24.夜の帳のその中で

 4日間にわたる修学旅行も残すところあと1日。と言っても明日は最終日なのでバス移動と免税店での自由時間のみだ。

 明里ちゃんとの2人部屋で荷物を整理しながら、21時を迎えたので今日の分の抑制剤を飲もうとピルケースを入れたポーチを探していた時だった。


「……ないっ!」

「え?なに?ない?なんか落としたの?」


 突然の私の大声に、部屋に遊びに来ていた他の子たちも心配そうにこちらを見ている。


「ごめん、なんでもない、あった……私の勘違い!」


 と誤魔化しながらも心臓はバクバクと騒いでいる。どうしよう……抑制剤が入ったピルケースをポーチごとどこかに落としてしまった。

 万が一があっては困ると肌身離さずピルケースを持っていたことが間違いだった。しかもポーチの中には液体の抑制剤も入れていたのだ。つまり発情したらもう終わり。発情を抑える術がない。

 修学旅行が終わるまでなんとか発情せずにいられたらそれでいい。だけどうさぎ病を発症してから今日まで抑制剤を飲み忘れたことがなかったので、一日でも飲まないとどうなるかの予想がつかなかった。


 消灯時間の22時前に同部屋の明里ちゃん以外の子たちは自分たちの部屋へ帰って行った。

 点呼が終わると早々に就寝の挨拶をしてベッドに潜り込んだ私は、スマホで『抑制剤 飲み忘れ』と検索をかける。

 『1日ぐらいなら大丈夫でした』という情報に安心し、『飲み忘れたらすぐに発情しました』という情報に不安になる。もう思考と感情がぐちゃぐちゃで、でも今の状況を解決する手立ては一切なくて。早く寝ちゃおうと目をぎゅっと瞑った。


 しかし、ウトウトとし始めた意識は最悪な感覚に無理矢理叩き起こされた。ぐわぐわと体の底からあの感情が湧き上がる。あ、だめだ、私発情しそうになってる。そう気づいた時には秘部からとろりと粘液が溢れでる感触に背筋に悪寒が走った。

 明里ちゃんがいるのに……、こんなことなら学校側に打ち明けて一人部屋にしてもらえば良かった、と今さらなことを後悔する。

 バレたくない、発情したくない、と思うのにトロトロに溶け出した秘部に伸びる手を抑えられない。


「ゆづるくん、」

「ん?なんか言った?白兎ちゃん起きてんの?」

「あかりちゃん、わたし、」


 だめだ、言えない。だけどそうするしか方法が思い浮かばない。迷惑だと、都合が良すぎると分かっていながら、私が電話をかけた相手は弓弦くんだった。


『……はい、?』


 と、怪訝そうな声がスマホ越しに聞こえた。後ろでは複数人の男子の声が聞こえる。点呼後にまた集まったのだろう。


「ゆづるくん、助けて、わたし、ゆづるくんっ」


 私の切羽詰まった声を聞いた弓弦くんが息を呑んだ。そして状況を瞬時に理解し、『すぐに行くから、磯部に代わって』と明里ちゃんを指名する。息も絶え絶えの私がスマホを差し出せば、明里ちゃんの顔色が変わった。


「白兎ちゃん、大丈夫?!先生、先生呼んでくるね」

「待って、電話、弓弦くんなの」

「えっ?!弓弦くん?わたしが出たらいいの?」


 気が動転しながら明里ちゃんは私のスマホを耳に当てる。


「えっ?なに?どゆこと?」「え?大丈夫なの、それ、うん、うん」「わかった、それは大丈夫。部屋番号は、」


 通話を終えた明里ちゃんが私にスマホを返し、「わたし、みっちゃんのとこ行ってくるね」と部屋を後にした。きっと弓弦くんがそうお願いしてくれたんだ。ありがとう、弓弦くん。ありがとう、明里ちゃん。


『白兎、今からそっち行くから』


 朦朧とする意識の向こうで、弓弦くんの声が聞こえた。





 オートロックの部屋に着く直前、繋ぎっぱなしにしていたスマホに向かって「鍵開けて」と言えば、着いたその瞬間内側から扉が開いた。

 途端にむわりと漂ってくる脳みそを痺れさせる甘い香りに立ちくらみがする。


 誰にも見られないようにと素早く入室し、念のためにドアガードをかけた。思っていた通り白兎は発情している。どうして、と考えたが、苦しそうに壁に寄りかかる白兎を目の前にしたら、そんな理由を考えることは時間の無駄だと思った。


「白兎、薬は?」

「なくしたの、たぶん、おとした」


 あぁ、だからか、だから白兎は俺に助けを求めたのかと納得する。「ごめんね、ごめんね」と謝りながら「ゆづるくん、セックスしたい、いれてほしい」と懇願する白兎に早急な口づけを落とした。

 これは俺のエゴだ。白兎はキスを求めていない。一刻も早く俺に挿れてもらって発情を収めたいだけだ。それでも誘うように震え、俺の名前を紡ぐこの唇に触れたかった。触れない選択肢などなかった。


 丁寧で解すような前戯はいらない。まして口づけや愛の言葉など不必要だ。それなのに少しでも白兎に長く触っていたい。これがエゴでないならなんだというんだ。


 白兎を優しく寝かせたベッドはすでに染みが広がっていた。俺が到着する前に自分で慰めていたのだろう。

 不必要に繰り返される口づけの合間、白兎は「なんで来てくれたの?私っ、弓弦くんに酷いことしかしてないのに」とさも不思議そうに声を漏らした。


「お前が助けてって言ったんだろ?そりゃ来るだろ、何をおいても一番に来るだろ」


 助けてほしいならそう言えと、白兎に教えたのは俺だ。何を当たり前なことを、と微笑めば白兎はくりりとした瞳から涙を流した。重力に従い目尻からこめかみを伝う涙。今ならこれを拭ってもいいだろうか。俺は情けなく震える指先でその涙を拭った。


「すき、すきなの、どうしよう、すきなの、ゆづるくんっ、」

「……どうしようもねーな、俺も好きなんだからなぁ」


 発情中の本気にしちゃいけない戯言だと分かっているのに。それでも今だけは素直に受け取っといても罰はあたんねーだろ。


「ね、私を弓弦くんのものにしてっ、」


 こいつはまじで。正気になったら覚えてろよ。こっちの気も知らねーでよー。

 白兎の蒸気した頬に手を添えて、微笑んだ俺の顔はどうなってんだろ。あー、お前が好きだよ、って惚けきっただらしない顔してんだろーな。だっせーけど、まぁ仕方ない。だってその通りなんだから。


 白兎、俺も思ってた。力づくでも俺のものにって。でも違った。


「お前はお前のものだ。俺も俺のものだ。だけど、お前が願いを口にするなら、俺はそれを死ぬ気で叶える。そりゃ無理なこともあるだろうけど、」

「弓弦くんっ、私、」


「みちる、2人で幸せになろーぜ」


 白兎が正気に戻って全部忘れててもいいと思った。俺が忘れてなきゃそれでいいと。

 白兎は泣きながら「すき」と「きもちいい」を繰り返して、意識を手放した。





 髪を優しく梳かれているような心地良さに目を開ければ、そこにはとびっきり優しい笑顔をこちらに向けた弓弦くんがいた。


「あっ、……私っ、」

「収まったみてーだな、良かったな」

「……弓弦くん、ありがと、ほんと、」


 こんな穢れた私を抱いてくれて。と、それが言えなかったのは弓弦くんに幻滅されるのが怖かったからだ。


「俺帰った方がいーかなー、って思うんだけど、今さらな気もするよな」


 そう言いながらスマホの画面を私に見せて笑う。時間は0時を回ってもう1時になろうかという頃で、確かにその通りだと頷いた。


「おー、今日満月じゃん」


 と、僅かに開いたカーテンの隙間から覗く月を見た弓弦くんの声が弾む。


「ほんとだ。ね、うさぎっているのかな?」

「あ?月に?いねーだろ」

「……夢がないなぁ」

「そもそもあれって、うさぎの慈悲深さがどうとかって話だろ?」

「えー、知らない」

「…………」

「…………」


 微妙な沈黙の後、二人同時に吹き出して涙が出るほど笑った。冷静になればそこまで面白いことなどないのに。だけど弓弦くんとこうして同じ時間を共有できる、その事実に満たされた。


「楽しいね」


 そう言って笑みを深くすれば、弓弦くんは少し驚いた表情を見せた。そしてすぐに破顔して「楽しいな」って、この世の幸福全てを集めたみたいに言うから、私も同じように幸せに包まれた。


「そろそろ寝るか」

「う、うん。こっちで寝てね」


 と、私は自分のベッドの掛け布団をめくった。さすがに明里ちゃんのベッドで寝てもらうのは明里ちゃんに申し訳なさすぎた。

 弓弦くんは返事をしないまま私のベッドに寝転んだ直後「冷たっ、」と足を引っ込めた。


「え、冷たい?」


 そう首を傾げながら、未だに色が変わっているシーツの一部分に心当たりがありすぎて顔が赤くなってゆく。


「ご、ごめん、どうしよ、」

「どーしよったって仕方ねーだろ。寝るぞ」


 潔くベッドに横になった弓弦くんに倣って、私も寝転んだ。寝られるかなー、と心配してたけど余程体力を使ったのだろう。

 私たちは知らぬ間に寝てしまっていて、翌日のーー厳密にはその日のーー朝、「まだいたの?!」と言った明里ちゃんの声に起こされるまで2人して爆睡していた。

 背中合わせで寝ていたのにいつの間にか向き合うようにして眠っていた私たち。同時に目を覚まして、「うわっ!」「わっ、」と驚いた。


「いや、なんなのあんたたち。えー、付き合ってんの?」


 そんな私たちを見た明里ちゃんの呆れた声に申し訳なくなる。さすがに振り回しすぎだ。


「あーっと、付き合ってはないんだけど、」

「あー、ちょっと待って、聞いたら面倒な事に巻き込まれそうだから言わないで!」


 私がどう言おうか考えあぐねているうちに、明里ちゃんは顰めた顔の前で手のひらを左右に振る。


「賢明な判断だな」

「いや、あんたも少しは申し訳なさそうにしなさいよ?」


 弓弦くんの太々しい態度を明里ちゃんは指摘したが、今回に限っては弓弦くんのこの態度も致し方なしなのである。だって弓弦くんは完全なる被害者。私に巻き込まれた形なのだ。


「あー、悪かったよ、迷惑かけた。ほんと助かったよ」


 まさかあの弓弦くんが素直に態度を改めたものだから、明里ちゃんは目を白黒させて「ま、まぁ、いいけど」と収拾がつかない感情に忙しそうだ。


「にしても、この部屋からどうやって帰るの?絶対にバレるよ?」


 明里ちゃんのこの警告通り、部屋を出た瞬間に学年主任に見つかった弓弦くんはこっぴどく叱られ、それを止めに入った私も同じぐらい叱られた。

 弓弦くんの視線が「出てくるなって言ったろ」と私を責めている。だけど悪くない弓弦くんだけが怒られるなんて、そんなの耐えらんないよ。


 そしてお叱りを受けた私たちは修学旅行の最終日、自由時間も全て先生の監視下に置かれてみんなの注目を集めたわけだ。


「どーすんだよ。学校帰ったらまーた噂の的だぞ」

「……いいの、だって本当のことだもん」

「?本当のこと?」

「佑ちゃんがいるのに、その、弓弦くんのこと……」

「目撃者もいるしな。ははっ、まー仕方ねーな。2人で佑希に謝るか!」


 なんてことないみたいに弓弦くんが笑う。そんな私たちを、周りから哀れみの目を向けられた佑ちゃんがじっと見ていたことなんて、全く知らなかった。

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