第12話 ディスハーバー邸

馬庭篤哉、十六歳。


神奈川に引っ越して以来、格安アパートの男一人が生活できるくらいには不衛生な部屋で、床のささくれや脱衣所の雨漏りと折り合いをつけながら暮らしている苦労人である。

彼の生活費は実家からの仕送りで賄われている。

実家の人間は良く言えば豪放磊落、悪く言えば大雑把、篤哉風に言えば男一人の生活分の銭勘定もできない大馬鹿の集まりである。

まあしかし、文句は言いにくい。馬庭家がというより土地柄の問題でもあるし、通っていた道場だって口をきいたのは大叔父で稽古代を払ったのは父だ。

その道場で新人の稽古をすることでわずかながら小遣いももらえるようになったし、文句は言うまいと思い始めたのは十五の歳の梅雨明けだ。黴臭い部屋を掃除しながら、届かぬ文句を言っても詮方ないと悟ったのである。高校にもなじめていなかったが、まだ嫌われてもいなかった頃の話だ。


それから約一年。


その篤哉は、国政の中枢人物の邸宅の威容に慄いていた。

慄いていたが、特に遠慮することもなく、導かれるままに玄関前にたどり着く。

カルテが扉の横に垂れる組み紐を引っ張ると、玄関の奥で幽かに鈴の音が鳴った。


「インターホン代わりか。そこらへんはアナログなんだな」


篤哉のボロアパートにも、インターホンはあった。来訪者などほとんどいないが、宅配物入れが錆びて開かなかったときに業者に呼び出されたことがあるから間違いない。


扉の奥に人の気配を感じた。小窓から瞳が覗き、ややあって開錠された。

扉を開くと、こういった世界では定番の女使用人、メイドさんが恭しく迎えた。


篤哉はメイド喫茶に通う癖も無ければ、通える金銭的余裕もなかったためメイド服を見るのは初めてである。日本人が想像するようなフリル付きのふわふわした物ではなく、使用人らしい簡素で動きやすく清潔感のある、地味な装飾だ。服装には違和感がないのだが、それよりも気になることがある。


「なあ、この人は」

「女中頭のセルビアだ。なかなか頼りになるぞ」

「見りゃわかる」


帰宅した主人と連れの客を迎えた女中頭の左手には、しっかりと薙刀の長柄が握られている。

自身の頭よりも高い位置に、兜割の鋼刃が鈍く光っている。


「屋敷の女中は常時武装してるのか」

「身辺が物騒でな。ワシのみでなく屋敷が攻撃される場合も考えねば」

「まあ、女中が全員刃物携帯して巡回してれば不審者も入りにくいよな……不審者以外も入りにくいけど」

「今の世の中、知らないやつは皆不審者だ」

「そうか」

「まあ、上がれ」


そう言ってさっさと奥へ入って行った。

篤哉も続くが、薙刀を立てて見つめてくるセルビアの横を通るのは少し勇気が必要だった。

紺色に近い黒髪に、きりりと引き締まった眉と目。服は簡素で化粧も薄いが、唇の桃色がなかなか色気を感じさせる。

相当な美人だ。立つ姿勢は無駄がなく、かなり重量があるはずの薙刀を持つ手も震えは見られない。薙刀は刃が重いので、刃を上に向けて片手で支えるのはかなりきつい。相当な修練を積んだに違いない。

ぶしつけな視線を送ると頭を割られそうなので、通り過ぎざまに横目で観察した印象である。


ふと篤哉は、常連であった冥土喫茶を思い出す。カタカナではない。アパートの近くで営業している喫茶店で、喫茶と言いながら酒も出す。茶は出がらしで酒は混ぜ物らしいが、とにかく安上がりだった。店名の由来も「六文銭があれば満足いくまで食えて飲める」とのことだ。六文銭は三途の川の渡し賃なので、冥土の食費とは関係ないのだが。


そんな冥土ならぬメイドさんの横を抜けて、カルテの後を追う。


(そういえば、メイドって言わずに女中って呼ぶのか。人によるのか……まああの爺さんの口からメイドって飛び出すのは違和感があるな)


薙刀を構える様子は、確かにメイドというより大奥の腰元女中といった風采だった。ただし、服装はあくまでメイド服なのである。

カルテに追いつき、話しかける。


「なあ、あの女中の持ってた武器って」

「ああ、薙刀か」

「名称も同じなのか。こっちの世界にもあったんだよな」

「当然だ。数代前の召喚勇者が伝えたのだ」

「合点」


異世界の分子が入り込めば、当然新しい文化も芽生えるであろう。篤哉は失念していた。


「それなら、日本刀もあったりするのか」

「日本刀……ああ、あの反りの強い片刃剣か」

「おお、あるのか。出来るだけ早く調達してくれ」

「判った。うすうす勘付いていたが、お主は剣術を修めているのか?」

「一応な」

「腕の程は」

「さあて、どうだろうな。道場じゃ【痩せ達磨】って呼ばれてたが」

「達磨?なんだそれは」


達磨はまだ持ち込まれていないらしい。

道場の控え部屋に、大きな達磨が置かれていたのだが、筆で書きこまれた黒目が片方、あらぬ方向を向いていたのだ。それと篤哉の眇をかけて、あだ名が定着した。揶揄われはしたものの、学内のように嫌悪されることはなかった。


「達磨は……あれだ、ずっと座ってたら足腰立たなくなって足を切断した宗教家の偶像だ」

「とんでもないものぐさだな」


くだらない会話をしながら階段を上る。

しかし、広い邸内だ。篤哉のアパートなら、今の会話をしているうちに玄関から風呂場まで三十往復はできる。


「どこへ向かってるんだ」

「まずはお主の部屋に案内する。それから、娘に引き合わせよう」

「へえ」

「後は食事をとって休め。ワシも五日ぶりの帰宅だ、早めに休みたい」

「そりゃまた働いたもんだな」


経済大臣の職務内容を把握していないが、激務に違いないだろう。

自身も少し疲れてきたし、溜まった質問は明日にまわそうと思った。


篤哉の与えられた部屋は、二階の一室だった。

虱どころか皺ひとつないベッドと布団、大きな収納棚にクローゼット、作業用机。

明かりはやはり蝋燭が使われているが、空気に臭さはなく清涼感すら感じる。

王宮内の蝋燭は少し甘く、馴染めなかったがこちらは篤哉の嗅覚に心地よかった。


滑らかな感触のカーテンを開けると、窓からは門から玄関までが見通せる。


「見張りには丁度いいな」

「お主に見張りなど頼まん。並大抵の奴らは家のものでどうとでもなる」

「まあ、そうだろうな。俺なら見た瞬間回れ右だ」


信じられないほど快適な生活環境に、寝具の感触を確かめたり家具を眺めたりしたかったが、カルテがしかめっ面なので諦める。


名残惜しく部屋を後にし、どこへ向かうかと思えば隣の部屋だった。


「キリカ。いるか」

「父様ですか!」


軽くノックをして呼びかけると、弾んだ返事が応えてきた。

開錠音と同時に、扉が開く。


「五日ぶりだな、キリカ」

「お久しぶりです父様」

「息災か」

「はい。父様は」

「相変わらずだ。だが、今日はこの上ない収穫があったぞ」


そう言って、背後の篤哉を顎で示す。顎鬚がひゅらっと揺れる。


「ワシが雇った私兵だ。良くしてやれ」


簡単に紹介されて、軽く会釈する。


「そうですか、父様が……キリカ・ディスハーバーです。よろしくお願いします」


父親と同様に過飾を省いた簡潔な挨拶。玲瓏で水晶のように澄んだ声の持ち主であった。

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