ると三十分経っていた。

 窓の外に目を向けるも、まだ帰ってくる気配は無い。


 ちりちりとする感覚に蓋をして、再びテキストに視線を落とした。




 四十五分。

 おかしい。学校はとっくに終わっているはずなのに。

 視線は目の前の文章を追っているにも拘らず、内容が頭に入ってこない。

 周りからはよく過保護過ぎるといわれている。今日も考え過ぎなんだって思いたい。

 けど…。




 五十分。

 違和感からはっきりとした焦燥に変わる。一向に進まない宿題を放置し、居ても立っても居られず机を離れた。

 居間に下りてもう一度時計を見る。


 五十三分…。




 唐突に

 けれど鮮明に

 三年前のあの日の光景




 白地に赤いまだらの映える昌人が、不意に脳裏へ蘇る




 やだ。何これ。

 まるであの時みたいじゃない。


「所縁」


 弾かれたように顔を上げると、お兄ぃがすぐ傍に居た。

 自分の顔が青褪めているのが判る。


「少し落ち着け」

「でも…、もしバッテリーが切れてたりしたらあの子…!」


 眩暈がして、こめかみに手を当てる。きっと私の目は今、焦点が合っていないだろう。軽いパニックを起こし、視線がせわしなく揺れているのを自覚する。


「そんな唐突に切れるようなものじゃないし、切れたとしてもすぐにどうこうなる病気じゃない」

「でも・・・・・・だって・・・・・・!」


 ぐしゃぐしゃに潰れた、現実味のない車だった筈の残骸。

 あまりの惨状に、死後の面会すら叶わなかった、記憶の中の最後の両親。

 

 何を考えても嫌なイメージしか沸いてこない、心臓を鷲掴まれるこの感覚。




 だめ。耐えられない。




「やっぱり探してくる!」




 そう言って家を飛び出す。

 お兄ぃが何か言っているけれど、耳に入ってはこなかった。









 只管ひたすらに走った。

 倒れたとするならまずは通学路。よく遊ぶ小さな公園、用水路をかねた小川、昌人の通う小学校。

 いない。見当たらない。

 来た道を少し戻り、踏み切り手前でふと思い至って、いつも使う駅に出た。無人駅じゃ手がかりなんて無いだろうけど。

 息が続かなくなって、肩で駅舎にもたれかかる。

 家の事にかまけて部活を辞めてから、まともに体を動かす機会なんて体育の授業くらいしか無かったっけ。完全に運動不足だ。体重に変動が無いからって油断し過ぎた。呼吸のリズムがなかなか戻ってくれない。

 それでも、回復を待つ余裕なんか無いと、歯を食いしばって顔を上げた。


 こんなときでも、いや、こんなときだからこそなのだろうか。やっぱりそれが目に入る。


 掲示板。

 個人へ、あるいは不特定多数の誰かへの、伝言をしたためるもの。


 酸欠で朦朧もうろうとし始めた頭が、棒になった足を引きずって、吸い寄せられるようにぼろぼろのチョークを手にとる。



 ――弟を探しています 小学校四年生です 見かけたら書き込みください――



 徐々に揺れる文字。荒い息をついて、少し正気に戻る。

 眉間に皺が寄ってくるのを自覚した。冷静になればなるほど、自分の行動の馬鹿さ加減に腹が立つ。


 こんなもの、今時誰も見ない。

 廃れて何年経ったかも分からない。

 だから、握り締めたこぶしを一度だけ叩きつけて。




 きびすを返した。









 もしかしたら寄り道でもしたのかもしれない。ならばと、一番近場の翔子の家にも走った。

 妹の頼子ちゃんは、昌人より学年は1つ上だが一番仲がいい。二学年一クラスだから、一つ違いの二人は二年に一回、同じ教室になる。今年は違うクラスだが、それでも毎日一緒に登下校しているのだ。

 一番の親友もその母親も、うちの事情には明るい。志野家に居るのであれば、帰るよう促されるか、少なくとも電話の一本くらいは有る筈だ。何も無いということは彼女たちも知らないのだろう。

 そう考え後回しにしていたが、もし頼子ちゃんも居ないようであれば一緒に居てくれる可能性が高い。それなら少しは安心できる。そうでなくとも何かしら手がかりは在るかもしれないなんて、わらにも縋る思いでチャイムに手を伸ばした。


 その希望的観測は、すぐに砕け散る。


 フラフラの私を見て、咥えていたアイスを落とす翔子。息も絶え絶えに「帰ってこないの」と、どうにか一言を口にする私。それだけで理解してくれたのか、大声で頼子ちゃんを呼んでくれた。


「今日は一緒に帰ってない。迎えにいったらもういなかった」


 と。私の様子に怯える頼子ちゃんからそれだけ聞いて、私はまた走り出す。


「頼子! おっかぁに今の知らせて! 私も行くから!」


 そう言った翔子も後を追って走り出した。






 途中でお兄ぃから電話があった。学校を出たのは先生に確認が取れたそうだ。思い当たる限り友達の家にも連絡を取ったが、手がかりは皆無。近所のおばさん達も探し回ってくれているらしい。


 立ち止まったのは、その報告を受けた数十秒のみ。通話を切った私は、乾ききったのどをつばで潤し、また走り出す。




 五十はある石段を駆け上がり、鳥居をくぐる。盆祭りや初詣で世話になる、出店の連なる賑やかしい印象の境内。

 そんな名残、今は何処にも見当たらない。


 手水舎の影、社の裏手、縁の下など、思いつく限り見て回った。昌人の身体能力で登れるわけが無いけれど、上った挙句に下りられないなんて何処ぞの子猫のような状況を期待し、念のため御神木も見上げてみる。

 影も形も無いが、落胆も無い。それ以上に焦りが勝った。堪らず昌人の名を叫ぶ。



 返事なんて、あるはずも無く。




 見切りをつけて、今度は階段を駆け降りる。

 降り切った所で足が言うことを聞かず、盛大に転んでしまった。上るより降りる方が負担は大きいんだっけとか、階段の途中じゃなくてよかったとか、普段なら考えたのだろう。

 けれど、今の私にそんな余裕は何処にも無い。立ち上がりながら浮かんできたのは、きっと今の私の原点。


 三年前、医者に言われた言葉が、唐突に頭の中を反芻する。




『第二度房室ブロック?』

『はい。事故の際、心臓に強い負荷がかかったようで、ヒス束という伝達神経に異常をきたしています』


 脇腹を押さえ、また走る。車線も街灯も無い、落ち葉の溜まった荒れた林道。歯を食いしばり、ペースを上げる。


『房室ブロックは第一度から第三度まであり、第二度はさらにウェンケバッハ型とモービッツⅡ型の2つに分けられます』


 国道に差し掛かり、視界が少し開けた。立ち止まり、体ごと周囲を見渡す。何一つ見落とすまいと、目を皿にしてその姿を捜した。


『第一度、あるいは第二度でもウェンケバッハ型ならば日常生活に支障は無いのですが…』


 不意に後ろから大きな音が鳴り響き、驚いて振り返る。車のクラクションだ。小さな悲鳴と共に道路の脇で盛大に尻餅をついてしまう。

 カーブを曲がってきたのだろうそのトラックは何事も無かったかのように、またその先のカーブを曲がり姿を消した。荒い呼吸を吐きながらそれを見送る。


 堪えていた涙が、少し溢れた。しゃがみ込んだまま頭を振って雫を払い、探し人の名を精一杯に呼びかける。


 どれ程必死になろうとも、

 誰も何も、応えてはくれなくて。



『ペースメーカーの埋め込み手術をお勧めします』



 打ち込まれた楔だけが、心の内で虚しく木霊した。





―― モービッツⅡ形は、突然死の危険があります ――









 もうすぐ日が暮れる。

 赤く染まる世界。今は綺麗だなんて思えない。沈まないでと、叶うはずの無い願いを込めて、揺らめく太陽を睨み付けた。

 寒い。脱水症状を起こしかけている。酸欠も酷く、意識が白濁とし始めた。視界まで覚束なくなってくる。


 ふと気がついたら駅にいた。いつの間にか足が向いていたようだ。


 壁に手をついてうずくまる。

 肺が痛い。脇腹も痛い。暴れまわる心臓は治まる気配すらない。

 休んでいる暇なんか無いと、どうにか顔を上げた私の視界に、今日四度目のその姿。


―― 馬鹿馬鹿しい。


 かすんだ視線を向け、乱れた呼吸の短い合間に鼻で笑う。こんな物にすがっている自分に嘲笑すら覚えた。

 わかっている。父さんと母さんのような偶然は、今の世の中ありえない。私だってそうだ。自分のことだけで精一杯。人間の視野なんて、酷く狭い。


 かすれて読めない文字の中、真新しい白い文。



―― 弟を探しています ――


 笑う膝を叱咤し、立ち上がることに全力を込める。

 

  ―― 小学校四年生です ――

 

 こんなものは今時誰も見ない。廃れて何年経ったかも分からない。


    ―― 見かけたら書き込みください ――


 だから、握り締めた拳をもう一度叩きつけようとして






―― 上り方面二駅先でそれらしい子を見かけました ――






 奇跡に感謝した。









 照明は有るものの光量が弱く、どこか仄暗い車内。人影は疎ら。と言うか、私の他には車掌さんしか居やしない。お金を払った私に切符を一枚手渡して、彼もこの車両から直ぐに出て行ってしまう。

 横向きの座席に座り、ガラス張りの窓に後頭部を預けた。そのままこてんと首を右へ回し、顔だけ進行方向へと向ける。

 線路の凹凸に揺られながら、虚ろな目を右に寄せて外を眺めた。木、森、山、河。これでもかと田舎っぷりをアピールしてくる黒ずんだ景色。次から次へと流れて消えた。

 未だ呼吸は荒いものの、脳に供給される酸素は必要量に達し、どうにか思考が回り始める。


―― あの子が一人で行動できる範囲なんて高が知れているんだ。二駅先? 行けるはずが無い。居なかったらどうしよう。次は何処を捜せばいい? 何を当てにすればいい?


 乗り降りの無い、ほんの数十秒の停車を経て、ようやく一つ駅を越えた。加速を終えてトップスピードに至り、車体が少し安定する。


―― 警察は? そうだ、警察。何で思いつかなかったのか。事件か事故か分からないが、これだけ探して見つからないなら、ただ倒れただけってことは無いんじゃないか? 誘拐? それこそまさかだ。身代金なんて出せる蓄え、うちには無い。


 駄目だ。頭の中が一向にまとまってくれない。もうグシャグシャだ。顔まで歪んできた。

 安易な餌に飛び付いてしまったが、きっとこれも徒労に終わるんだなんて。考えれば考えるほど後ろ向きな結論に心が潰されていく。もう泣き出す寸前だ。


 歯を食いしばり、涙が滲むのを必死に堪える。


 ブレーキを掛けたのだろう。電車がスピードを落とし始め、不必要に大きく揺れた。目じりで踏み止まっていた雫が、一筋だけ零れ落ちる。

 窓に映る光景の目まぐるしい流動は鳴りを潜め、すぐそこにある電柱すらも、はっきりと眼で追えるようになった。が、追えても見えるとは限らない。水面のようにゆらゆらと歪み、木の柱の木目すらはっきりしない有様だ。


 一度だけ、袖口で目元を拭う。




 期待が薄かったせいだろうか。目的の駅に着く直前に、ふと視界に入ったそれが、一瞬理解できなかった。





 四つん這いの、見覚えのある男の子。





 目をひん剥いたまま低速でそれを追い越し、前方から後方へと視線が流れる。

 顔と体の角度差は最初から直角に近かったのだ。すぐに首が回らなくなるのも道理だろう。


「昌人!」


 追いきれなくなり、そこでようやく慌てて叫ぶ。


「いだっ!!」 


 百八十度体を回すと、火花が散った。

 目の前には、天井から降りてくるステンレスのパイプ。シートの端に座っていたことを失念していた。痛みと涙で狭まる視界。額を押さえてしばしうずくまる。

 上目遣いでガラス越しに外を睨みつけた。駅舎に隠れて、昌人の姿はもう見えない。


 私が立ち上がるのと電車が停止するのはほぼ同時だった。


 開閉ボタンをバシバシ連打して、また走る。切符を投げつけられた車掌さんが目を白黒させていたが、構ってられるか。

 若干低い場所にある線路と電車。八ある階段を四歩で駆け上がった。上りきって右を向く。



 ただそれだけで、捜し続けたその姿。



 少し遠目だが間違えよう筈も無い。

 ホームを出てすぐにある松林に、昌人はいた。少し離れた岩の上にランドセルを置いて地面を覗き込んでいる。這いつくばって、まるで何かを探すかのように。



―― ふざけるな。捜してたのはこっちの方だ。



 一歩一歩、確実に踏みしめ近づく。あの馬鹿はこっちに気が付く素振りすら見せない。それを確認し、私は思いっきり息を吸い込んだ。


「昌人っ!!!!」


 その一言だけで息が切れる。声を出すのがこんなに苦しいなんて、生まれて初めてだった。


「え?」


 条件反射なのだろう。昌人が首だけこっちに向けて間の抜けた声を返した。いつも通りのその仕草に、ふつふつと怒りが込み上げる。

 随分と平気そうじゃない大馬鹿者。もういい。遠慮なんかしてやるものか。息が整ったら怒鳴り散らすぞ、この野郎。


 そう思って、深呼吸を繰り返す。大きく上下する視界の中、昌人だけは捕らえて離さない。


 いや待て落ち着け。頭ごなしに叱ってはならない。まずは事情を聞こう。話はそれからだ。


「……何か、言うことは?」


 息を切らせながら、最大限の譲歩を見せる。


「おはよう?」


 理性を総動員した私に対して、首を傾げて世迷言をはき捨てた昌人。


 怒髪天を突いた。



「この馬鹿ぁっ!!! 何してんのこんな所でっ!!!!?」



 沸点をぶっちぎった私は、もう声量を抑えることが出来ない。


「お姉ちゃん……? えっと、その……」


 怒鳴られたことに困惑している。どうやら状況が理解できていないようだ。


「皆心配して探してるのよ!!今何時だと思ってるの!? 八時よ、八時!!!」

「え? だってまだ明るい……」

「六月の日が長いのは当たり前でしょうっげほっごほ!!」


 引きつった喉では、これ以上大声が出せないみたいだ。盛大に咽てしまった。

 明るいって言ったってもう日は沈んでいる。ただ単に目が慣れているだけだ。

 視線を巡らせ、それを理解したのだろう。目に見えてしゅんとなる昌人。そう言う素直な所はお姉ちゃん好きだけど、今日ばっかりはそれで許す気には到底なれない。


「……ごめんなさい。でも、まだ見つけてないから」


 そう言って、再び四つん這いになる。


「……何探してるのよ?」


 ここ最近、記憶に無いくらいに機嫌の悪い私は、憮然として聞いてみた。幽鬼の如くふらふら揺れて、前髪の隙間から熱い視線を向けてやる。何を探していても叱りつけるのは確定だ。覚悟しなさい。


 そう意気込む私に、昌人はさも当たり前と言わんばかりの調子で、あまりにも予想外の目的を口にした。




「松茸。お姉ちゃん欲しいって言ってたから」




 時が凍りついた。

 初夏の湿った風が汗を冷やす。その肌寒さが気付けになったらしい。動き出した思考で、耳に飛び込んできた音の羅列を、どうにかこうにか整理する。

 何て言ったこの子?


「……松……茸?」


 言葉の意味が飲み込めず、まず自分の耳を疑った。


「うん、松茸」


 それでも返ってきた答えは先と変わらない。不意に、周囲へと視線を巡らせる。

 鋭い針状の葉。ささくれ立った樹皮。何処にでもあるような有り触れた針葉樹。だが確かにその数は多い。


「はぁぁぁぁ……」


 今居る場所を理解した途端、深い、本当に深い溜息をついた。同時に膝から力が抜けてへたり込む。

 激しい感情が凄まじい勢いでえていくのを感じながら、昨日の会話に思いをせた。


『現金か松茸』


 お兄ぃの質問に対し、私は確かにそう言った。

 だから松林? それはつまり私のせい?


 やっぱりあのお兄ぃの弟だ。私を呆れさせるのが本当に上手い。今日のこれは下手するとお兄ぃ以上だ。

 いい? 昌人。松茸ってのは秋の食べ物で、この時期の物は早松さまつといって、美味しくないくせに数万円するのが当たり前という、ただ珍しいだけの…。

 いかん、声出てないや。松茸より水が欲しいよ。しょっぱい水が全身から吹き出ているけれど、さすがにこれで喉は潤わない。


 皆は今も、この阿呆を捜して走り回っているのだろう。知らせなきゃと思い立って、ポケットの携帯に手を伸ばした。これ以上迷惑はかけられない。

 そう思うのに、指が震えてなかなか上手くいかない。時々肩から大きくビクつくのを抑えられず、その都度携帯を取り落としてしまう。四度それを繰り返したところで、諦めて地面に置いたままにした。ひらがな四文字のメールを打つのに、一体何秒掛けたことか。一つ一つ、打った文字の確認すら出来ないままに、どうにか送信ボタンへと指を押し付けた。


 ぽたぽたと、水滴の落ちる液晶から顔を上げる。


 諦める事無く地面に手を這わせているだろう弟。その姿が全く見えなくて、ようやく自分の状態を把握した。


 せめて声は上げるまいと、必死に感情を抑えるも。

 暴れそうな感情は、いくつもあって。


 どうやら、緩んでいるのは涙腺だけではなかったらしい。




「ねぇお姉ちゃん、松茸ってどんな形?」


 事ここに至って、あまりにも今更な事を抜かした昌人。


「……ばか……」


 誰にも聞き取れないような掠れた声で、精一杯の悪態をつく自分。

 呟かれた言の葉は、何処に向けられた物だったのか。

 



 頬まで緩んでいる私は、きっと不謹慎なのだろう。




 星が瞬き始めた、谷間の駅で。

 見慣れた姿が、ぼやけて霞む。

 嗚咽は、ちゃんと堪えられているだろうか。






「見つかりっこないから、さっさと帰るよ」


 その一言が、なかなか言えなかった。









 裏掲示板というものがある。

 インターネットという媒体を利用して、特定の個人への誹謗中傷や、人間性を疑うような罵詈雑言を匿名で書き込む。

 例えれば、それは公衆便所にある「馬鹿」とか「死ね」とか、そういった落書きとなんら変わりなく。

 そんなものに「掲示板」なんて言葉は冗談でも使って欲しくない、なんて思うようになった自分が居たりして。



 夏風のそよぐ町。

 柔らかな土の薫る、いつもの駅で。

 帰りがけに、今日もその奇跡を眺めてみる。




――弟を探しています。小学校四年生です。見かけたら書き込みください――

――上り方面二駅先でそれらしい子を見かけました――

――ありがとうございます。おかげで見つけることができました――




――お役に立てたなら何よりです――




 とても短い文章だけど。

 顔も名前も知らないけれど。


 それは例えば、

 絵文字をふんだんに使った誕生日メールのような、


 あるいはそれ以上に。






 心が暖かくなる遣り取りで。

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