危険な誘惑。
六月最後の月曜日。仕事帰り。
湿気を含んだ生暖かい空気が絡みつく、うっとうしい季節の中の、最も憂うつな週の始めを無難に切り抜け、僕は帰宅する電車のシートに深く身を沈めていた。乗客が混み合わない一番前の車両に乗り込んだから、席を確保するのは容易だった。今日の作業を思い出しため息を大きくつくと、僕を見ているセーラー服に気づいた。
清潔感漂う純白のシャツの胸元の、大きくて青いリボンが鮮やかに目に飛び込む。左胸には校章と学年章と思われる印章が控えめに並ぶ。紺のプリーツスカート丈は、既定よりも少し短くしているようで、おっさんたちは喜ぶかもしれないが、バランス的には少し不自然な気がして、まるでコスプレのようだった。それを差し引いても、白の長いソックスに包まれた床に伸びる脚、特に膝から下は、周りに立つ他の学生たちに比べて際立って長いと感じた。つり革を掴む腕の関節までの長さも日本人のそれを逸脱している。それでいて日本人然とした顔立ちに、今時の若者に見られる小顔。きりっとした長い眉に、吸い込まれそうな大きな瞳。髪はショートカット。八等身のスタイル。見た目ボーイッシュだがとても魅力的な娘だった。無関心なふりをして三度視線を送る間、その少女と三度とも目が合った。視線は完全にロック・オンしていて、全く動く気配がない。
僕は咄嗟に身の危険を感じ、無視を決め込んだ。誰もが一目見て釘付けになるような少女が、自分に興味を持つはずがない。勘違いして痴漢扱いされては残りの人生を棒に振るだけ。だから視線は刺さるけど、一切関知する気配を見せなかった。
車中の緊張感に耐え、何事もなく駅の改札を出た。ホームは一つだけ。それ程大きくはないが乗降客は終日通して切れ目がない、使い慣れた駅を背に、一〇〇メートル程ある昼間のように明るい繁華街を通り抜け、照度がひとランク落ちたように薄暗くなった歩道をホッと一息つきながら独り歩き始める。ここまで来ると人影もまばら。駅から部屋までは徒歩で十五分はかかるのだが、運動不足を少しでも解消しようと仕事疲れの身体に鞭打ち、他愛のない考え事をしながら家路に着く。泣き出しそうな曇り空が続く中で、珍しく日中ほど気にならなかった空気の湿りが、僕の歩を心地よく進めさせた。
「ねえ、おじさん!」
声に反応して一瞬身体が浮いた。背中の方からの若い女の子が呼び掛けている。車中のセーラー服のこともある。僕は聞こえない、或いは他の人を呼び止めていると思った体で無視して歩き続けた。
「ねえ、おじさんボクとセックスしない?」
衝撃的な誘いは少なからず僕を動揺させる。
横に並んで覗き込む顔に再び胸がひと鳴りする。さっきのスカート丈の短いセーラー服が隣りに立っている。車中では離れていたから気づかなかったが、背は高い。笑みを湛えたその顔は少し上から僕を見ていた。それでも構わず無視し続けた。暗がりでいきなり甘い誘いを口にするのは犯罪がらみの少女に決まっている。
「君、まだドーテーでしょ?」
構わず横で問いかけている。
僕は童貞じゃない!経験は少ないけど。
「ボクがドーテー捨てさせてあげるよ」
だから童貞じゃないって!
怒りが込み上げ足早になる。
「ボク、東野華奈子の娘だよ」
懐かしくも切ない響きに思わず足を止めてしまった。
「あ、やっぱりそうなんだ。君、中学生の時ママのことが好きだった冴木君でしょ?」
「どうしてそれを?」
何も出来なかった三十年前の人生の汚点。
「ウフ、ナイショ。だからボクと付き合お?」
「なんでそうなるの?明らかに学生でしょ?おじさんが警察に捕まっちゃうよ」
「ボクがセーラー服だからダメなの?だったら服着替えたら付き合う?」
「そんな問題じゃないよ」
君はふうっとため息をつく。
「ねえ、冴木クン、ボクと付き合いたくないの?こんなカワイイ子が君みたいなおじさんとセックスしよって言ってるんだよ。それとも冴木クン本当はゲイ?」
「何バカなこと言ってるんだ。大人をからかうと交番に連れて行って補導してもらうぞ」
「いいよ。連れ行っても。それでおまわりさんからママに電話してもらいなよ。冴木クンもその方がうれしいんじゃない?」
「え?」
この少女は痛いところを突く。それが出来なかったから華奈子とは何もなかった。話すきっかけんなんてでっち上げでも何でもいいんだ。本当に異性と付き合いたいのなら。
何も言えず立ち尽くしていると、君は突然、まるで猫のように身体を摺り寄せ始めた。
「え!ちょ、ちょっと・・・」
「ボクさぁ、ちょっと今家出中なの。帰るにも家はここから遠いんだ。だから今夜泊めて。泊めてくれたら何でもするからさあ。ねえお願い」
右手が股間を這った。
え、あっやめろ・・・。
君の指先は手馴れていて、男性器の微妙な凹凸も滑らかになぞった。
「泊めてくれないと、ボクこれから交番に行ってエッチなこと強要されたって叫んじゃうよ」
右手が最も敏感な部分をピンポイントで掴んだ。少女の甘い香りが悪魔の囁きを強く後押しする。
「ま、待って、一旦……離して……」
僕は腰を引き、必死に正気を保った。
ひとつ大きく深呼吸をする。
「ほ、本当に今夜だけ?」
「うん、今夜だけ」
「それじゃあ、今夜だけだぞ」
明らかに君のテクニックに屈していた。と同時に期待すら抱いてしまった。それに華奈子の娘だという君の言葉が気になったのは言うまでもない。
「うわぁ、ありがと!ボクの名前はリコ」
「りこ?」
「そう、梨の子って書いて梨子、よろしくね」
少し上から満面の笑みをたたえた少女の顔が僕を見つめている。照れて視線をそらしている間に梨子は左腕を掴み恋人つなぎをした。
「な、なんだよいきなり。これってラブラブカップルのつなぎ方だろ?」
「そう、恋人つなぎだよ。冴木クン、彼女いないんでしょ?泊めてくれるお礼に、これからちょっとの間、ボクが冴木クンの恋人になって女の子にしてもらいたいこと、何でもしてあげるよ。『恋人つなぎ』ずっとしたかったでしょ?遠慮しないで」
梨子は再び身体を摺り寄せ、いたずらっ子の目で僕を見た。初対面の少女に断定されるのは心外だが、当たっているから言い返せないしまるで催眠術をかけるように、大きな瞳で見つめられてはなす術がない。
「あ、呼び方、実クンでいい?それとボクが泊まってる間は恋人だから、もちろんセックスOKだよ。これでやっとドーテー解消ね」
「セックスOKって、今会ったばかりだぞ!それに、僕は童貞じゃないって!」
いいからいいからと君は聞く耳を持たなかった。平均寿命を半分経過した現時点で確かに経験数は片手の指でも余る。前回はいつだったかすっかり忘れているくらいだから、胸を張って童貞を否定もできない。君の主張があながち間違いではないことも少し僕を苛立たせる。でもすぐに許してしまう。恋人つなぎをしたまま、まるで幼稚園児のカップルのように大きく手を振り楽しそうに歩いている。
可愛い娘はあらゆる意味で得な人種だ。
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