23.悲しみの底に沈む

 泣くと思った。絶対に。泣いて「佑ちゃん、やめて」と懇願すると思った。

 だけどみちるは泣かなかった。ただじっと僕を見据え「ごめんね」と慈愛に満ちた眼差しを寄越すだけであった。みちるは僕に涙さえくれない。


「みちる、きみは僕のものだ」


 眦、頬、顎先、ゆっくりと丁寧に唇を滑らす。時折舌先でくすぐれば、みちるは何かに耐えるように下唇を噛んだ。


「かわいい、好きだよ、好き、愛してる」


 受け止める人がいない愛の言葉が虚しく落ちてゆく。だけどそれで良かった。僕たちにはそれがお似合いだからだ。

 

 一日に一粒。昨夜9時に飲んだ抑制剤が効いているのか、僕がどれだけ激しい口づけをしようが、丁寧に身体を解そうが一向に発情する気配がない。

 圭斗には匂いを嗅ぐだけで、近づくだけで発情するのに、と劣等感が刺激される。それでも無理矢理与えられる快感に耐えるように眉間に皺を寄せ、唇を固く引き結んだみちるがこの上なく愛しい。


「気持ちいいならそう言ってよ」


 僕の言葉を否定するように首を左右に振るみちる。それが面白くなくて乳房の頂に歯を立てれば、思わずといった様子で「あっ、」とみちるの口から音が漏れた。楽しい、かわいい、この手でどうにかしてしまいたい。一心不乱に欲望をぶつける。

 一度結びが解けたみちるの口からは嬌声が上がり出した。それが僕をまた追い立てる。


「好きだ、好き、みちるは僕のものだよ、誰にも渡さない」

「佑ちゃんっ、こんなの、あっ、間違ってるっ、」


 間違ってるか正しいかなんて、そんなのどっちだっていい。大事なのはこれから先ずっと、みちるが僕から離れて行かないかどうかなんだ。


「みちる、すごいね、こんなに濡れてる」


 嬉しくて嬉しくてどうにかなってしまうかと思った。粘液でテラテラと濡れた僕の指をみちるに見せつけたその時、明らかにみちるの体に異変が生じた。自分の心と体を守るみたいにみちるは発情し始めたのだ。

 部屋中がみちるの顎の臭腺から出るフェロモンで満たされる。それに刺激されて僕はさらに頭がおかしくなっていく。このままここで世界が終わればいいのに。


「みちる、みちるっ、」

「ゆうちゃん、あっ、きもちい、いれて、いれて」

「んっ、もっと僕を求めて、僕を好きだと言って」

「ゆうちゃん、すきっ、すきっ、おねがい、いれて、いっぱいほしいの」


 舌足らずの甘い声でみちるは何度も僕を求めた。圭斗を好きだと言ったその口で、僕を拒んだその口で、何度も僕を好きだと言って、何度も何度も精液を強請った。

 

 2人で溶け合って、僕たちはやっと1つになれた。




 幾度となく気を遣ったみちるは放心しながらも収まらない発情に苦しんでいた。このまま抑制剤を飲まなければこれが2週間も続くのだ。つくづく恐ろしい病気だ。

 汗と体液で汚れた身体を綺麗にしてやりながら、それの些細な刺激にも身体をくねらせ「ゆうちゃん、いれて」と強請るしか出来ないみちるを哀れに思う。可哀想で、とびっきり可愛い。

 しかしそろそろ僕も限界だし、みちるにはこれからの身の振り方を考えてもらわなければいけない。液体の抑制剤を流し込んでやれば、素直にこくりこくりと嚥下した。




 発情が収まったみちるはそれから暫くしてやっと意識がクリアになってきたらしい。でも顔面蒼白なところを見てると、あのままセックスのことだけを考えてた方が幸せだったんじゃないかとさえ思う。


「みちる」


 僕はありったけの愛を込めて彼女の名前を紡いだ。それなのに、みちるが呼ぶ僕の名前は嫌悪と拒絶に震えている。


「佑ちゃん……」

「あはは。穢れちゃったね、こんなみちる、僕しか愛せないよ?」


 クン、とみちるの髪に鼻を近づけて匂いを嗅げば、先ほどの行為の激しさを物語るかのような汗の香りが鼻腔をくすぐった。


「やっ、やだ!やめて、近寄らないで!」

「え〜?酷いなぁ。さっきはあんなに僕のこと求めてたのに。もしかして覚えてない?ほら、何度も挿れてって、中に出してって、」

「やめて、やめてよ、やだよ、佑ちゃん!」


 みちるは駄々を捏ねる子供のように激しくかぶりを振る。なんて可愛くて愚かなのだろう。


「あれ、みちるって誰のことが好きなんだっけ?」

「……っ、ひどい、」

「あー、圭斗だ、思い出した!これを知ったら圭斗は幻滅するかもなぁ」

「……っ、……」

「あっ、そんなことないか!圭斗はみちるに興味ないもんね?みちるがどこの誰と付き合おうがセックスしようがどうでもいいか!」


 みちるに教え込むように独り言を話す。項垂れたみちるの顎先を掴み無理矢理合わせた瞳には闇が広がっている。優越感に酔いしれて鳥肌が立った。


「可哀想なみちる。友達にも裏切られて、僕にも裏切られて。だけど何も知らないんだね。教えてあげるね、今までのことぜーんぶ」


 髪をかけて姿を現した耳に唇を寄せる。宗実さんがいつから僕に協力していたか、みちるがうさぎ病だと僕が広めたこと、昨年のレイプ未遂を仕込んだのは僕と宗実さんだということ、全部洗いざらい話せば、みちるの瞳からつぅと一筋の涙が流れた。

 

 心が手に入らないならそれはもういらない。


 だから消えない傷をあげる。みちるの体は僕の物だよ。


「誰にでも股を開いちゃうこのどうしようもない体ごと愛してる」


 僕の愛の告白に、みちるはまた涙を流した。





 結局俺は何もできないのか、と己の不甲斐なさに打ちのめされて。だけど白兎は元々佑希のことを好きだったわけだし、俺が発情させちまわなければあのまま2人は付き合ってただろうし。ならやっぱり、俺の存在ってただの邪魔者じゃね?って思ったら、俺に出来ることなんて何もねーじゃん、って、諦めた。


 のに!新学期に見た白兎の陰鬱とした雰囲気が俺の心をざわつかせた。だけど、教室では近づけない。万が一が起これば最悪だからだ。本当に佑希が言ったまま、"指を咥えて見ている"ことしかできない。

 一方で佑希はとても楽しそうにしている。ちょっとの休憩時間にも白兎に会いに来てはベタベタと仲の良さを見せつけていく。俺はあんな風に笑う佑希を知らなかった。

 人生を謳歌しているような佑希と人生全てを諦めたかのような白兎。そのアンバランスさに胸騒ぎを感じて、この手を白兎に伸ばしてやりたいと思うのに、俺の想像の中の白兎が拒否をする。


 


 2年生は体育祭が終わって少し経った10月頭に修学旅行を控えている。帰ってきたら中間テストが待ち受けているしで、この期間はとりあえず忙しいが、修学旅行を前にして学年全体が浮き足立っていた。

 

「先輩が旅行行っちゃうの寂しいです……」

「あー?そーか?たった4日だろ?」


 遠山は俺の答えに寂しげに愛想笑いを返した。そして誰かを見つけたのだろう。前を歩く生徒を目にして「あれ?あ、瀬戸谷さーん」と辺りに響く大きな声でその人物の名前を口にした。

 勘弁してくれ。というのが素直な感想だった。下校中、前を歩く2人に俺が気づいていないはずがなかった。だけど誰が近づきたいと思う?白兎の手を握った佑希は緩慢にこちらに振り向く。


「ああ、誰かと思えば圭斗と遠山さんか。奇遇だね。一緒に帰るかい?」

「ははっ、勘弁してくれよ」


 思わず出た本音に遠山が不満そうな声を出した。


「えー、せっかくだし一緒に帰りましょうよぉ。白兎さん、いいですか?」

「あっ、私は、……佑ちゃんがいいなら、」


 こいつ夏休み明けてから佑希依存が加速してねーか?いや、はたから見れば不健全な関係性でも白兎が幸せなら俺が口出すことでもねーか。


「僕は構わないよ。圭斗、話すのは久しぶりだね。元気にしてたかい?」

「ああ、まぁ、それなりに?」

「えっ?!喧嘩でもしてたんですか?」

「ふふ。喧嘩、いや喧嘩というよりあれはマウンティングだね」

「ま、マウンティング、ですか?」

「そうそう。自分より弱い雄や雌に立場を分からせるものだよ、ね、圭斗?」

「はぁ〜、うっざ……」


 佑希はどこまでも俺に"白兎みちるは僕のものだ"と分からせたいらしい。2人の間に流れる不穏な空気に遠山がオロオロとし出した。そんな中でも白兎は俯いたまま佑希の手を握っているだけだ。


「おい、白兎」

「えっ、」

「お前幸せなら幸せそうに笑ってろよ」

「ふっ、圭斗、突然何を言い出すかと思えば。みちるは幸せだよ、ね?」

「あっ、う、うん、幸せ」

「あっそー。なら"楽しいね"ってなんの苦労も知らない能天気な顔してろよ」


 じゃーな、とそれだけ告げて俺はその場を離れる。遠山が後ろで「先輩、待ってください」って叫んでたけど、俺はそんな気になれなかった。




 取り残された形になった遠山さんに「追いかけなくていいのかい?」と聞けば、彼女は首を左右に振った。


「ああなった先輩はわたしじゃ無理です〜」


 とお手上げなようだ。


 みちるは何がおかしいのかクスクスと笑い出し、「相変わらずだよね」と呟いた。なにを思い出しているのか、恐らく圭斗との思い出だろう。そんなことに腹を立てる。

 今みちるは僕のそばにいて、僕に体を許しているのに。心が手に入らないことが僕をジリジリと追い詰める。

 幸せそうに笑ってろ?そんなことになんの価値があるのだろう。

 同じ時間を共有し、先の時間にもみちるが存在する。それ以上に重要なことなどないだろうに。所詮手も足も出せない負け犬の遠吠え。僕が気にすることなど何一つない。


「それじゃあ、行こうか」


 ずっと繋がれていた手を強く握り直した。しかしみちるから握り返してくることはない。

 みちるは僕に笑いかけない。みちるは僕に心を傾けない。みちるは僕を愛していない。


 だけどそれでいい。どれだけ心が圭斗を求めても、体が圭斗を求めても、現実的な理性がそれを引き止める。


「みちる、愛してるよ」


 だからどこにも行かないで。僕のそばで笑ってて……、なんて。


 愛の告白を聞いた遠山さんは顔を赤くした。それなのに愛の告白を囁かれた本人は頬を赤らめることなく、悲しげに目を伏せるだけであった。

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