秋の気配は突然に。~そしていきなりの冬~
夏休みの季節は楽しく過ぎて行った。
社会人だから学生に比べたら休暇の日数は少ないけれど、仕事をしている平日も、僕には楽しい日々だった。梨子がいるだけで、自分を慕う異性がそばにいるだけで、明日が来るのが待ち遠しかった。平日の昼間、君が部屋で何をしているのか、或いは外出しているのかは全く気にしなかった。間借りしているからって掃除や洗濯なんてしてもらう必要もない。帰ればいつも君はいる。僕のために何もしなくていい。夕食だって本当はどうでもいい。だからこのままずっといて欲しい。親子ほどの歳の差だけど、もしも許されるなら君との将来を真剣に考えてもいい。小説家の夢なんて、梨子がいて幸せな暮らしができるならどうでもいい。
平凡でもいい。こんなうだつの上がらないおっさんだって愛する家族が欲しい。帰る家が欲しい。
君の笑顔を見る度に、僕はそう思った。
九月に入っても暑さは続いていた。君はまだ部屋にいる。新たな宣言は何もない。二人の日常が、何気ない一日の積み重ねになっている。少し違和感もあるが、異を唱えるほどの理由はなかった。
君に変化が現われたのは、やっと秋の気配を感じ始めた中旬くらいからだった。
僕に接する君は相変わらず。笑顔もあるし可愛げのあるふくれっ面もある。セックスも情熱的だ。けれども、君は何かに苛立っていた。中々開かないゴミ袋とか、せっかく載せた歯磨き粉がブラシから落ちたりとか、簡単に被れるTシャツの指が袖に引っ掛かったりとか、その矛先はほんの些細な思い通りにならない、僅かな時間に向けられていた。
君は独りで何かを抱えているように見えた。苛立ちの矛先は本当は僕だったのかも知れない。そう確信した事件が起こったのは、何気ない土曜日の午後だった。
梨子はその日も朝から何かに苛立っていた。だから僕は気晴らしの積りだった。もちろんそこには『家族』に向けての下心も含んでいた。
建築雑誌を捲る梨子の肩に手を掛け、僕は提案した。
「明日さあ、海に行こうか?真夏の海は人が多くて好きじゃないけど、人のいない海は意外に奇麗で、違った趣があっていいよ」
君の反応は予想外だった。歓喜の声もない。しばらく静寂が続いた後、必要以上に力を込めて閉じた雑誌の音が部屋中に響く。
「実クンてさあ、これからどうするの?!」
これまでに浴びせられた厳しい言葉の数々には少なからず思いやりがあった。君の口調に鋭い棘を感じたのはこれが初めてだった。
嵐の予感がする。
「これからって?」
「実クンの人生このままでいいの。このまま大きな責任を背負うことのない派遣の仕事でそこそこ稼いで、その日その日が何不自由なく、平凡に暮らしていければそれでいいの?」
梨子の激しい剣幕に圧倒された。
「ボクがいるからだらけちゃった?それともボクが来る前から実クンてそんな感じだったの?実クンてずっとボクのご機嫌ばっかり気にしてるよね」
そんなことないよと、口に出して反論するだけの自信がなかった。
「そんな実クン、ボクはキライだな!」
服従、服従って自分から言っといて、いきなり嫌いって何なんだよ!
「お前に、俺の何が分かる?まだ親のすねかじって生きてる小娘のくせに、俺のところにだってこうやって居候している分際で偉そうなこと言うな!」
僕の中で何かが切れた。
「俺だってずっとこんな生活していた訳じゃないし、こんな生活を続けて行こうとは思わない。若い頃は、社会人になり立ての頃は、梨子の言うように、確かに甘い考えだった。稼いだ金は生活費を家に入れれば、他はほとんど自分で使えたから好きなモノは何でも買えた。それだって全部を使い切るほど、購買欲もなかったから、次第に貯金も増えていった。このままのんびり過ごして、いつかは人並みに結婚して、平凡に暮らせればいいななんて軽いノリで考えていた。ところが仕事にだんだん息詰まってきて、新しい目標も見つからないまま、遂には逃げ出した。目標が見つかっても家族のこととかで思い通りには進まなかった」
「目標って何なの?」
「俺は小説家になりたいと思った。でも生活費は稼がなきゃいけないし、家族が病気で看病しなきゃいけないしで、毎日毎日疲れ果てて、夢に向かう体力さえなくなっていった。今はお金も気力も充電期間なんだ。今まで大変だったんだから少しくらいのんびりしてたっていいいじゃないか」
「実クンて、そうやって自分の本音を誰かにぶつけたコトあるの?ずっと自分の心の中に閉まってたんじゃないの?それじゃ、周りの人は実クンが何を考えてるのかぜんぜん分からないよ。変わった人だって煙たがられるだけだよ。自分の夢が挫折した時傷つくのは自分だけで、分からなければ誰にも迷惑がかからないって思ってるのかも知れないけど、実クン、それって自分からも逃げてるんだよ。不言実行の反対の造語で『有言実行』って言葉があるでしょ?言葉には魂が宿るんだよ。自分のやりたいコト、口に出して宣言しないと、自分の行動に責任を持たせないと夢って実現できないんじゃないかな?それで周りの人が夢を理解してくれれば、大きな助けになる。たとえ夢が叶わなくても、実クンが一生懸命立ち向かった結果なら、誰も責めたりしないよ」
頭を打ち抜かれた思いがした。
「あと、これまで夢に向かって行けなかったの、家族の病気とか他人(ひと)のせいにしてるけど、自分のことを後回しにして家族を優先しようって決めたのは、実クン自身だからね。誰かがそうしろって言った訳じゃないでしょ?本気で進むならもっとやり方があったはずだよ。それだって実クン、自分から逃げてたんだよ」
君は僕を睨みつけたまま立ち尽くした。
「ボク、しばらく莉美の家に泊まる。実クン自分のこれからのコト、よく考えた方がいいよ」
梨子は玄関ドアを強い力で閉め、出て行った。突然勝手に転がり込んで、突然キレて出て行った。行動だけ見れば、大人がいちいち腹を立てる今時のわがまま娘だ。
でも(何度も言うが)君の言葉はいちいちもっともだった。完璧すぎて返す言葉が見つからなかった。僕は振り回されながらも梨子に甘えていた。そして独りで浮かれていた。
僕は一体何をしていたんだろう。
それにしても君の老成した考え方は一体どこで身に付いたのだろう。
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