第92話 二人で過ごす夜の執務室
ソフィアは議会設備の撤収を終えた後、すぐさまアーサーの執務室に行こうとしたが……。
噂を聞きつけて殺到する市民の対応に駆り出され、抜け出すことが出来なくて、あっという間に時間が過ぎていく。
やっとのことで解放されたのは、すっかり日も落ちた時刻だった。
――アーサー様はお怪我をされているし、もう帰宅されたわよね……。明日には会えるんだから、我慢しましょう。
ソフィアは自分自身に言い聞かせ、帰り支度をするため迎賓館内に足を踏み入れた。
終業時間がとっくに過ぎた時刻。ほとんどの職員が帰宅したようだ。
所属している部署に戻り、がらんとした部屋の一画にある自分のデスクに目を落とすと、机の上に業務連絡のメモが置いてあった。
手に取り、目を通す。
読み終えた瞬間、ソフィアは思わず駆け出していた。
はしたなくも廊下を走り、月明かりに照らされた静かな回廊を全力疾走する。
『アーサー・オルランド様からソフィアへ伝言あり。
仕事が終わったら、執務室まで来て欲しい。ずっと、待っている』
大人になってからこんなに全力で走るのは久々で、息が上がって苦しい。
なりふり構わず走る姿は、髪もドレスもヨレヨレで酷く
だが、そんなことはどうでも良かった。
大切な人に生きて会えるなら、話ができるなら。そばにいれるなら。
それ以上に大事なものなんて、何一つない。
肺がぜいぜいと嫌な音を立て、足が鉛のように重たくなった頃、ようやく執務室の扉の前についた。
コンコンと軽いノックをする。
返事がなかったので、もう一度。
しかし、応えはない。中からは何の音もしなかった。
アーサー様は、きちんと約束を守る性格。相手を呼びつけて、先に帰ってしまうような人ではない。
扉の下から、かすかに室内の灯りが漏れている……。
――何かあったのかしら。
不安に駆られたソフィアは、アーサーから借り受けていた鍵を穴に差し込むと、カチリと回す。
様子を伺うようにゆっくりと扉を開け、慎重に室内を伺った。
薄く開いたドアの隙間から中をのぞくと、そこには――――。
応接用の長椅子に腰掛け、腕組みをしたまま眠るアーサーの姿があった。
金髪の隙間から覗く白い包帯が痛々しい。
間近で見ると、頬や腕、滑らかな彼の肌にはあちこち小さな傷が出来ている。
昨夜の事件のせいで、疲れがたまっていたのだろう。
彼はソフィアが近付いても、一向に目覚める気配がなかった。
「こんな寒い部屋で寝たら風邪をひいてしまいますよ。起きて下さい、アーサー様」
隣に腰を下ろしてそっと肩を揺さぶるものの、熟睡しているアーサーは目を開けない。
――どうしよう……。無理矢理起こすのも可哀想……。とりあえず、何か羽織る物を……。
コートをかけてあげようと思い、立ち上がろうと腰を浮かせた。
その瞬間、ソファーのクッションがたわんだ反動で、アーサーの体がぐらりと揺れた。
ソフィアは思わずソファーに座り直し、傾いて横向きに倒れる彼の体を抱きしめる形で支えた。
しかし、意識のない男性の重みに腕が耐えきれず……彼の体をゆっくりと倒してゆくと、膝枕をする形になってしまった。
何も無かったかのように熟睡するアーサーの横顔を、しばし見下ろして呟く。
「えっと……どうしよう……」
その直後、「んっ……」とアーサーが僅かに身じろぎをした。
起きた!?――と思って様子を伺うと、彼は温もりを求めるかのように、ソフィアのドレスに頬をすり寄せると、心地よさそうに表情をゆるめ、再び小さな寝息を立てて動かなくなった。
――お、起きたかと思った……。
心臓が忙しなく脈打っている。
ソフィアは咄嗟に止めていた息を静かに、ふっーと吐き出した。
アーサーの体は、すっかり力が抜け、ソフィアに身を任せている状態だ。
眠る彼の横顔はひどく無防備で、あどけなく……。
普段が大人っぽい人だからこそ、背を丸めて眠る姿がより一層、無垢な幼子のように見えてしまう。
穏やかな灰色の瞳はまぶたで覆われており、柔らかな髪が頬や目元にかかっている。
髪の先が一部分、わずかに焦げて傷んでいた。きっと爆発事故のせいだ。
顔にかかっていた前髪を、指先で慎重に撫でて払ってあげる。
触れても、彼はまぶたを閉じたまま一向に起きない。
余りにも静かに寝ている姿を見ていたソフィアは、目の前にいる彼が本当に生きているのか、無性に心配になってしまった。
――アーサー様、ちゃんと生きているよね……?
ソフィアは焦燥感に駆られ、静かにゆっくりと彼に顔を近づけて呼吸を確かめた。
僅かに感じる息づかいを聞いた瞬間、泣きたいほど安心する。
「良かった……生きてる。本当に……良かった」と、思わず声を発してしまった。
しんと静まりかえった真夜中の空間では、自分の潜めた囁きが、やけに大きく聞こえた。
アーサーが無事だったことに、心の奥底からホッとした感情が込み上げてきて、ソフィアはじんわりと浮かんだ涙を拭う。
直後、真下から――「ソフィア、泣いているの?」と問いかけられた。
急に声をかけられ、びっくりして目を開けると、冬の海を思わせる凪いだ青灰色の瞳と視線が合う――。
「アーサー様、起きていらっしゃったのですか……?」
「えっと……少し前にね。起き上がるタイミングが見つからなくて……。呼び出したのに、いつの間にか寝てしまって、ごめん」
アーサーが体を起こしたので、ソフィアは「大丈夫です」と言いながら立ち上がろうとした。
その時「ソフィア、待ってくれ」と手をやんわりと握られ、再び腰を下ろす形になった。
アーサーは、ソフィアの頬を伝う涙を優しく拭い、繋いだ手を自分の頬に当てた。
彼の頬は温かくて、ふれ合った肌のぬくもりを通して、彼が確かに生きているのだと実感する。
「きっと、すごく驚いて心配しただろう。不安にさせてすまなかった。安心して。ほら、僕は無事だ。ちゃんと生きている」と、アーサーが語りかけてきた。
あらためてホッとした気持ちが込み上げ、ソフィアは思わず声を詰まらせて、切実な願いを口にした。
「アーサー様……お願いです。……消えないで。私の前から……居なくならないで……」
この先、身分や地位の
会って話をしたり、触れることが出来なくなっても構わない。
ただ、アーサーが生きていてくれれば、他に何も望まない。
――これ以上、大切な人を失ったら……私はもう、立ち直れない。
「……お願い……死なないで」
悲痛な声を絞り出し心からの願いを伝えると、手を引かれ優しく抱きしめられた。
「大丈夫だ、僕は絶対に死なない。君の前から消えたりしない。テオに約束したんだ。生きて、ソフィアと、ソフィアの未来を守ると。あの夜、確かにあいつに誓ったんだ。僕は約束を簡単に破る性格じゃないって、知ってるだろう?」
「テオ様と……?」
耳元で、アーサーが掠れた声音で言葉を紡ぐ。
「あぁ、そうだよ。テオは、もう自分がソフィアを守ることが出来ないから……『俺の』ソフィアを必ず守れって……。ふふ、あいつめ、最後まで『俺の』と言い張るとは、やっぱり底抜けに前向きな奴だよ」
アーサーは更に強く抱きしめながら、語った。
「僕は今まで、死ぬことは全然怖くなかったんだ。むしろ大切な人に置いて行かれるくらいなら、自分が先に命を落とした方が良いとさえ、思っていた。でも、昨日の爆発に巻き込まれた時……人生で初めて『まだ死ねない。死にたくない』と強く思ったんだ。友との約束も果たさず、君というかけがえのない女性を残して、一人逝くなんて絶対に出来ない」
ソフィアの両肩に手を置いて体を少し離し、まっすぐな瞳でこちらを見つめ、彼は告げた。
「ここに誓うよ。僕はソフィアを一人にしない。生きて必ず君を、守り抜く――」
真摯な眼差し、ひたむきな気持ち。強い意志と誓いのこもった言葉。
それら全てが、ただひたすら一途に、ソフィアに注がれる。
アーサーは、まっすぐこちらを見つめたまま、迷いなく言った。
「ソフィア、僕は心から君を愛――」
その時――。
外からコツコツという大きな靴音が響き、近付いてきて……部屋の前でピタリと止まった。
そして、扉が激しくノックされる。
それと同時に聞こえてきたのは、どこか覚えのある、かん高い女性の声だった。
『アーサー様!!わたくしです!!いらっしゃるんでしょう?オルランド家の馬車が、まだ止まったままでしたので、参りましたの!お怪我の具合は、いかがです?』
ガシャガシャとドアノブを回す音が響く。
『アーサー様!扉をお開け下さいませ!!お顔を見て話がしたいのです!お願いしますわ!』
またもや、ドンドンドン!――という、まるで借金の取り立て業者がするような、激しいノック音が響き渡った。
see you tomorrow
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