第5話 なんだ、ちゃんと泣けんじゃん

 夕姫ゆうきは家に帰ると、一目散に自分の部屋に駆け込んだ。自分の顔のひどいアザを、家族には見られたくなかった。そのまま一旦ベッドに腰かけたが、私服に着替えようと思い直し、再度立ち上がった。そして姿見すがたみの前でセーラー服の上を脱ぐと、右の二の腕のところにもアザがあるのを見つけた。夕姫は、全身を確認しようと、下着だけの姿になった。

 結局、左の太ももと、右のすねの下あたりにも、蹴られてできたようなアザがあった。あと、ヤツらに突き飛ばされて転んだときにそうなったのだろうか、右の手のひらと左のひざをひどく擦りむいていた。夕姫は、それらの傷も万が一にも家族に見られたくないと思い、季節外れの長袖の部屋着に着替えた。

 ベッドに横たわった夕姫は、あらためて今日の出来事を思い返してみた。しかし、まず頭に浮かんできたのは、暴力を受けたことではなく、奏雅そうがのあの悲しそうな顔であった。


(どうしよう……。私、どうしてあんなことを……。あの人は、アイツらの仲間でもなんでもないのに……。これまでも、あの人は私になにもしなかったのに……。あれだって、多分私のこの顔を見て……。私、一体なにを考えてたんだろう……。……私、最低だ。謝らないと……。)


 そう思いながら、夕姫はいつのまにか眠りに落ちた。ひどく疲れていた。目が覚めたころには、すっかり暗くなっていた。食事の用意ができたと母親がドアの向こうから呼びかけに来たが、夕姫は「あとでいい」とやり過ごした。食事もお風呂も、家族が寝静まってから済ませた。

 そのあとは、全然眠れなかった。


    *  *  *


 次の日、奏雅が学校に行くと、夕姫は来ていなかった。担任の先生が夕姫は欠席だと告げると、奏雅は内心動揺した。その後の休み時間に連中の笑い声が聞こえたとき、奏雅の心に急激に怒りの気持ちが湧き上がった。


 アイツら、許せねぇ……。


 そう思い立ち上がったその瞬間、頭の中に夕姫の言葉が響いた。


“もう、……もう、いいの”

“……私なら、大丈夫、だから”


 ……奏雅は再び腰を落とした。なにがいいのか、なにが大丈夫なのか、ほんの少しだけわかるような気がした。奏雅はその日、夕姫のことばかり考えていた。


    *  *  *


 夕姫は、あの川原沿いのベンチのところまで来ていた。どうしてもここに来なければと思っていたわけではなかった。ただ、もしかしたら奏雅に会えるかも、と思っていた。もし会えたら、昨日のことを謝らなければ、と思っていた。


(……あの人は、やっぱり悲しんでいるのだろうか。それとも、もしかしたら、怒っているのかもしれない。私は、それぐらいのことをしてしまった……。謝ったところで、私には……。そんな資格なんて、ないよ……。)


 夕姫は、やっぱりこのまま帰ろうと思った。奏雅は自分のことを悪く思っている、としか考えられなかった。あの夕陽が地平線まで辿り着いたらもう帰ろう、そう思ったときだった。


「隣、いいか?」


 夕姫は驚いて横を見た。そこには、いつものようにわずかに笑みを浮かべる奏雅の姿があった。夕姫はまたも固まってしまったが、しばらくして、こくん、と頷いた。奏雅は何も言わず隣に座った。


 しばしの沈黙が流れた。夕姫の緊張は、限界寸前だった。


(……どうしようどうしよう。せっかく会えたんだから、隣に座ってくれたんだから、言わないと、謝らないと……。……でも、言葉が出ない……。)


(…………!)


 そのとき、奏雅の左手が、夕姫の右頬に触れた。そして、奏雅は優しく言った。


「よかった。もう大丈夫みてーだな」


 ……その瞬間、夕姫は、自分の心に明かりがともったように感じた。あの熱い夕陽が、自分の体の中にもあるように感じた。

 とたんに、夕姫の眼から涙がこぼれ落ちた。自然と、なんのよどみもなく流れた涙だった。そして、次から次へと、涙が溢れてくるのだった。


 奏雅は、夕姫の涙に驚いたようだったが、何も言わずにそのままでいてくれた。


「…………どうして……」


 夕姫が、涙声でつぶやいた。


「……どうして、私なんかといてくれるの……?」


 奏雅は、少しのあいだ考えたあと、またあの微笑みを浮かべて、こう言った。


「なんだ、ちゃんと泣けんじゃん」


 夕姫は、その言葉の意味がわからなかった。奏雅は、続けて言った。


「俺さ、安藤がなんであんなことされても泣かねーのか、不思議だったんだ。それで、安藤と一緒にいたら、その意味がわかるかな、って。そんだけだよ」


 奏雅はそう言ってまた黙った。夕姫は声を上げて泣き出した。ぐちゃぐちゃになった顔を見られるのは恥ずかしかったが、それでもこの人の前なら大丈夫な気がした。



 西の空に夕陽が沈もうとしていた。どれだけいじめられても出ることのなかった涙が、止まらなかった。


(つづく)

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