ろくわめ。
向こうは余裕で間に合ったらしい。
隣の車両をのぞくと西谷くんも九重さんも息が切れている様子もなく、並んで座って楽しそうにおしゃべりしている。
窓枠が影になっているのか。花と羽住くんが隣の車両にいることには気が付いていないようだ。
尾行するにはちょうどいい席だ。
背もたれに寄り掛かって、ぼんやりと窓の外を流れていく景色を眺めた。
次の駅に着くころになって、ようやく呼吸が落ち着いてきた。
「目的地はわかってるんだから、一本くらい遅れてもよかったんじゃない?」
大きく息を吸い込んでから隣に座る羽住くんを見上げた。
羽住くんはもうしわけなさそうに眉を八の字に下げた。
「休日で水族館周辺は混んでいるんです。一本、遅れると二人を見失ってしまうかと思ったんですが……すみません」
電車に飛び乗ったときに花を無理矢理、抱き寄せたことをまだ気にしているらしい。羽住くんはもうしわけなさそうな表情で肩を落とした。
目元と耳を赤くしている羽住くんを見上げて、花は思わず吹き出した。
男の子にあんな風に腕を引かれたり、抱きしめられたりしたのは初めてだ。
驚いたし、ちょっと恥ずかしかったけど、別に嫌だったわけじゃない。怒ってもいない。
それに、いつもは澄まし顔で冷静な羽住くんが動揺しているのを見られるのは楽しい。
花の笑い声に目を丸くしていたけれど、そのうちに羽住くんも苦笑いを浮かべた。
と、――。
「……っ、すみません。昨日、寝るのが遅くなってしまって」
気が抜けたのだろうか。
大きなあくびをしたあと、羽住くんはあわてて口を手で押えた。
そういえば駅のベンチで待っていたときも眠そうにしていた。
夜遅くまで小説を読んでいたのだろう。花もよくやる。そして毎回、母親やこのみに怒られている。
ドアの上に設置されている液晶ディスプレイを見上げた。
今いる駅から水族館の最寄り駅まで乗り換えはない。西谷くんと九重さんを見失うこともないだろう。
「少し寝てたら? 降りるまで四十分くらいあるみたいだし」
「ですが……」
「あの二人、すごい動き回りそうだし。体力温存しておいた方がいいと思うよ。私も小説、読みたいし!」
「真隅さんの目的はそっちですか」
カバンから小説を取り出して目をキラキラさせる花を見て、羽住くんは苦笑いでうなずいた。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます。近くなったら起してもらえますか?」
「うん、わかった」
花の返事は聞こえていただろうか。
腕を組んでうつむくと、羽住くんはすぐに眠ってしまった。
穏やかな寝息にくすりと笑って、花は小説を広げた。
土日で一気読みするつもりだった〝マリオネット冒険記〟の三巻冒頭だ。
一巻の最後で魔法使いの少女と契約した主人公は、生き返った幼馴染とともに冒険に出ることにした。
三巻の冒頭は主人公と幼馴染、魔法使いの少女が砂漠を渡るシーンから始まる。
魔法使いの少女が幼馴染の命と引き換えに、主人公に望んだこと。
その一つが外の広い世界を知りたい、見に連れていってほしいというもの。
そして、もう一つが――。
「ん……」
隣から聞こえてきた声に、花はハッと顔をあげた。
すっかり小説の世界に入り込んでいた。
起きたのだろうかと隣を見ると、羽住くんの体は左右に揺れていた。
まだ熟睡中のようだ。
見まわすと、ずいぶんと席が埋まってきていた。
花たちが座っている三人掛けの席にもいつの間にか羽住くんの隣に知らない人が座っていた。
反対側に倒れると知らない人の迷惑になってしまう。
腕を引いて起こした方がいいだろうか……と、迷っているうちに電車が揺れて、羽住くんの体が傾いた。
「重……」
よかった、と言うべきなのだろうか。
電車が揺れた拍子に羽住くんが寄り掛かったのは、知らない人ではなく花の方だった。
花の肩に寄り掛かった羽住くんはまだ起きる気配がない。
羽住くんのさらさらした黒髪が花の首に触れた。
くすぐったい。
それになんだか落ち着かない。
本に目を落としてみたけれど内容が全然、頭に入って来ない。
花はぶすりと頬をふくらませた。
肩で突いて起こしてやろうか。
羽住くんの顔をのぞき込んだ花は吹き出しそうになった。
ポカンと口を開けた警戒心ゼロの間抜けな顔。
ちょっとうさん臭いけど穏やかで大人びた微笑みを浮かべているいつもの羽住くんからは想像できない表情だ。
花は少し考えてから本を閉じた。
これはあとでからかうネタになるに違いない。
にんまりと笑っていると車内アナウンスが響いた。次の次が降りる駅だ。
そういえば西谷くんと九重さんのようすを全然、見ていなかった。
とことん尾行に向いていない性格だ。
花は苦笑いで隣の車両に目を向けた。
と、――。
九重さんと目が合った――気がした。
花はあわてて本を開くと顔を隠した。
しばらくしてから本を盾代わりにそーっと隣のようすをうかがうと、九重さんは西谷くんと楽しそうにしゃべっている。
眉をひそめたり、唇を尖らせたり、西谷くんの肩を叩いたり、意地の悪い笑顔を見せたり。
ころころと変わる九重さんの表情を花はじっと見つめた。
目が合ったとき――。
九重さんは怖い目をしていた、気がした。
じっと、こちらを……花を値踏みするような目で見つめていた、気がした。
ただの気のせいかもしれない。
尾行しているという負い目から、そう見えただけかもしれない。
でも、そんな目をしていたような気がしたのだ。
「……右のドアが開きます。次は……」
車内アナウンスに花はハッとした。
いつの間にか次が降りる駅になっていた。
すでに窓の外にはホームが見え始めている。
速度もずいぶんと落ちてきている。
「羽住くん、起きて! 降りるよ!」
小説をカバンにしまって羽住くんを揺する。
電車のドアが開いて人が下り始めた。
「ん……」
「ほら、行くよ!」
羽住くんも素直に立ち上がってついてきた。
「ごめん。……熟睡しちゃった」
子供っぽい口調に花は思わず振り返ると、羽住くんをじっと見つめた。
当の羽住くんもびっくりしたらしい。
目を見開いて、耳まで真っ赤にしてかたまっている。
その表情に花は勢いよく吹き出した。
「よく寝てまちたねー。とりあえずおんりしましょ……むぐっ」
赤ちゃん口調でからかうと、羽住くんの大きな手に口をふさがれてしまった。
「……聞かなかったことにしてください。行きましょう」
羽住くんの必要以上に冷静を装った口調に、花はまた吹き出しそうになった。
気まずさからか。
羽住くんは眉間にしわを寄せてそっぽを向くと先に立って歩き出した。
「すみません、降ります!」
もう人が乗り込み始めている。
羽住くんは大声をあげながら人の波を割って進んでいく。
そのあとを花はちょこちょことついていく。
羽住くんのこういうところは本当に手慣れている。
花一人だったり先を歩いていたら、人に押し潰されたり流されたりして降りられなかったかもしれない。
でも、羽住くんが前を歩いてくれるおかげで、人に押し潰されることも流されることもなく無事にホームに降りることができた。
人の少ないホームの中央までやってきて、羽住くんは足を止めた。
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫」
「すみません。俺がもう少し早く起きていれば……お願いします、忘れてください」
からかってやろうと思ったのに。
勘付いた羽住くんの大きな手に、花の口はふさがれてしまった。
額を押さえて落ち込んでいた羽住くんだったけど、無理やりな感じで気持ちを切り替えると顔をあげた。
「さて、あの二人は……」
改札は階段を昇った先にある。
西谷くんと九重さんはあと数段で階段を昇り切るところだった。
この駅はターミナル駅で、休日ということもあって混み合っている。
二人を見失わないためにはのんびり休んでいる暇なんてなさそうだ。
花と羽住くんは顔を見合わせると――。
「頑張って追いかけましょうか」
「おー」
乾いた笑い声をもらしたのだった。
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