三十二話目 事情聴取
山岸遥は優等生だった。人の嫌がりそうなことは避けて生きてきたし、勉強だってそれなりに頑張った。大人しい子供を叱る大人というのはあまりいない。
ハルカはたくさんの本を読み、行動するより考えることを優先してしまう性格だった。衝動より理性が勝ってしまった結果、ハルカには反抗期が訪れなかった。
習い事もしておらず、人とのぶつかり合いや、しのぎを削るような事柄からは無縁の生活を送ってきた。当然武道のような直接的なぶつかり合いもなければ、喧嘩をすることすらなかった。
あげく親はほとんど家におらず、家政婦さんのお世話になっていたものだから、記憶にある限り怒られて頭をはたかれるようなことすらなく育った。
誰かに手を挙げられたことが、本当に生きてきて初めてだったのだ。そんな育ち方をする者もいるのである。
はじめて受けた暴力は平手打ちだった。痛いとかそういうものはなく、ただ頭の中が真っ白になった。なぜ自分がたたかれたのか、言葉の意味もしばらく理解できずに混乱していた。
それからしばらくして、言葉が頭に入ってきて、さらに混乱が加速する。意味が分からなかった。
痛くはないのだ、普通の女性の平手打ちが痛いような体をしていないのだから。ただ、あまりの理解できなさに、何もできずにその女性を見つめていた。
「……どろぼう、ねこ?」
そうしてようやく出てきた言葉はオウム返しにとどまった。睨みつける女性をじーっと見つめて、叩かれた頬を手でさする。痛みを感じるほどでないにしても、そういった癖のような動作は出るものなのだろう。
「あの、それは、どういった意味です、か?」
「あなたが現れてから、ラルフ様がうちにこなくなっちゃったのよ!身請け間近だったのにっ」
身請けと言われ、知識だけはあったハルカはなるほどと思った。所謂夜の街では、借金の返済のために自らを売っている者もいる。借金の返済が終われば自由になれるというやつだ。その借金を肩代わりしてもらうことを身請け、というのかもしれないと推測はできた。
「……それは、その、私が代わりにお金払ったほうがいいですか?」
少し考えた末にハルカは自分にできること、と思い恐る恐る提案したところ、その場にいた面々から一斉に反論を浴びた。
「違うでしょ!」
「馬鹿いうな!」
「そういう問題じゃないのよ!」
「……です?」
「ごめんなさい!」
反射的に謝って体を少し小さくしたハルカに、ぎりぎりと女が唇をかみしめ、こぶしを握る。
「こんな女にラルフ様をとられるなんて…っ」
そうして腕を振り上げようとしたとき、コリンが間に入り、出端を手で押さえた。勢いの乗る前の拳を抑える技術は対人の武術経験あってこその動きだろう。
「ちょっと、あなたいきなり出てきてあんまりなんじゃないの?ハルカが困ってるじゃないの」
「でも、でも私!」
「いいから、ちょっと落ち着きなさいよ。話なら聞いてあげるから」
泣き崩れる女。何故か勝手に進んでいく話。
ハルカはなんで叩かれたんだろうと悲しく思いながら、フードを深くかぶりなおして、眉をへにょりと下げた。身に覚えのない話だ、完全に濡れ衣だった。
「つまり、ラルフさんが3か月ほど前からあなたのところに来なくなったのね」
怒っていたはずの女が、しくしくと泣きながら憐みを誘う声で事情を説明する様子を見て、ハルカは女の人って怖いなぁと思っていた。
さっきは般若のような顔をしていたのに、いまではすっかり悲劇のヒロインだ。しかもその様子がよく似合っていて、とても庇護欲を誘う。
「つっても、別にハルカは悪くねえじゃん」
退屈そうにテーブルに肘をついたアルベルトが、大人ぶって頼んだコーヒーを口に含んでぐえーっと舌を出した。アルベルトはもうすぐ十五歳になるが、恋愛偏差値は低く、今のこの場をすごくくだらないと思っていた。なんなら女がいきなりハルカをたたいたことに対して結構腹を立てていた。
一方モンタナは自分の頼んだパンケーキがなかなか来ないので、店員さんをじっと見つめていた。モンタナもやはりこの話に興味はなかった。
唯一まともに話を進めていたコリンが、立てた人差し指をゆらゆら揺らしながら話を続ける。
「それには同情するわ、でもあの人ハルカと一緒に出掛けてたわけでも、ハルカとお付き合いしてるわけでもないわよ?」
状況がよくわからなくなっていたハルカはぶんぶん、と首を縦に振ってそれに同意する。借りていたお金を返した後は一度も会ってない。ギルドですれ違ったときに挨拶くらいはするけれど、その程度の付き合いしかないのだ。むしろ告白まがいのことをされたせいで、避けてすらいた。
「でもあの人、気になる人ができたから来るのをやめるって言ってたわ……。だからあなたのせいなのよ!!!」
さめざめと泣いていたというのに、突然豹変して叫んだ女に、ハルカは驚いて身を引いた。情緒不安定で怖かった。思えば人間の激しい感情にさらされることなく生きてきたので、この世界に来てからのハルカは驚いてばかりだった。女性恐怖症になりそうだ。
「それなんかおかしくねえ?」
コーヒーを飲むのをあきらめたのか、それをモンタナの方へ押しやりながらアルベルトが口をはさむ。興味はないが、ハルカの味方をしてやるか、という意思を感じる。
「だって身請けって、嫁にするってことだろ?そんなに気にいった相手にそんな一言で来なくなったりするのか?」
「いや、あいつならそれくらいやりかねないぜ!」
話をややこしくしたのは、後ろで静かにリンゴジュースを飲んでいたトットだった。実はさっきからずっといて、黙って話を聞いていたらしい。タイミングを見計らっていたのだ。
「なんたって俺の幼馴染も最近あいつの話ばっかりだ!あっちこっちで女に手を出してるのに違いねえ!!」
一人でヒートアップしていくトット。最近少し更生したようであったが、短気なのには変わりない。テンションが上がってくるとあっという間に元に戻ってしまう。やっぱりちょっと馬鹿だった。
「うるさいわよハーフオークみたいな顔して、あんたがラルフ様の何を知ってるのよ!!」
「ハーフオークってなんだよ、この厚化粧ブス!」
高音で叫んだ瞬間女が今度はトットの頬をひっぱたこうと手を挙げた、しかし流石は冒険者、言い返しながらもその手をかいくぐって彼女を睨みつける。今のはトットも悪い。
「やるってのか、てめぇ」
びくりと体を震わせた女とトットの間に、コリンとハルカが割って入った。
「まぁまぁ、まずは本人に事実を確認してみない?ねっ?」
「トット……、ブスはだめですよ、ブスは……、あと厚化粧も」
セクハラで訴えられますよ、という言葉をハルカは飲み込んだ。この世界にセクハラ何て概念は多分存在しない。
この場をなんとか収めようとする二人に対し、蚊帳の外になったアルベルトは、コリンの頼んだプリンをつまみ食いしていた。一方モンタナは一口飲んで、とても飲めたものじゃないと思ったコーヒーを、そーっとハルカの席の前に移動させていた。
男二人が子供舌であることが確定する。ちなみに実はハルカもブラックコーヒーは飲めないので、男三人と言い換えても間違えではなかった。
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