水獄

戦ノ白夜

水の牢獄

 「そういえば君は、『人魚姫』という童話を知っているかい」

 青白い光と、休まぬ機械の静かな作動音が満ちる部屋。

 彼女は分厚いガラスの壁を隔てて白衣の男の言葉を聞き、左右に小さく首を振った。

「おや、誰も話さなかったのか」

 フレームの細い眼鏡が光を反射するせいで男の目の色は覗えず、顔も至って普段通り、初期のアンドロイドよりも機械めいた薄っぺらい微笑を貼り付けている。声には、幾らかの皮肉な笑いと揶揄の響きを含んでいた。

「それなら、簡単に教えてあげよう」

 頼まれもせぬのに、彼は淡々と語り出した。


「……ある日、人魚姫は、船が沈没して溺れかけた人間の王子を助け、浜に運んで介抱してやった。そこへ人間の娘がやってきたので、彼女が慌てて海に隠れたとき……王子は目を覚ますと、目の前にいた娘を命の恩人だと勘違いした。

人魚姫は海へと戻ったが、彼女は王子のことが忘れられない。所謂いわゆる一目惚れだよ、分かるかい? 人間の王子のことが好きになってしまったということだ。

人魚姫は魔女のところへ行った。そして美しい声と引き換えに人間の姿を得て、陸に上がった。但し、王子と結婚できなければ海の泡となって消えてしまう、という呪いをかけられて、ね。

人魚姫は運よく王子と一緒に暮らせることになった。しかし、王子は自分の命を救った娘と結婚するという。本当は、それは人魚姫なんだけれどもね……彼女は声を奪われてしまっていたから、王子の勘違いを正すことができなかった。そうして王子は、単に砂浜で出会っただけの娘と結婚してしまった。

人魚姫は悲しんだ。そんなとき、彼女の前に姉たちが現れ、魔女のナイフを渡したのさ。そのナイフで王子を殺し、返り血を浴びれば、泡にならず人魚に戻れると言う。人魚姫はどうしたと思う?

……結局、愛する者の幸せを壊すことができずに、ナイフを海に捨てて泡になったんだよ。美しい話だと思わないかい」


 彼女はずっと、光の消えた目でどこか一点を見つめ続けていた。ガラスが映し出す己の分身、現実、あるいは虚空だろうか。何も言わない。元より男も、返答を期待してはいなかった。

「まあ、君には縁のない話だがね。一生水槽の中、人間の世界を知ることもなければ、王子も現れないさ」

 そう、人魚姫がどうということではないのだ。単なる皮肉だった――冷ややかに、傲然と彼女を突き放し、『出来損ない』という存在、自身の失敗への苛立ちをぶつけているだけだった。

「もうすぐ『掃除屋』が来るよ。失敗作同士、精々仲良くするといい」

 そう言い残し、無機質な足音を響かせながら大股に部屋を出ていく。それに伴って、ふっと照明が暗くなり、わだかまる薄闇の青さがにわかに増した。


 海の掃除屋――鮫。


 生まれてすぐに閉ざされた水の牢獄に捨て置かれ、そこから出たことのない彼女は、『掃除屋』というのが誰であるかを知らない。ただ漠然と、少なくともいい人ではなさそうだと思っただけであった。

 尾ひれを翻してふわりと浮き上がる。しかし澱んだ水越しに水以外の揺らめきを見て、再び水槽の壁にぴたりとくっついた。

 ガラスの向こう、更にその向こう、廊下に映る影。

 何人もの人間に囲まれ、何丁ものレーザー銃を突きつけられながら、明らかに不機嫌そうに歩いていく男。

 大柄なその男の左腕、上から下までを覆う入れ墨――そして、膨らんだ右上腕部に刻まれた焼印の文字だけが、何故かレンズを通したかのようにはっきりと見え、彼女の目に焼きついた。


『S159-04』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る