閑話 小さなワガママ
一人の少女が死に物狂いで走っていた。
既に息も絶え絶えで、苦しさから表情を歪めている。それでも尚、走る事を止めないのは生き残るためだろう。
人も多く行き交う街道。
そこで事件は起こった。二十分間の空いた時間に買い出しを済ませてしまおう。ただ、それだけの理由で少女、アンナと母であるアンジェリカは二人で外へと出かけた。
自身よりも少しだけ年上でありながら、自身にはできないような事を可能にしてしまう主。その主を労るために何かしらのプレゼントを買いたかったというワガママを母に伝え、二人で買い出しに出かけた。そう、それだけだったのに……。
店で買い出しを終えてすぐに二人は襲われた。
最初は黒のフードを被った男に話しかけられただけだった。だが、威圧感を放ち連れ去ろうとする姿を見て二人は一瞬で察した。目の前にいる人が主と敵対する存在である事を。
その後の行動は早急だった。
アンジェリカはアンナだけを逃がしてリリーへの応援を頼んだ。逃げる際にアンナは後悔していた。高々、二十分程度だからとリリーに何も告げずに外へ出てしまった事を。
その後の事はアンナには分からない。
もしかしたら、母は連れ去られたかもしれない。だけど、戦えるだけの力は二人には無かった。武器が無いからでは無い、あの時に出会った男の威圧感は紛れも無く二人よりも強いからだ。
強くなったはずだった。
リリーにだって褒められるくらいには。
それでも何も出来ない……それだけの力の差があるのだ。アンナの瞳から涙が零れる。だが、悲しんでいられる時間は無い。強くなれたからこそ、アンナにも分かっていた。後ろから自身よりも速い何かが追ってきている事に。
足は既に縺れかかっている。
走れているのも不思議なくらいに。だけど、その足を止めないのは自身の命が危ういから、それでいて母を助けたいと願う娘ながらの思いからだった。だから、多少の苦しみも我慢して走り続けられた。
だが……。
「あ……っ!」
その左足に一本の短剣が突き刺さる。
痛みから転んでしまい顔を擦りむいてしまった。それでも尚、立ち上がろうとした……が、その頭を誰かに掴まれてしまう。自身よりも、それでいて主よりも大きい男。
ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべてアンナの顔を凝視する。それだけで幼いアンナからしても吐き気がするような気持ち悪さを感じさせられた。だが、そこで吐き出したとしても何も好転しない。幼いながらにもアンナには分かっている。
こんな時にリリーは何と言っていたか。
敵に掴まれた時に逃げるためには……その答えをアンナは覚えている。少なからず吐き出して泣く事は正解では無い。気持ち悪さと恐怖を何とか我慢してアンナは宙ぶらりんの両手を動かした。
「ガッ! テメェ!」
「汚い手で触らないで!」
服の裏側に隠した二本の短剣。
それを抜いて男の右手を大きく傷付けた。その時にアンナは気が付く。目の前にいる男は母と一緒にいた時に出会った男程の強さは無い事に。それでも自身よりは間違い無く強い事は確かだった。
だからと言って逃げられるのか。
それは自身の左足の痛みからしてできない。腰に提げた小袋からポーションを取り出して無理やり飲み込んだ。飲め込みはしたが……それでも完治までには時間がかかってしまう。
どうすればいい……その答えを出してくれる存在はどこにもいない。母もいなければ、リリーもいない、大好きな主も近くにはいないのだ。だが、悩む時間も同様に無い。それならどうするのか。
ーー決まっている。
アンナは何も言わずに走り出した。
傷を庇うせいで速度は先程よりも間違い無く遅かったが、それでも襲ってきた男を驚かせるには十分だ。多少の怯みの後にアンナを目に見えて追いかけ始めた。
それをアンナは足音で確認する。
分かっている、走ったところで逃げ切れないと。それなら何をしようというのか。……簡単に言ってしまえば主であるシオンの真似事だ。リリー達のような圧倒的な力も無いシオンが強敵を倒す時に考えそうな事、その一点に賭けていた。いや、アンナを生かすために本能がそうさせたのだ。
ギリギリ、それだけの近距離まで近付かなければいけない。だけど、自分から近付くためにはリスクが大き過ぎる。それをカバーするためにアンナは逃げる素振りを見せたのだ。相手から近付いてくれればリスクは少なくできるから。
そして今から何をするのか。
クルリとアンナは身を翻して一つの石を投げ付ける。男からすれば一瞬だっただろう。すぐに石が小さな爆発を起こして男の顔を燃やした。そして男の肩に一つの短剣が刺さる。
そこで男は理解した。
投げられた石は火の魔石であり、そして短剣を当てることによって爆発を起こした、と。加えて小さく畏怖もした。魔石はかなり小さく短剣を投げる技術が高くなければ当てることはできない。ましてや、短剣自体を自身に刺すつもりで投げていた。
それだけの芸当を幼い少女が行ったのだ。
間違いなく対面で戦えば負ける事は無い。それなのに足が震える。……そして、その小さな畏怖こそが命取りだった。アンナが我慢した恐れで隙を晒す行為。それを男は無自覚に行ってしまったのだ。
「死んで!」
「あっ……」
爆発の煙に紛れて突撃していたアンナ。
その手によって短剣で首元に一文字の傷が付けられてしまったのだ。首を落とすだけの威力は無いものの出血量からして死ぬのも時間の問題だった。例え、今からポーションをかけたところで男は助からない。
「はぁはぁ……早く……逃げないと」
アンナは生死の確認をせずに走り始めた。
だけど、その体を誰かに掴まれる。今度は振りほどく事はできない。今の戦闘で全ての力を使い切ってしまったのだ。……その中でアンナは吹き飛ばされた。
意識は飛びかけている、頭だって既に回りきらない程に疲れている。アンナの頭は止むこと無く警鐘を鳴らし、無理やりにでも逃げる選択を取らせようとした。それでも……腹を蹴られたせいで起き上がる力すら残っていない。
「アイツを殺せた事は褒めてやるが少しばかり調子に乗ったな。これだから、ガキは嫌いなんだ」
そう言って男はアンナの腕を蹴り下ろす。
嫌な音が響いた。間違い無く骨が折れた音がしたのだ。痛みから短剣を落とすが……目の前の男はそれで止まらない。もう片腕に視線を向けて強く蹴り上げた。
骨が折れたのだろう……だが、その痛みを感じられる程の余裕すらアンナには残っていなかった。あの時に、そうシオンに助けてもらった時のような死が迫る音。それだけがアンナには聞こえていた。
どうすれば良かったのだろう。
そんな思いがアンナを駆け巡る。……でも、最後に来るのは後悔だった。そして懺悔。母であるアンジェリカを巻き込んでしまった事、リリーに買い物の件を伝えなかった事、そして……大好きなシオンに助けてもらえたのに死んでしまう事。
「ごめん……シオン……さま」
「は、最後まで主思いなこった」
ニヤケ顔でアンナを見下ろす男。
だが、その姿は今のアンナの目には映らない。視界も既に消えかけていて……意識を失えばきっと目を覚ます事は無いのだ。だけど、それに抗う事はできない。
「死ね、お前は邪魔だ」
ああ、死ぬんだ。
そんな考えが過った時に大きな音が聞こえた。
「天下の街道で幼女を襲うとはいただけないな」
その声は何度も聞いた事のあるものだった。
だが、声の震えからして似ているようで違う声にも聞こえた。死の手前に迫っているからかもしれない。それでもアンナにはとても暖かい声に聞こえた。
「ごめん、遅れちゃった」
「シオン……さまぁ……」
その声に無理に笑顔を浮かべた。
だけど、相手はきっと笑ってくれていない。そんな顔をさせるために笑顔を見せたわけではないのに。辛い気持ちに襲われながらも何とか手を動かそうとする。なのに、自分の手のはずなのに動かせなかった。
「無理すんな、馬鹿」
「んっ……あっ……」
唇に柔らかな感触が伝わった。
その後に自身の舌に絡めるように舌が合わさり、喉奥に何かが注がれる。美味しくない……はずなのにアンナには甘く感じた。いつも嫌がられていたキスを初めてしてくれたのだ。それだけで頑張って戦って良かったようにも思えた。
「安心しろ、俺が何とかしてやる」
「おねがい……お母さんをたすけ、て……」
「言われなくても助けてやるさ」
優しい抱擁の中でアンナは眠りにつく。
その時には死の足音は遠くへと消え去っていた。
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