週末、夜さりに夢を見る。
藤見 ときん
第1R ある夜さりに
第一話
──もう、嫌いだ、何もかも。
いつにも増して不機嫌そうなその男は、そんなことを呟いて、不夜城となりつつある繁華街を一人歩いていた。通りすがったサラリーマンは、物珍しい目で男を眺めながらも知らないふりをする。なぜこんなにも怒りを露にしているのかというと、つい先ほど、付き合っていた女性からこっぴどく別れを告げられたからである。
三年の付き合いを経た彼女と、仕事終わりのカフェで一服。何気ない雑談を楽しんでいた際に、いつの日か結婚を夢見る彼女が、男に対して問いを投げかけたのだ。
「ねえ、彰の実家はなんのお仕事してたんだっけ」
実家は自営業なんだと伝えていた。だからこそ、将来一緒になるやもしれぬ相手はどんな職種をしているのか──彼女は気になったのだろう。それに対し男はなんてことないといった様子で返事をする。
「生産牧場だよ。競走馬を育ててるんだ」
「競走馬って?」
「競馬に出る馬。それ以外も育ててるけど、主な生産は競走馬で……」
その答えには、なんの不都合もなかっただろう。そう考えてさらりと返事をした男であったが、対して夢いっぱいの笑顔を浮かべていた彼女は、それを聞いて表情を一転させた。すっと感情が根こそぎ抜け落ちたような顔つきで、男から静かに距離を取る。
「競馬って賭け事でしょ、そんなことに使う馬を育ててるってこと?」
「え?あ、いや、その、そんなことは……」
男は豹変した彼女に驚き、酷く狼狽して、続ける言葉が出てこなかった。競馬は確かに賭け事ではあるけれど、競馬場は近頃家族連れで訪れることが出来るような場所に変わってきているし、暗いイメージ払拭のための活動だって頻繁で──そう言いたかったはずの男の喉は、彼女の深いため息の音で、きゅっと酷く狭まるばかりである。
彼女はしかめっ面を隠そうともせず、おどおどとする男に対して荒々しく言葉を告げた。
「そもそも、牧場って。繁忙期になったら手伝わされるに決まってるじゃん。言っとくけどそんなのごめんよ。しかも私、動物苦手なのよね。悪いことしてないのに襲い掛かってくるし、世話はかかるし」
男はその言い草にかちんときて、ぐっと拳を握りしめた。牧場の繁忙期は確かに、生半可な言葉では言い表せないほど忙しい。しかし、何の関係もない人間を無理やり引き込むほど無責任な場所でもない。それこそ未来の競走馬を預かるのだから、知識も経験もない人間をすぐすぐ雇うはずがないのだ。動物に苦手意識がある、なんて話す相手はもってのほか。仕事をして十分も経てば、「邪魔だから帰って」と言い放たれるに違いない。動物に対しても随分な言い草だ、と男は不満げに眉をひそめた。
「なによ、本当のことでしょ」
「…………そんなこと、ないだろ。尻尾掴んだり、無理やり頭撫でたり、後ろから近づいたり……原因もなにもないのに襲い掛かってくるわけない、し」
「はあ?なに、私が悪いっての?そもそもアンタだって、その牧場継ぐのが嫌で都会に出てきたクチでしょ?今更何いい子ぶってんのよ、キモイんだけど」
彼女は艶やかな爪の先を、テーブルにコツコツと打ち付けていた。イミテーションの石を飾り付けたその爪は、垢ぬけてはいたものの、作業をするための指先とは程遠い。
男は彼女の強い口調に肩を震わせたが、冷め始めたコーヒーを一口含んでから相手を睨みつけた。カシャン、とソーサーにカップが乗って耳障りな音が鳴る。
「別に、お前が悪いとか言ってる訳じゃなくて」
「あー、もういいよ。冷めたし。牧場の息子と結婚とか、マジムリなんだけど。隠してたのだってどうせ言ったらこうなること、分かってたんじゃん?」
「それは……でも、機嫌を損ねる言い方したのは悪かったよ!でも、牧場が悪いとかそういう発言だけは、ここで撤回して欲し──」
バン!と勢いよくテーブルが叩かれた。
コーヒーカップがぐらりと揺れて、すぐさま元の位置に戻る。続けて、はあ、と深い嘆息が漏れる音。
それが聞こえてから、男の口がパタンと静かに閉じられた。自分勝手に悪く言うのはやめろ、と吐き捨ててしまえばよかったのに。
彼女は冷えた目線を男に据え、言い捨てる。
「あんたっていつもそうよね。前から思ってたのよ。自分の意見ははっきりしないし、諦め癖だってある。……ほら今だって、何も言い返せやしないじゃない」
男は血が出るまでグッと口の中を強く噛み締めていた。もう何も言葉を返さない。ただ目の前の女性に手を出すことだけはしないように、自身の怒りを押さえ込もうと必死になっていた。
彼女は高くて小さな鞄を引っ掴み、そのまま喫茶店を出ていく。もちろん、二人分のコーヒー代が書かれた伝票はひっそりとテーブルの隅に放置されたままだ。周りの視線は酷く痛々しく、男はせめて涙は零すまいと繰り返し大きく瞬きをしながら、それを握りしめる他なかった。
閑話休題。
喫茶店を飛び出し、夜の繁華街を背中を丸めて歩く男。彼の名は須和彰という。田舎にある実家を出て、都会で働いて幾数年。彼女と出会ったのもこの街だった。プロポーズをするための指輪を買う貯金も、こっそり読んでいた前月号の結婚雑誌も、デートの下見も。たった今全てが無に帰った。
まさか、まさか。実家が牧場だから、という理由でこんなことになるだなんて。
ちくしょう、と思わず呟いた。両親は悪くない、俺だって悪くない。受け入れられない相手が悪いのか?と訊かれたら、多分そう言う訳でもない。
強いて言うならば、「馬が合わなかった」。ただ、それだけ。だからこそ苛立ちが募る。彰は血が滲んだ唇を再度噛み締めて、今度は頭を掻きむしった。
心が荒ぶ彰とは裏腹に、繁華街はどこまでも明るく、眩しい。それがまた苛立ちに拍車をかける。
その時だった。ポケットに入れっぱなしであった携帯端末が震える。布越しにバイブレーションを感じながら、彰は幾ばくかの期待を胸に端末を取り出した。「ごめんね、さっきは言いすぎたよ」それを互いに言えば済む話だと、そう思っていたからであった。
しかし、現実はそう甘くはなかった。画面に映っていたのは彼女の名前ではなく、登録もない見知らぬ携帯番号である。かけ間違いか、それとも知人か。普段なら出ることもないその電話を、彰は今日だけは半ば乱暴に取った。
「……はい?」
『あっ、ねえ彰!?あたし、ひかるだよ!』
「……ひかる?」
スピーカーから聞こえたのは、聞き覚えのある女性の声だった。ぽっと飛び出した名前と声が、数秒してから脳内で結びつく。
幼少期、地元で仲が良かった幼馴染である女性、三浦ひかるであった。もう数年は連絡を取っていない。実家に帰省することもなかったので、顔を見たのはきっと五年以上も前になるだろう。あの頃と変わらない弾けるような声に安心して、彰は強張った肩を少し和らげることができた。
「どうした、随分久々だな」
『うん、久しぶり……って、違う!ごめん、ゆっくり懐かしい話でもしたいところだけど、今日はそれどころじゃなくって!』
彰は首を傾げた。いくら久しく話した相手といえ、ひかるは挨拶もなしに話を進めるような相手ではなかったはずだった。それほどまでに急いでいるのか──彰の胸中には、何かしらの嫌な予感が渦巻き始めていた。今の季節が春とはいえども、夜風が冷たく吹き荒んで、彰の体を冷やしていく。
悪い出来事は続くものである。それは、二十年と少しの時間を過ごしてきた彰も、なんとなく解っていることであった。
『おじさんとおばさんが、スリップ事故で病院に運ばれてっ──!』
彰はその言葉を聞いた時、神はなんて無情なのだろう、と。思わずそう考えずにはいられなかった。
*
「きっと、痛みを感じる間もなかったでしょうね」
ご愁傷様です、と声をかけられる。医者は表情を歪ませて、一礼した。静かに、革靴の踵が擦れる音だけを小さくたてて病室を立ち去る。
白い部屋にベッドが二つ並んでいる。安らかな顔で眠っているのは、己の両親だった。また皺が増えただろうか。最後に会った時よりも少し痩せたか。母は少しばかり想像よりもふくよかなようにも思えたが、如何せん肌の色が白すぎる。
そして何より、彼らからはもう心臓の音がこれっぽっちも聞こえなかった。
「彰……」
疲れた表情をした女性が、そっと彰の腕を取る。栗毛に近い長い髪を高い位置で一つにまとめており、まるで馬の尾のようだった。いつもであれば溌剌とした雰囲気を纏う彼女であるが、今は静かに目を伏せるばかりだ。
「ひかる、電話くれてありがとう」
「……ううん、あたしにできるのは、これくらいだから……」
彼女はそう言って車のキーを揺らす。彰の両親、二人の遺体を病院から運び出す必要があったからだ。彼女が好きだというラッキーライラックを模した根付のストラップが、鍵と重なってちゃりちゃりと音を立てている。
人の手を借りて、長い時間をかけて。遺体を車へと乗せて、実家である須和牧場へと向かった。
運転はひかるがしてくれた。それは、新幹線を乗り継ぎ、急いで地元へと帰ってきた彰を労ってのことである。三月になって半ばを過ぎていたが、地元の景色は未だ白い雪が降り積もっていた。
アイスバーンとなった道路をノロノロと進む。いくつも並んだ杉林のトンネルをくぐり抜けながら、ぽつぽつと会話が積もっていく。
「すぐ帰ってくるって言ってたの。だから、留守番をしてたら、警察から電話がかかってきて……」
ひかるはハンドルを握りしめて、そう言った。随分と従業員が減ってしまった須和牧場において、若手であるひかるは貴重な存在だった。恐らく、数年も間実家に帰っていなかった彰よりも、ずっとずっと牧場のことを理解しているだろう。彰は黙って、フロントガラスに落ちては溶けて消える粉雪を見つめていた。
「スリップ事故、だって。国道に出るまでの、あの大きなカーブで滑ってしまって、それで」
「……もう、いいよ。夜中までごめん」
「や、それは気にしなくていいから……」
目線だけを彰に向けて、ひかるは何かを言い淀んだ。しばらくだんまりとしていた車内ではあったが、彼女はこくんと唾を飲んで、口をまた開く。
「……牧場、どうするの?」
無難な質問であった。牧場の柱であった須和夫妻を失っては、もうここの経営は成り立たないだろう。それこそ、息子である彰が戻ってこない限り。しかし、両親を失ってまだ数時間しか経過していない彰にとって、その質問はあまりにもキャパシティを超えていた。どうしようもない感情を表に出すこともできず、口の中を噛みながら彰は絞り出すように声をあげる。
「まだ、わからない」
会社に有給休暇の申請もしていない。家の鍵を閉めてきたかも分からない。これからのことも、今まで牧場がどんな状況であったかも。何も彰は考えられるような心持ちではなかった。
そっか、とひかるは言った。曖昧な言葉が返ってくるのも、無理はないと理解していたのだろう。でもね、と彼女は意外にも、その後に続く言葉を口にした。
「彰はそう思ってないだろうけど、案外あんたは牧場とか、厩舎とか、そう言う仕事向いてると思うよ」
もちろん、競馬学校のことは残念だったけど。
そんな返答に、彰はグッと口をつぐんだ。ひかるは彰に視線を向けず、未だ真っ白な世界が広がるフロントガラスの向こう側を見つめている。ノロノロと進む車とは相反し、ひかるの口数は徐々に増えて、彰の耳まで流れるように滑ってくる。
「ねえ彰、私まだ何も知らない。彰が競馬学校を辞めちゃった理由も、牧場から離れて都会まで出ちゃった理由も……全然こっちと関係のない仕事に就いてたってことも、今日初めて知ったの」
「……そんなの、言う必要が、なかったから」
「そんな屁理屈要らない。私は……彰が、とにかく頑張って頑張って、競馬学校の入学試験受けたことだけは知ってるから訊いてるの。ねえ、どうしてあの時は誰にも何にも言わずに競馬学校辞めちゃったの?」
ひかるの追及はどこまでも鋭く彰の胸を抉った。牧場に着くまでだんまりを決め込もうと思っていたのも束の間、「話してくれなきゃ車から降ろさないからね」と瞬時に睨み付けられる。一瞬だけタイヤが滑ったのか車が大きく揺れ、「分かった、分かったから前見て!」と彰は冷や汗をかきながら懇願した。同日に両親の二の舞になることだけは避けたかった。思わず皺がよった額に手を当てて、気乗りしない口をおずおず開く。
「……ひかるが思ってるようなことは何もないよ。ただ周りがすごく、自分と比べてすごかったんだ。だから諦めた」
「あのさ、嘘ついて誤魔化そうとするのやめよう。彰が毎週おじさんおばさんに送ってきてた手紙、いつも楽しそうでよかった、って思いながら読んでたんだからね」
「なんでお前が読んでるんだよ!プライバシーの侵害だろ!」
「う、うるさいな!おばさんが嬉しそうに渡してきたんだから、読むしかないでしょそんなの!」
「ああっクソ、全部筒抜けだよ……」
頭を抱え込む彰をチラリと眺め見て、ようやくひかるの表情が少しだけ緩む。道中唯一と言ってもよい長い赤信号に引っかかり、力を抜いて座席に背中をつけた。
「競い合う仲間ができたって、忙しくていっつもヘトヘトだけどすごく楽しいって聞いたよ」
「……そう、だね。楽しかったよ、すごく」
「途中で大怪我したって、骨折したってのも聞いたけど、ちゃんと治るって話だったらしいじゃん」
「うん、でもそれまでの時間がすごく長かった」
「…………もしその時の、牧場の……あのことを気にしてるのなら!それはあなたのせいじゃなくって……」
「──ッじゃあ誰のせいだって言うんだよ!あれは!」
思わず言葉が喉奥から飛び出した。突然の大声が狭い車内で跳ね回り、きぃんという余韻が耳に残る。ひかるは黙ったままじっと正面を見つめていたが、ハンドルを握る手が小さく震えていた。彰はさっと血の気が引く感覚に襲われ、冷たくなり始めた己の指先をぎゅっと手に包んで俯いた。
「……突然大声出して、ごめん」
「いいよ。私こそごめん、深く突っ込みすぎた。……きっと、彰も何も考えずに学校を辞めたわけじゃないよね」
ひかるは片手でそっと車の暖房をつけた。再度沈黙がまた舞い戻ってきて、狭い車内を包み込む。信号が青に変わり、ポンコツなエンジン音がようやく静けさに慣れ始めた耳をつんざいた。
気分は最悪であったが、彰はようやくその場から逃れられたような気がして、バレないようにそっと一息をつく。そしてスタットレスタイヤが氷を削る音を聞いているうちに、車は無事に須和牧場へと到着した。
ここでもしばしの時間をかけて遺体を運び入れ、布団に寝かせる。やはり酷い気分だ。力をと生命を失った人間の体は、本当にバカみたいに重い。悪いことなんてこれっぽっちもしていないのに、誰かに見られたくないような気がして、酷く肩が凝る。
「お疲れ様」
そんな言葉が聞けたのは、日付が変わってしまう頃合いだった。
フクロウの声が遠くから聞こえてくる。悲しいくらいに静かな夜で、三日月がほっそりと夜空で輝いている。窓の外で吹く風が、ガラスを何度も打ち付けて音を立てていた。
「……なにはともあれ、しばらくは全部休みだなあ」
「そうだね、これからお葬式もしなくちゃだし……牧場の仕事、も……」
はた、と。一息ついて茶を入れようと立ち上がったひかるの動きが止まった。初春にも関わらずだらだらと冷や汗が吹き出ているのが見て取れる。思わず彰は身体を乗り出して、「どうしたの」と訊ねた。
「…………やばい!」
「どうしたの、だから」
「もしかしたら、今日かもしれないんだった!」
「だから、なにが」
ガシ、とスーツを引っ掴まれる。日々牧場の業務をこなしているひかるの腕力が非常に強く、都会暮らしをしていた彰は簡単に引き摺られることとなった。耳元からは、「やばいやばいやばい」と繰り返し焦る言葉が聞こえてくる。
「だから、どうし」
「今日っ出産になるかもしれないの!」
え、と。今度は彰の思考が止まる。誰の?とは訊くまでもなかった。ひかるは競走馬一筋の人生を送っていると知っているし、身の回りに子を持つような人はいなかったと記憶しているからだ。そうなると、導き出される答えは一つだった。
「……ひかる、先行って!着替えて荷物取ってくるから様子確認して連絡!」
「分かった!着替えはおじさんのがそこの棚に入ってたはず!」
「テーピングは!?タオルとお湯は!?」
「それもまだっ!全部お願い!」
「あーっもう!分かったよ!」
ばたばたと駆け出す音を遠くから聞き、彰は急ぎ服を着替えた。何時間か外にいてもまだマシに動けるように、軽いダウンジャケットを何枚も重ねて羽織る。軍手を嵌めて、清潔なバスタオルを何枚も抱きかかえた。やかんに水を入れ、だるまストーブの上に勢いよく設置した。水がこぼれて足にかかるが、そんなことを気にしたもんではない。
土に汚れた長靴は、走るたびにがぽがぽと聞き苦しい音を立てている。そんなこと気にしている場合じゃない。テーピングを忘れた。取りに戻る。その間にも、遠くの厩舎から悲鳴に近い声が薄ぼんやりと聞こえてきている。文字通り、息せききって彰は馬房へと飛び込んだ。
「様子は!?」
「まだ!足も見えてない!」
「尻尾テーピングしてまとめてくれ!俺が行くよりいつも一緒にいるお前の方が安心する!」
「分かった!」
馬房の中には、見覚えのあるサラブレッドが一頭うずくまっていた。藁のベッドに体を横たえて、荒い呼吸を繰り返して鼻を鳴らしている。鹿毛の身体は初春の夜にも関わらず汗ばんでいて、不安そうに小さな光を灯した瞳でこちらを見ていた。
「ツバキ、っがんばれ……!がんばれ、頑張ってくれ……!」
彰が上京する直前に須和牧場で産まれたのが、目の前にいる彼女であった。名をメイジョウツバキ号。彰が都会の波に揉まれている間、彼女もまた競走馬としてターフを駆けていた。ステイヤーとして条件戦での活躍を遂げ、繁殖牝馬として須和牧場へと戻ってきていた、という話は両親から聞いていた。まさかそんな彼女が、よりによって今日産気づいているだなんて思いもよらなかったのだが。
ひかるが尾をテープでまとめ上げ、邪魔にならないようにしてやっていた。息を呑む。力んで痛みに苦しむ様子が直に伝わってくる。
「がんばれ、がんばれ、急がなくてもいいからな」
「つーちゃん、頑張って……!もうすぐ子供に会えるよ!」
余計な手伝いはしない。グッと堪えて、我慢してその時を待つ。白い膜が段々と降りてきて、血の匂いがつんと鼻をつく。何度唾を飲み込んだかも分からない。事態が動いたのは、高く昇った月が馬房を照らし始めた頃だった。
「出た……!」
二人同時に、歓喜の声が上がる。生まれたのは、真っ黒な仔馬であった。三日月型の白い流星が、額にちょこんと乗っかっている。メイジョウツバキはふうっと深く息を吐いてから、未だ湯気の立つ仔馬を愛おしそうに舐め始めた。
「よぉ頑張ったねえ……!めんこい子だねぇ、彰」
「…………うん、そうだな……かわいい……」
「……彰?なんか震えてるけど、どうしたの?」
え、と彰は自身の手を見つめた。指先が細かに震えている。まだまだ肌寒い時期であるにも関わらず、シャツの下は酷く汗ばみ、濡れていた。山を越え、無事に寝転がる二頭の馬の存在が彰の心を浮立たせていたのだった。
「…………いや。出産、久しぶりに見たから」
ホッとして。そう呟いてから、彰は準備していたバスタオルを広げた。馬房に入り、二人で仔馬の体を強く拭いてやる。それを見つめるメイジョウツバキの目は優しく、「ぶるる」とひと鳴きしてから、近くにいたひかるに首筋を寄せた。お疲れ様、の言葉がここでも飛び交う。
「……あ」
パチ、と仔馬が瞼を開けた。月光の帳が降りて彼を照らした。きらり、と瞳が艶めいて、彰ははっと息を呑む。
片目が、青かった。
「魚目だ……」
「え、魚目!?っうわほんとだ、右目だけ青い!珍しい……」
いわゆるオッドアイの瞳を持った仔馬は、小首を傾げてこちらを見ていた。左目は山葡萄のように深い黒。そしてもう片方は、澄んだ空の色のように鮮やかな青色だった。ワンポイントのように額に添えられた三日月型の流星が可愛らしい。
「初めて見たよ……」
思わず手を止めて見入るひかる。すると視線が気になったのか、仔馬はぷるぷると震えながらも体をなんとか動かした。この世に生まれ落ちて、三十分も経った頃合いであっただろうか。仔馬は早くも立ち上がろうと、一番はじめの高い壁を乗り越えようとしていた。これには彰も酷く驚いた、立ち上がるのに一時間はかかるだろうとふんでいたからである。しかし真っ黒な馬体をぶるりと大きく震わせて、仔馬は寝藁が敷かれた地面にしっかりと足をつけ、嬉しそうに母馬の乳を飲み始めた。
「かわいいねえ……ねぇ、なんて呼ぼうねぇ。こんなに可愛い子には、ぴったりの名前をつけてあげないとだよね」
うっとりとひかるは二頭を見つめている。三日月を額に携えた仔馬は、腹を満たすとふらふらと揺れながらも歩き出した。呆然と立っていた彰の目の前に来ると、「ぶひん」と軽く鳴く。
彰はそれを見て、なんだかたまらない気持ちになった。タオル越しに仔馬の頭を撫で回す。温かくて、小さくて、柔らかい。
──そして、ふと昔の記憶が脳裏に蘇る。
手慣れた様子で様子を見守る父と、嬉しそうに仔馬の顔をタオルで拭う母。母馬を撫でるひかるに、ホッとして寝藁に一緒に横たわる自分。
幸せが具現化したような光景だった。もう再現されることがないそのワンシーンに、目頭がじわりと熱くなる。
熱を持ち、小さな心臓を懸命に動かしてこの世に生まれ落ちてくれた。そう考えると、無意識に彰は鼻をすすった。水音が狭い馬房に響き、それを不思議そうに首を傾げ、仔馬は耳を立て聞いている。
「…………ひかる」
「ん、なあに?」
「さっきの、話だけど。やっぱり俺、これから先ずっとこの牧場を継いでいくのは……難しいかもしれない」
「……そっか」
困ったような顔をして、ひかるはそれでも笑い返してくれた。しかし、彰はそんな相手としっかり目線を合わせて、口を開いた。久しく視線を交わした幼馴染の顔は、もうすっかり大人びて一人前の人間になっていた。
「……でも、それでも。俺、この子を育てて立派にするまでは──ここにいるよ」
ひかるは目を見開いた。彰がこの仔馬のオーナーブリーダーとなるのか。それとも、オータムセールスに売り出すまで育てるつもりなのか。その意図を読み取ることはできなかったが、ひかるはその言葉に胸がいっぱいになった。仔馬と母馬を見つめる彰の目が、昔の彼の瞳の色とそっくりだったからだ。
「騎手になりたい」と愛おしく競走馬を見つめていた、幼少期の頃の彰と。それとまるっきり同じ、希望の光を灯しているように思えたのだ。引き攣る喉を必死に叩いて、ひかるはぶんぶんと大きく首を縦に振る。
「っ、うん、うん……ってか、ここは、彰の家だから。ずっといれば良いんだよ」
「ははっ、そういうわけにもいかないだろ。でもそうなると、有給休暇じゃ間に合いそうにないな。仕事、ちゃんと引き継いでから……牧場の管理についても調べてみるよ」
「うん、うん、そうだよね」
震え始めた二人の会話が、吹く風の音と重なって聞こえた。ぶるるる、とメイジョウツバキが顔を押さえたひかるに寄り添っている。仔馬はその目を月光で美しく輝かせている。
二つの命の灯火が消えたのと同じ日に、新たな命がこの世界に誕生した。彰は天を仰いだ。差し込む明かりが目に眩しく、顔全体がかっと熱くなる。
「いいもんだよなあ、本当に、馬はさあ……」
不意にこぼれ落ちた涙を、仔馬がぺろりと舐めとった。生まれて初めて感じた塩っ気に複雑そうな顔をした仔馬を見て、二人と一頭は思わず笑っていた。
月が、星が、夜が。厩舎を優しく、静かに包み込んでいる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます