第2話 もう、いいの

 彩木奏雅さいきそうがは、派手な見た目とは裏腹に、元来無口なほうであった。クラスの中でも、その見た目から例の中心グループと交流はあったようだが、特につるむ、という感じでもなかった。比較的孤独を好み、休み時間もよく一人で窓の外を眺めていた。ただ、他校の不良と喧嘩したとか、学外の悪い連中と付き合っているとか、煙草を吸っていたとか、真偽はともかくそういう噂の絶えない男であった。

 夕姫ゆうきは、そんな奏雅を特段気にしたことはなかった。それどころか、どちらかといえば、自分を「いじめてくる側の人間」だと当初は思っていた。しかし、奏雅は、クラスの連中の夕姫へのいじめに加担したことはただの一度もなかった。夕姫は、そのことをよくわかっていた。


    *  *  *


 次の日は、夕姫と奏雅の机の上に、それぞれ花が活けてある花瓶が置かれていた。普段は、ロッカーの上に飾られている花と花瓶だ。なんてばからしいことをするんだろう、と夕姫は思った。夕姫がその花瓶をかたづけようと思ったのも束の間、教室にやってきた奏雅は、その花瓶を両手に持つや、教室前方に陣取る例の中心グループに向かって、花瓶の中の水を花ごとぶちまけた。


「っっ!! なにすんだてめぇっ!」


 そのまま席に戻ろうとする奏雅に対して、二、三人の男子がうしろから飛びかかった。怒号が飛び交い、周辺の机や椅子は音を立てて倒れた。しばらくの揉み合いのあと、最初に立ち上がったのは奏雅だった。奏雅は脇腹をおさえていた。しかし、ほかの飛びかかった男子どもには奏雅の拳や蹴りがクリーンヒットしており、しばらく起き上がることもできないようだった。奏雅はまたなにごともなかったかのように自分の席に戻った。


 夕姫は、あまりのできごとに固まってしまっていた。


 その後も二人に対する陰湿ないじめは続いた。しかし、いじめに対する奏雅の反応は、夕姫にとっては驚くべきものだった。ひどい仕打ちを受けたあとは、奏雅はかならずどこか微笑んでいるように見えた。そして、奏雅はときには連中にやり返した。奏雅は圧倒的に喧嘩けんかが強かった。そして、やり返したあとは、またいつものようにわずかに微笑んでいるのだった。


 夕姫は、いつしか奏雅の一挙手一投足を目で追うようになっていた。


 この人みたいに強ければ……。この人みたいに堂々としていれば……。いじめられることもきっとないのだろう。でも今はこの人は、私へのいじめに巻き込まれてしまっているんだ。私のせいで……。


 しかし、なぜ奏雅が自分からいじめに巻き込まれるようなことをしているのか、夕姫はどれだけ考えてもわからなかった。


    *  *  *


 ある日の学校帰り、奏雅は、川原沿いの道を駅に向かって歩いていた。この道は少し遠回りだが静かで人通りが少なく、奏雅はよく好んでこの道を使っていた。

 夕陽のまぶしさに目を慣らそうとふと先に視線をやると、五十メートルほど先の川岸に、同じ学校の制服が見えた。女子だ。後ろ姿しかわからないが、どうやら足先は水に浸かっているらしい。そして、川のより深いほうへ行こうとしているようだった。奏雅の鼓動がにわかに速くなった。自然と早足になった。


 あの後ろ姿は、もしかして……。


 奏雅が数メートル前まで近づいたとき、その女子は川の中に両手を浸けた。そして、川の中から群青色の鞄を持ち上げた。学校の鞄だった。奏雅の予感は当たった。夕姫だった。

 そして、夕姫はうしろに人の気配を感じ、振り返った。夕陽を浴びて振り返ったその顔は、驚くほど無表情に見えた。


 奏雅は、一瞬どんな顔をしていいかわからなかった。


「大丈夫か」


 奏雅は言った。しかし返事はなかった。

 奏雅は無言で川の中に入っていった。そのまま夕姫に近づくと、夕姫の抱えていた水浸しの鞄を持ち、もう片方の手で、夕姫の腕をつかんだ。そして、夕姫を川岸に引っぱり上げた。


「アイツらがやったのか」


 夕姫の返事はなかった。


「……許せねぇ」


 奏雅は怒りの表情を浮かべた。まだアイツらは近くにいるはずだ。奏雅が走り出そうとしたその瞬間、


「いいの!」


 夕姫が、初めて口を開いた。


「もう、……もう、いいの」


 消え入りそうな声だった。


「……私なら、大丈夫、だから」


 奏雅には、一体なにが大丈夫なのか、わからなかった。

 ただ、初めて聞いた夕姫の声は、寂しくて、切なくて、胸が締め付けられるような声だった。


 奏雅は、この人を守りたい、と不意に思った。


「……安藤、お前いつもこの道使うのか?」


 急に名前を呼ばれた夕姫は一瞬驚いたが、少しあいだを置いて頷いた。


「……じゃあ、明日から一緒に帰ろう。俺がいれば、アイツらもそんなにひどいことはしてこない」


 それは、夕姫が想像もしないような言葉だった。夕姫は驚いて、またなにも返事ができなかった。しかしその瞬間、夕姫の脳裏に、今までに一度も夕姫へのいじめに加担したことのないこれまでの奏雅の姿が浮かんだ。


 ……夕姫は、ゆっくりと頷いた。それを見た奏雅は、またほんの少しだけ微笑んだ。



 夏の終わりの夕陽が、痛いくらいにまぶしかった。


(つづく)

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