『ピリカとピカリ』

N(えぬ)

海は生命の源

ある科学者が海岸を散歩していた。冷たい風が吹き少し波の立つ海岸にいるのは、その科学者一人だった。


彼は海岸線を散歩するのが好きだった。普段一心に研究に没頭して頭の中を研究でいっぱいにしている彼は、この海岸を散歩するとき、何も考えず、頭を空っぽにして、ただ寄せては返す波の軌跡を見たり、海が織りなす沖のうねりの雄大な姿を見たり、水平線のその先に吸い込まれるような気分を味わったりしていた。


科学者が歩きながらコートの襟を手ですぼめて、ふぅぅっと息をついたとき、突然目の前に人が現れた。その人は海岸線を歩いてきたのではなく、波に洗われながら海の中から出てきた。科学者は多少のことでは驚かないが、これにはいささかぎょっとした。海から出てきたのは人間でいえば全体に女性の特徴を有していたが、一般的な人間とは少し違っていた。それに、『彼女』は潜水に必要な装備などは一切身に着けていなかった。茶色い布切れを縫い合わせて作ったようなものを胸と腰の周りに充てているだけだった。


彼女は海から出現して科学者の前まで来ると2メートルほど手前で正対して止まった。


「あなたは『ピカリ』の人の有名な科学者ですね?」と彼女は言った。


言ったように感じた。彼女の口は動いていなかった。科学者は彼女が額の辺りから音波のようなものを発信してこちらの脳に直接話しかけているように感じた。


「君の言う『ピカリ』とはなにか?」科学者は、彼女を正面にとらえたまま身じろぎせず尋ねた。


「わたしは『ピリカ』の一人。海の底に住まう人間です」


「海の底に住んでいる?そんな人間がいるのか?おとぎ話じゃあるまいしっ」


科学者の声には自分がからかわれていることへの不快を表す怒気と不満が少し含まれていた。けれども、彼女が海から現れたことや、形態に人間と少し異なる点を見出せるし、声をこちらに伝える方法は、地上に住む人間とは違うものを感じるのも事実だった。


「何か証拠がなければ信じるわけにはいかない。それが科学というものだっ」と科学者は暗に証拠を見せろと一歩前に出て言った。


「海の底に住むという、わたしのことを嘘だと思いますか?」


彼女の声には一切の動揺も感じられなかった。そしてさらに話をつづけた。


「人は遠い昔、海に住むひとつの種族だったそうです。やがて人は海から顔を出して、地上へと住む世界を広げました。


そのころ、空から注ぎ地上にあふれる輝きを『ピカリ』と呼び、家の中を明るくするものや、その輝きの発する熱で何かを温めたりするものも『ピカリ』と呼ばれていたそうです。ピカリはとても便利で様々なことに使えたので、地上に定住して海に戻らない人が増えてゆきました。


やがて、海と地上とを行き来するのではなく、全く別の種族として分かれたのです。そのときに、海底に住まうものも『ピカリ』の恩恵を、地上とは違うものとして『ピリカ』と名付けて持ち帰ったのです。


それから長い長い時間が経ち、言葉も変化しましたが、海の底に住むわたしたちは自分たちを『ピリカ』と呼び、地上に住むあなた方を『ピカリ』と呼ぶようになったのです」


彼女が語り終え、科学者はその滑らかな話しぶりに偽りを感じはしなかったが、「何分、話だけではな……」とぽつりと言った。


「そうですか。わたしの話だけでは信じてはもらえないのですね。そうかもしれません……ですが、わたしが今日、あなたに伝えたいのは、もっとちがうことなのです」


今度は彼女が言葉に力を込めて、科学者に一歩よった。


「伝えたいこととは、なにか?」


「地上の『ピカリ』の人たちは長い間、いらなくなったもの、ごみ……とにかく何でも海に捨ててきましたね?


それらは海底に積り、わたしたちの生活を脅かして来ました。


もはや黙って見ているわけにはいかないと、先日、ピリカの国の政府は海底に溜まったあらゆるごみを地上に返すことを決議したのです。


正確な実行の日はまだ決まっていませんが、ピカリの人々に事前に通告はされません。だから、わたしはピカリの人に伝えたいと思い、高名な科学者だというあなたに伝えに来たのです」


ピリカの彼女は話し終えると少し涙ぐむような表情で科学者の手を取り、頷いて見せた。


「では、わたしはもう行きます。どうか私の話を信じて……」そういうと彼女は冷たい海の波間に消え去った。

残された科学者は茫然として、


「興味深い話ではあったが、根拠がなくてはな」そう言って、ふと右手の指に付いた透明なネバネバした物質を見た。


「こりゃいかんっ!」と科学者は走り出した。


しばらくして、科学者は『ピリカ』の政府に「ピリカとピカリの危機を救った英雄」として正式に海底へ招かれ七日間の歓待を受け、地上に戻った。


科学者が自宅へ帰るとそこに大きな建物が立っていた。それは、地球存亡の危機を回避させた科学者の名を冠した記念館だった。建って100年が経過していた。


「素晴らしい!自分の研究活動の成果を自分の目で見られた!」



おわり

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『ピリカとピカリ』 N(えぬ) @enu2020

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