悪夢

@siki_hakanasi

第一部 忘れられないワンシーン

第1話

 ここは夢の中、泡沫の世界。


 荒い息、冷たい汗を額から流す。後ろを振り返ってはならない。今は前だけを見て、走る。周りは暗いのか明るいのか分からない。寧ろ混沌としたそれがこの空間には適している。


 空間、木も花もビルも何も無い。どこまで続いているのかもわからない。


 一心不乱に走る、どこまでも走り続ける。そんな私の右足に赤い糸が絡みつく。当然、私は躓いた。そして顔に恐怖を滲ませてゆっくりと後ろを振り返る。


 …何も無い。


 何も無いのに私は必死に逃げていた…そう何も無いのだ。今はもう。


 やけに背中が熱い。


 私はその事実に違和感を覚えて背中に手を伸ばした。


 包丁のような、鋭い刃物が刺さっている。


 何本かは分からないが、確かに刺さっている。


 そこから広がる痛み、それを我慢して動こうとするとより傷口が広がる。その鋭い痛みがまた脳髄を貫く。


 そうして暫くその時間が続いた。刃物も熱伝導からか、初めの冷たさはなくなる程度には時間が過ぎている。次は絡みつく赤い糸に変化があった。段々とその締め付けが強くなる。


 私はどうにかしてその右足の糸を外そうとするが、手が動かない。それもそうだ。いつの間にか手は中指と薬指の間から綺麗に裂けている。


 ギ…ギギ……


 妙な音に私は顔を上げる。その音の正体は歯車のようで、油を差してないからかそのような音が鳴っている。


 歯車は段々と私の元へ近づいてくる。一層強くなる糸の締めつけによる痛みに顔を引き攣らせながら、懸命に藻掻く。然し、藻掻いても藻掻いてもその糸が緩まることも無ければ歯車が減速するわけでもない。


 異音と共に近づく歯車はもう目と鼻の先にある。

 初めに巻き込まれたのは左足だった。


 先端から感覚が失われていく。そこに痛みはない。それがたまらなく怖くて、半ば狂乱しながら、なんと言っているのかもわからないほど喚きながら、暴れるが歯車の巻き込む力は恐ろしく強く、非力な私では逃げられなかった。


 体が、少し自由になった気がした。


 右足で蹴るようにして逃げようとするが、ヌメリで上手く力が伝わらない。


 不思議に思い蹴った場所を見ると赤い糸が外れ、ふくらはぎから下が綺麗にもげていた。




 ───それから先のことを私は知らない。





 寝覚めの悪い朝、これはいつもの事だ。いや、最近酷くなり始めたので昔からというわけではない。ただ、毎日のようにあのような夢を見る。


 身体を起こし、周囲を見渡す。


 あんな歯車もなければ右足も転がってはいない。それどころか赤い糸もない。やはり、夢は夢だ。いつもの通り、現実では起きない…夢。


 狂った夢をしっかりと『夢』と確認しなければならない、そんな強迫観念を近頃は抱き始めている。そうしなければ現実と夢の区別がつかなくなる。そんな狂人になるのはごめんだ。


 身体が少し震えている。まだ、夢の世界に囚われているのか上手く力が入らない。


 ふらふらと立ち上がり、勉強机に置いてあるカッターを手に取り、左手首を切る。


 左の手首を伝い、中指へ滴る。次にポタリ、ポタリと雫の落ちる音。


 その痛覚と喪失感が私を現実に引き戻す。


 部屋の鏡を見る。


 左腕は恐ろしいほどのリストカットの痕が残り、目は完全に虚ろであった。


 ノック音が聞こえた。この落ち着きない、荒々しさ。それに私は安堵の息を漏らす。


「何?」


 ドアを挟んで声をかける。彼女は面倒くさそうに答えた。


「何って、朝だから起こしに来たんだよ。最近自分で起きれないでしょ?お姉ちゃん」


「そうね、疲れてるの。ありがと」


 夏なのに長袖の服を上に着て、私はドアを開く。肩まで伸ばした黒髪で少しつり目な凛とした少女の制服姿を見て、何をしに行くかを理解する。


「お絵描きしに行くんでしょ?行ってらっしゃい。私はもう少しゆっくりするわ」


 膨れ顔で彼女は私に伝えた。


「もう、夏休みだからってゴロゴロしないでよ。ちゃんと起きて部活行こうよ」


 妹に駄々を捏ねられると断れない昔からの癖で私は渋々と言ったようにうなづいた。


「でも、まだ朝ごはんも食べてないのよ」


「お姉ちゃん、最近冷たいよね」


 それに私は何も言えなくなった。


 確かに、妹と私の距離感は今少し離れている。別に彼女は悪くない。悪いのは、全て私。


 彼女は昔から影響を受けやすい。ある意味感受性が強いとも言えるのかもしれない。だからこそ、今私が関わるべきではないのだ。


「気のせいよ」


 言葉とは裏腹に恐ろしく冷たい声で伝える。


 悲しそうな顔で彼女は消えてなくなった。






 真っ白な半袖ポロシャツに生地は薄く黒いスカート、それに革靴。家では包帯で隠すが、外では目立つので傷を隠すように腕にはオペラグローブを着用する。ショートで雑把に切りそろえられた髪にヘアアイロンを当ててブラシで梳いて寝癖を直し、外へ出た。


 …私は夏休みに制服を着るのはあまり好きではない。


「なんで夏休みまで学校に行かなきゃいけないの」


 独り言のようにぼやいた。陽炎の立ち上る道が延々と続く。地面と太陽の熱に上下から体力を奪われる。額から伝う汗をポーチから取り出したハンカチで拭う。それを横から笑う声が聞こえた。


「お姉ちゃん、辛そうだね」


 恐らくは私のその緩慢な動作に吹き出したのだろう。


 私は陽射しを最も嫌う。然し、考えても考えても何故私が陽射しを嫌うのかが分からない。暑いのが嫌だからもそうだが、それだけではないような気がする。もっと抽象的な理由な気もするし、そうではない気もする。その漠然とした「嫌い」というものに私は嫌気さした。


「お姉ちゃん、考え事?私が相談に乗ってあげようか?」


 その顔は今頭上で輝く太陽より明るく、それでいて心地良いものだった。その声、顔を見ると自然と頬が緩む。


「大したことじゃないよ。なんで私は陽射しが嫌いなのかなって」


 キョトンとした顔をする。そして顎に指を当て考え始めた。その仕草がまた愛らしく、永遠に守りたいとすら思えるものだった。


「わからない!」


「だと思った」


 妹の綺麗な笑顔を見て、杞憂だったのかなと思った。距離があると思ってたのは私だけだったのかもしれない。


 そう思ったら、少し気が楽になった。今なお降り注ぐ陽射しも少し、ましになった気がした。











雪奈ゆきな、久しぶり」


 その声を聞いて笑顔を繕いながら返した。


「そうね、久しぶり。鼎」


 兵藤ひょうどう かなえ。ロングの髪をサイドで一つに束ね、少しカールをかけている。そして、夏休みから来る気の緩みがわかるプリンになった髪、それとピアスの穴。化粧はそこまで濃くない、ナチュラルメイクといった程度だ。そんな彼女が筆を持ち、キャンバスと向かい合っている。これほどまでにしっくりとこない絵面があっただろうか。


 しっくりとこない、その感覚は何故起きるのか。


「ねぇ鼎。しっくりこないってなんだと思う?」


 キャンバスから一切目を離さず、筆も止めずにすぐ答えた。


「そりゃ、『違和感』でしょ。そして、有体にしてこれは人によって変わる。その人のもつ常識、普通によって変化する。当然、その常識は大抵人と共有されているものだから『普通』の人同士なら共有できるんじゃないかな」


 それを聞いて、理解する。つまりは自分の中でおかしいと思っただけだということ。そしてそのおかしいと思った所が全ての人にとっておかしいわけではないということだ。


 違和感を覚えることをしっくりこないとするのなら、逆にしっくりくるのは違和感のない、自分の中でおかしい点のない言わばそれが『普通』であると言うことになるのだろうか。それは違う。何故ならそうなると私は普通の人を見て全てにしっくりくると認識するはずだ。だけど、私はそうは思わない。寧ろ、なんとも思わないだろう。


 私はまた鼎に聞いてみる。


「じゃあさ、反対のしっくりきたとか、しっくりくるってどういうこと?」


「普通なら、さっきの答えと反対になるんだけどね。私は違うと思うよ。寧ろ何も感じない事が反対言葉なんだと思う。雪奈の言ったのは、大して意味に違いは無いと思うな。『違和感』を感じない事を感じたならそれはもう違和感でしょ」


 その説明にあぁ、と納得した。確かにその通りだと思う。


 これは、常識的に考えて間違いだ。何も感じない事を感じる、こんなおかしな文章は有り得ない。つまり、これは正解ではない。


 然し、納得する。彼女はこういう問に対する答えを出すのが上手い。それが正解か不正解かに関わらずただ『面白い』。それでいて説得力がある。私はそんな彼女の考え方が好きだ。少しひねくれていて世界を自分の見たままに定義しようとする、そんな姿勢が好きだ。それは性格や思考だけでなく、キャンバスに描かれた絵にも顕著に現れていた。


 綺麗な風景に所々黒い染みがある。然しその染みが風景を潰しているわけではない。寧ろ、そこを見ることでその周りがより一層美しく感じられる。これが、彼女の普段から見ている世界なのかもしれない。


 全体を大雑把に把握せず、所々に焦点を当ててより鮮明に、鮮やかに世界を認識しているのかもしれない。


「上手いね、ほんとに。その見た目からは想像もつかないよ」


「最後のはいらないでしょ…なるほど、そう言うこと、だからあんなことを聞いてたんだ」


 彼女はため息交じりに言った。そして、皮肉るように私に言い返す。


「でも、雪奈の方がすごいと思うんだけどな。あんな絵、まともな精神状態じゃ描けないでしょ」


「なんのこと?」


「あの絵だよ。『森』」


 私は思い出したと教室にある保管室に取りに行った。それを机に置いて2人で眺めた。


 その絵はタイトルの通り森を描いた。然し、ただの森ではない。夢に出てきた森だ。


 暗い新月の夜。舐めるようにうなじを風が吹き抜ける。そして鳴き止まない鴉。地は枯れた雑草と対称的な青々とした草花が生い茂り、その全てが虫や蛇、小動物辺りまでだったかを溶かし喰らっていた。その全ての生物を統括する存在もあった。それは黒い鳥類のような翼を携え、鹿のような身体で頭部は7つあった。人のような顔の構造なのか、よく分からないが仮面をつけており、冠のような角を頭から生やしていて、その頭部全てが真っ直ぐに私を捉えていた。


 その時の私は恐怖で竦んで足が動かずにいた。否、確か足に肉食植物か絡まって動けなかった。その全てを統べる獣が私に一歩一歩、ゆっくりと近づいてくる。


 そこから先がどうも思い出せないが、それを上手く調和させようとして懸命に描いた結果がこの混沌としたキャンバスだ。


「ほんとに凄いよね。何を考えて描いたの?」


「夢。これじゃ、まだ伝わらないかな」


「確かに、雪奈の言う通り自分の思った通りには伝わっていないのかもしれない。でも、芸術というものは全員が作者の意図を正しく汲み取れるわけじゃない。私だってこの絵を正しく認識出来てないのかもしれない」


「じゃあ、鼎はどう思った?」


「恐怖、狂気、混沌…人知の理の外にあるもの。それらを想像して描いたと思ってた。でも夢と聞いて違うかなってなったよ」


「今は?」


 鼎は一瞬、目を泳がせた。これが正しいのか分からないからなのか、それとも言うことを躊躇っているのか、それは分からないけど、少なくとも私にはそれが躊躇いのように感じられた。


「…雪奈のいるべき世界。こういうものがそうなんじゃないかなって思った。こんな夢を見て、それを思い出しながら描いた、過程も結果も正気の人間の出来る事じゃない」


 それを聞いて、どうなのかを考えてみた。


 私は鼎の言う正気というものを持ち合わせていないのかもしれない。だからといって、私が狂気に囚われているのかと言われても判断をしかねる。狂気と正気、異常と正常。これの境目はなんなのか。私はこれを論理的に理解することは出来ない。感覚的には、自分と他者の認識のズレによるコミュニケーションの断絶、つまり話が合わない位しか分からない。鼎ならもっと詳しく分かっているだろう。でも、私はそれを聞くことが出来なかった。


 それを聞いたら彼女とはもう話せなくような気がしたから。


 だから私は必死の作り笑いで言った。


「芸術家なんてみんなそんなものでしょ?」


「さぁ?そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。でも、少なくとも、雪奈のは破滅しかねないほどのものだと思うよ」


 本気で心配してくれる友人、然し私にはその善意の意味を理解することが出来なかった。





「お姉ちゃん、元気ないね」


 後ろから声が聞こえた。いつ聞いても明るい声。その声の主には分からないであろう悩みと闇を私は今、抱えている。


 それは1人で抱えるには大きく、そして重すぎる。だからと言ってこれを分かち合える人間だって私の周りにはいない。皮肉な事に1番近くにいる人間が私とは1番遠い存在だ。


「部活で何かあった?」


 その優しさを私は疑うことしか出来ない。分からないから、疑ってかかることしか出来ない。


 でも、言って楽になれるのなら、私は1番遠い彼女にでも伝えたくなった。


「私って、狂ってるのかな?普通じゃ、ないのかな…」


「なんだ、そんな事?狂ってないし異常者でもないよ。そういう人って自分が狂ってるかなんて分からないし考えもしないんだから」


 彼女には珍しい、凄く説得力のある説明だった。


「そうね、その通り」


 私は安堵した。自分は異常者ではないという事にではない。それよりも自分が1人じゃないという事に安心を覚えた。


 1人じゃ何も出来ない弱い生き物、それが人だ。人は沢山集まる事でその能力を発揮出来る。それは多分、常識や普通と言った抽象的で漠然とした概念で繋がっているからだ。集合意識、そういう風に言い換えることも出来るのかもしれない。その集合意識は本当に漠然としたもので殆ど無意識下でのものだ。


 これは持論。私が日頃ぼんやりと人を眺めている時に気になって自分が納得できる形にしたもの。自分で納得した結論故に、いざ自分に当て嵌めて考え始めると怖くなる。仕掛けた罠に自分で嵌るような感覚に陥るから。


 帰りは夕暮れ、夏の夜は独特の幻想さがあり私は好きだ。然し、それは田舎の方の自然豊かな所の話。実際私たちが歩く道の景観は人工物で出来上がったジャングルだ。私の求める雅さは欠片もなく、無機質で冷たいコンクリートの建物に規則的に並んだガラス窓から零れる光が歪に軋んだものに見えた。


「綺麗な星を潰すなんて、本当に何を考えてるのかな」


 そんな私の呟きを彼女は聞き逃さなかった。


「傲慢だ、なんて思ってるの?」


 私は黙った。それに答えることが出来なかったから。


「少しでもそう思ったなら間違いなくお姉ちゃんが1番傲慢だよ。人なんて、みんな傲慢なものなのに、それを憐れんでそんなふうに思うこと、自分を棚に上げているんでしょ?傲慢だよ」


「なら、貴方は?祈織はどうなの?」


 本当に久しぶりに妹を名前で呼んだ。然し、馴染んだ発声に全くと言っていいほど違和感がなかった。


「私は興味無い。星空にも、月にも、ビルも何も興味無い。あるのはお姉ちゃんだけ。今の私にはお姉ちゃんしかないの」


 そこから垣間見えた得体の知れない闇に私は恐怖した。それはまるで夢の中に出てきたあの獣のような身体にまとわりつき、肌が粟立つ感覚を与える。そして、祈織の焦点の合わない瞳が私の理性を麻痺させた。


 体の奥深くからくる震え、うなじを刺すような冷気が私を襲った。周りも不自然な程にシンとしている。


 震え声で、聞いた。


「あなた、誰?」


 彼女は笑顔で答えた。


「私は祈織、白夜びゃくや 祈織いおりだよ。知ってるでしょ?」


 私はその言葉の意味を理解すること無く、無言で帰路を歩いた。









 今日もまた夢を見る。でも、今日はマシな夢だった。


「雪奈〜!」


 懐かしい声、それに私は答えた。


「はぁーい。なに?お母さん」


 我が白夜家の朝は賑やかだ…否、寧ろ騒がしい。


「朝御飯、出来てるよ。お姉ちゃん」


 朝から元気そうに祈織が朝食をとっていた。然し、朝ということもあってかやはり少し瞼が重く怠そうだ。


 出されたのはフランスパンにコーンポタージュ。ホットミルクとヨーグルト。洋風の少し洒落た朝食だ。フランスパンにコーンポタージュを浸す。硬いパンをひたひたにする事で食べやすくする。

 一方、妹は寝ぼけているのかそのまま齧りつき、頑張って無理やりに噛みちぎる。


「祈織、大変そうね。コーンポタージュに浸せば楽に食べれるよ」


「ん〜…」


 もぐもぐと口を動かしながら要領を得ない回答をする。やはり、まだ寝ぼけているようだ。


 私はその様子を見て少し微笑み、ホットミルクを口にした。


 あったかい、それが胸を埋め尽くした。じんわりとひろがり、溶けていくような、朗らかで柔らかい日差しのような優しさ。


 私は内心で少し首を傾げたが、些末な事と切り捨てて、今はその優しい時間を愛おしんだ。


「ご馳走様。有難う、お母さん」


 それにそれにどういたしまして、とこちらを見ずに返す。でも、私を落ち着かせる声音がより一層優しく、深い愛情を含んでいる。それに私は満足した。


 髪を直し、服も着替えて学校指定のバッグを持ち、家を出る。


「お母さん、行ってくるね」


「はぁーい。2人とも頑張って!」


 祈織はお母さんに手を振った。家の近くにある桜が風に吹かれてゆらゆらと揺蕩い、花びらが舞った。その美しさ、雅さはまるでこの世とは思えない、幻想さと儚さを与えてくる。あまりにも酷く綺麗だから、私は立ち止まってその桜を見つめた。


「お姉ちゃん、どうしたの?」


「綺麗でしょう?この桜」


「そうだね〜ずっと見ていたいね」


「…それは思わないな。桜が何故綺麗なのか、それはすぐに散ってしまうからだよ。ずっと見ていたら美しいなんて、微塵にも思わない」


 私は歩を進める。祈織は理解出来ずに立ち止まった。


「行こ、時間ないよ」


 祈織は頬を膨らませ、文句を言い、でも笑顔で学校へ向かった。






 ─────下の景色が真っ赤に染まった。幾ら遠くてもよく見える。肩まで伸ばした黒髪が一層艶やかに目に映り、よく知った少しつり目な凛とした顔も、少し歪んでいるように見える…否、歪んでいた。手足は人間の可動域をはるかに超えた角度に捻れ、大量に飛び散った血から中の臓器は無事では無いことが見て取れた。朝、目にした桜よりも濃いベニシダレの花びらが血の池に舞い落ちる様子を見て私は、「ずっと見ていたい」と思った。






 相変わらずの夢。でも、いつもよりはマシだった。


 あんな夢を見て、いつもよりマシと言えるのは確実に夢だと分かるから。何故なら…


「お姉ちゃん、朝だよ」


 ほら、呼びに来た。


「えぇ、分かってる。でも、私は今日外を出歩くつもりは無いよ」


 ドアを開けずにそう答えた。何故か、ドアを開くのが怖い。漠然とした恐怖が、私の行動を制限した。


「そう…じゃあ、行ってくるね」


 何処か寂しそうな声が私の心を締め付ける。

 また、妹と距離を置くようになった。


 それから少ししてインターホンが鳴った。


「やっほー雪奈〜。寝てたでしょ〜」


「鼎らしくない。なんでそんなにテンション高いの?」


 彼女はまぁまぁと言いながら遠慮無く家に上がりこんだ。私は長袖のパジャマを着ていて寝癖も凄い、しかも今日は誰とも会いたくなかったと言うのが正直なところだが、そんな事は気にしない彼女はリビングのソファーで我が家の如くくつろぎ始める。


 更に彼女の服装は制服ではなく私服なのだ。つまり、本当に遊びに来ただけでその遊び相手の状況など何も考えずにここに来たのだろう。


「ねぇ、なんで来たの?」


 少し冷たくなったが、彼女は私の質問にすら答えずこう言った。


「客をもてなさないの?」


「…」


 私はわなわなと震える手で紅茶を淹れ、自分のおやつ箱からクッキーを取り出して鼎に差し出す。


「私はいつからあなたの召使いになったの?」


「そう怒んないでよ。これ、本当に美味しいよね」


 パクパクとクッキーを食べる。彼女がお菓子を食べる時はリスや兎のような可愛らしい小動物のように思えて見ているだけで頬が緩む。


 私はため息を吐いてくつろぐ彼女の横へ座り、1枚クッキーを食べた。


 芳ばしさの中にほんのりとした甘さがある。紅茶と合わせることを考えるならこれは正解だが、少し味が薄いように感じるので単体では微妙だと感じた。


「本当に美味しい?」


 その言葉を聞いて彼女は私の太ももに頭を乗せ、見上げるようにして答えた。


「美味しー」


 その間の抜けた声に少し呆れた。


「…ねぇ、その腕、何?」


 そう言われて左腕に目を落とした。長袖の裾がめくれている上、巻いていた包帯が緩んで少し傷跡が露出している。驚く事にこの体勢から左腕の傷に気付いたらしい。


 包帯を巻き直しながら、関係ないでしょと冷たくあしらった。それが彼女にとってあまり気に入らなかったらしく、不機嫌そうに立ち上がった。


「関係無くはないよ」


「なんで?関係ないでしょう?」


「じゃあ、逆に言うけど私がそういう事してて、それを雪奈が見たら心配になるでしょ?」


 彼女は心配してくれた。それは分かってたしその上での発言だ。彼女の発言は答えになっていない。何故なら私の問題に何も知らない人間が口を出す事など烏滸がましい。それが例え友人であったとしても、踏み込んでほしくないものはある。


「鼎には分からないよ…好きに休んでって、出ていく時は勝手にして」


 そう言って自分の部屋に帰ろうと太ももに乗ってままの頭を退けようとするが、鼎は自ら体を起こして私を押し倒した。


「何それ、水臭い。それとも…私との関係はその程度だったの?」


 泣きそうな顔で彼女は私の胸に顔を埋めて言った。


 その言葉から感じる重みは友人だからと終わらせるにはあまりにも深く重かった。その重さは負荷となって私の心を強く圧迫する。


「苦しいよ、鼎」


 でも、退いてくれない。彼女は無言で埋めている。それがどうしようもなく不快で、苛立ちを覚える。然し、友人である彼女に無理やりな解決をするのも気が引ける。


 どうにかして退かせたい私は心にも無い言葉を諂った。


「…ありがとう、鼎。心配してくれて…」


「そういうの、本当にやめてね。見てて痛々しいし、心配になる」


「らしくない。鼎ってそんな子だっけ」


 私は少し重たい空気を払拭するように笑いながらそんな事を言う。内心はやけに煩わしい今日の彼女に辟易し、なんならどこかへ消えてしまえばいいとさえ思っている。そして、そう思っているのに顔にも出さずに平然と嘘をつく私自身に嫌悪を抱く。


 こんな、醜い私の中を見ないで欲しい。誰にも見られたくない。私という存在に目を向けないで欲しい。


 そう考えているのに実際にとった行動は場の空気をとる言動。矛盾していて、そして、それがいつも私を苦しめ苛む。


 私のこんな悩み、不安すら鼎に感じさせない程に私の作り笑いは上手いようだ。


「ねぇ、付き合って」


 明らかに動揺した姿を私はみせた。そして彼女はそれを見て少し、悲しそうな顔をする。


 …それは彼女の心からの言葉。鼎のその愛情を恋慕を、私は無下にする事は出来ない…否、しないだろう。何故なら皮を被った私、偽物の私はいつだって対面した人の望むものをみせる。偽物の私に自分の意思などない。だからこそ、彼女の告白を私は受け止めるだろう。でも、それを外から眺める私自身はどうなのだろうか。私は、彼女の愛を受け止められるほど彼女を好いているのだろうか。


 思考がひたすらに回り続ける、回れば回るほどに心に重みが圧し掛かる。苦しくなる、逃げたくなる。


 どちらを選んでも、彼女には辛い思いをさせる。早いか遅いかだけの違い。それを私は選べない。


「鼎。本当に私が好きなの?」


 その最低な質問を、彼女はどう捉えたのだろう。こんな、卑屈で逃げに徹した質問に彼女はどう答えるのだろう。その答えに、私はどう回答するのだろう。


 自分が自分でない。正しく今の私のことだ。私は選べないのに、私は責任を取れないのに、惰性で、流れで答えを言うつもりなのだ。


「冗談よ、もう、雪奈はいつも純粋で可愛いな〜」


 その笑顔の仮面の下にある、悲壮に満ちた表情を私は愁いだ。そんな憐れみを彼女は求めていない。わかっている、わかっているのに私は彼女を抱擁し、艶やかな黒髪を優しく撫でた。


「…酷いよ、雪奈…」


 それに私は何も言えず、ただその行為を続けた。

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