4章 楊貴妃は最期に何を見たか

 本気で愛していた夫と無理やり別れさせられたのは悲しかったが、皇帝の寵姫に成り上がることができたからには、気持ちを切り換えてその利益を最大限に享受することを目指そうと楊太真は思った。


 元号が開元から天宝に変わって、太真は貴妃に冊立されることとなった。


 太真としては、その前にどうしても一つ確認しておかねばならぬ事項があった。


「陛下、お気づきのことだとは思われますが、わたくしは前の夫とは五年ほど夫婦でありました。その間、一人の子どもも産んでおりません。つまりわたくしは、産めない体なのです」


「そこのとならば、とっくに気づいていた。厳密には、最初に高力士が指摘してくれていたのだ」


 逆に太真の方が驚かされた。


「色々あってようやく皇太子を決めたのだ。新たに皇子が生まれて、また無駄な皇位継承争いが起こっても困るのだ」


 そういうことならば、自分が子を産まなかったとしても寵愛を失うことは無いだろう。だが、自分以外の他の女を新たに寵愛するようになってしまう危険性は常に警戒しなければならない。


 そんな楊貴妃の不安を、玄宗皇帝の方が忖度してくれた。楊貴妃の機嫌を取るために、身内の楊国忠を高官に任命した。楊貴妃の姉たちも恩恵を受けて贅沢を凝らすようになった。


 かの李林甫宰相と入れ替わるようにして楊国忠が宰相となって実権を握った。玄宗皇帝は政務を疎かにし、宰相に任せきりで、ずっと楊貴妃に夢中だった。


 その間、北東の辺境の地では安禄山が子飼いの兵士を集めて力を蓄えていた。安禄山の危険さに気づいて処置する機会は幾度もあったけれども、玄宗の判断の甘さで、ついに取り返しのつかない事態になった。


 天宝の末年、西暦755年に、大反乱が勃発した。安禄山と史思明が主導したので安史の乱と呼ばれるようになる。軍勢はあっという間に冬の黄河を渡り、二十万人と称する大軍で東の都洛陽を陥落させた。その勢いで、皇帝が西の都長安にも迫る。ここでも、上手く軍隊を運用していれば反乱軍を食い止める機会はあったのだが、反乱軍の単純な策に乗せられて長安陥落が目前に迫ってしまった。


 皇帝とその一族は、側近たちと護衛の兵士と共に、きわどいところで長安を脱出し、楊貴妃の故郷であり楊国忠の地盤でもある蜀の地を目指した。


 だが、馬嵬の地で護衛の兵士たちが反逆し、楊国忠宰相と楊貴妃の姉たちを殺した。兵士たちは、楊貴妃も殺すことを要求している。


 誰よりも楊貴妃本人が一番覚っていた。今までの皇帝の寵姫としての栄華の日々は、ここで自分が殺されることによって、最終的に天と地の命運の収支が合うということなのだ。


 楊貴妃は懐から長い絹布を取り出した。あの幸せだった日に、最初で最愛の夫である寿王からもらった陰毛押さえ用の絹の帯だ。


「高力士将軍、お願いです。この絹布を使ってわたくしの首を締めてください」


 言って楊貴妃は、愛おし気に絹布を眺めた。


「分かりました、楊貴妃様。では、あちらにある小さな仏堂の中で、最期の瞬間のお手伝いをさせていただきます」


 楊貴妃は最後の誇りで、なよなよせずにしっかりした足取りで歩いた。離れた場所で起きている兵士たちの騒動は、今は小康状態らしく、少し静かになっていた。指示された仏堂に入ると、澱んだ黴臭さが蜘蛛の巣を縫うようにして纏わりついてきた。


「ところで楊貴妃様、これは随分古そうな絹ですが、どういったものでしょう」


 この場には玄宗皇帝は居ない。高力士と二人きりだ。ならば隠す必要も無いので、寿王から絹布をもらった経緯を正直に語った。


「そういうことでしたか。でしたら、しばしの間、この場所でお待ちいただけますでしょうか」


 大柄な高力士は大股で走って出て行った。


 言葉通り、さほど待たすことなく高力士は一人の男を連れて戻って来た。その男の姿を見て、楊貴妃は思わず眼尻から涙が零れるのを堪え切れなかった。


「玉環。じゃない。楊貴妃様。お久しぶりです」


 最初の夫であり、玄宗皇帝の第十八子である寿王であった。二人が結婚した時からは既に二十年の歳月が過ぎ去っているので、寿王はかなり老け込んでいた。それでも、あの日の眼差しの優しさは変わっていなかった。


「あなたも長安を抜け出して逃れる一団に一緒に居たのですね。これも、定めというものでしょうか。わたくしは皇帝陛下から死を賜りましたので、あなたに、そのお手伝いをしてほしいのです。これを使ってください」


 楊貴妃が差し出した絹を、当然ながら寿王は覚えていた。


「あれから随分と時が流れました。さすがに私もあの後、別の女性を妻に迎えています。楊貴妃様も、陛下のご寵愛をお受けになるようになられたのに、それでもまだこれを使ってくれていたのですか」


「あなたの手で、あなたからの贈り物で最期を迎えられるのならば、わたくしとしてもこれ以上の望みはありません」


 寿王は滂沱たる涙を流しながら、大きく頷いた。


「今日、私がここに居合わせたのも、そういう縁なのでしょう。楊貴妃様がなくべく苦しまずに済むように、役目を果たさせていただきます」


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