第7話 諦めない

「国を出る?」


 父の放った突拍子もない言葉に驚き、ソフィアは思わず聞き返した。

 

 貴族男性が留学するのは偶にあるが、令嬢が差し迫った理由もなく国を出た話など聞いたことがない。

 

 セヴィル帝国では、人の出入りが厳しく制限されている。


 貿易商など海外を行き来する職業でもない限り、たとえ貴族であっても簡単に国外へ出ることは許されない。


「そんなの……無理ですわ、お父様。だって、普通じゃないもの」


「そうだな、確かに普通ではない。だが、我が家のありとあらゆる人脈を使えばお前を異国の女学院に編入させることは出来る。このままテオ様と婚約するか、それとも一人で異国に渡るか、好きな方を選びなさい」


「私……自由になれるの?」


 ソフィアの呟きに父は頷いたあと、険しい顔で「しかし――」と言葉を続けた。


「自由には責任が伴うのだ。留学先のリベルタ王国女学院を卒業後、我が国に戻ってきたとしても、お前は周囲から遠巻きにされるだろう。知ってのとおり、この国では『普通』というレールから外れた時点で居場所を失う。海外に行くのなら、我が家と国には戻れないという覚悟が必要だ」


「戻れないという覚悟……」


「そうだ。それに、向こうではセヴィル帝国貴族としての恩恵はない。もちろん、私達も家族として支えるつもりだが、異国にいる娘に出来ることは限られる。だから、お前は卒業後、平民と同じく仕事に就き、一人で生きていかなければならない」


 父は表情を緩めると切なげに目を細めた。


「自由な道が必ずしも楽で幸せだとは限らないんだよ。もしかすると、テオ様との結婚するより、よっぽど辛く苦しいいばらの道かもしれない。未来は誰にも分からないんだ。それでも、選ぶしかない。私はお前の選択を応援するよ」


 今この瞬間、ソフィアは人生で初めて自分で何かを選ぶという経験をしている。


 これまでは着る服も、行くべき舞踏会も、未来の結婚も、全て周囲によって決められていた。


 選択肢がないのがこの国の貴族令嬢の当たり前で、まさか自分が何かを選択する日が来るとは思ってもみなかった。


 だから、すぐさま答えは出せなかった。


 貴族だから、食べ物に困り飢えたことも、明日の資金に困ったこともない。

 

 そんな自分が、たった一人で言葉も文化も違う異国に行き、仕事に就き、自分自身の足で立って歩けるだろうか。


 ずっと、籠の中の鳥みたいな環境が嫌だった。


 なのに、いざ目の前に大空が広がった途端、飛び立つ勇気が持てなくて不安になってしまう。


 母に「ゆっくり考えなさい」と背中を撫でられて、ソフィアは大人しく頷いた。

 

 しかし、あまり猶予がないのは分かっている。


 今はテオが個人的に交際を申し込んできているだけだが、じきにブラスト侯爵家から正式な婚約申し込みが来るだろう。


 そうなってからでは、もう遅い。


 早く……一刻も早く決断しなければと思うのに、焦れば焦るほど迷ってしまう。


――何かを決めるって、こんなに難しくて怖いことなんだ……。


 廊下を歩きながら考え込んでいると、横から「ソフィア」と声を掛けられた。

 

 「なに?ルカ」と返事をする間もなく、手を引かれて半ば強制的に弟の部屋へ連行される。


 

 ルカの部屋には壁一面本棚が並べられており、所狭しと本が置かれていた。


 ソフィアもよく借りて読んでいる歴史書や語学教本をはじめ、海外の観光案内本から新聞の切り抜き、ファッション雑誌。


 ミステリや純文学から、大量の恋愛小説まで。


 果てには、【男の中の男になるための方法100】や【完全変装テクニック】という……なんともマニアックな本まで幅広く取り揃えられている。



 何の用だろう?と思っていると、ルカは数冊の本をソフィアに押しつけてきた。

 留学先の語学教本や、観光・文化に関する本だ。


 女性が知恵をつけることを良しとされない風潮の中で、ソフィアが手に入れられる本は限られる。


 今回も貸してくれるのだろうと思い、ソフィアは「いつもありがとう。読み終わったら返すね」と礼を言った。


「いい。やる。あっちに行くには必要だろ。持って行けよ」


「うん……」


 ソフィアは本を胸にぎゅっと抱えると「ごめんね」と呟き、うつむいた。


「何が?」


「私が居なくなったら、ルカやお父様、お母様……みんなに迷惑かけちゃう。特にルカは当主になるでしょ?ただでさえ責任が重いのに、私のことで余計な負担かけて……駄目な姉でごめんね……」


 ソフィアが選択を迷っているのは、一人で異国に行く不安もあったが、最大の理由は家族に迷惑をかける申し訳なさからだった。

 

 もう一度「ごめんなさい」と言いかけた時、目の前に影がさす。

 

 不思議に思って顔を上げると、おでこをピンッ――!と軽く指で弾かれた。

 

 いわゆるデコピンされ、ソフィアは額を手で押さえて「もう!」と叫ぶ。


「今、真面目な話してるのに!ちゃんと聞いて!」


「聞いてるっつーの。んで、お前があまりにも馬鹿なこと考えてるから仕置きしてんの」


「馬鹿って……」


「馬鹿だろ。いいか?一度しか言わないから、ちゃんと覚えておけ」


 ルカは呆れ顔から急に真面目な顔になって、まっすぐソフィアの瞳を見つめ尋ねた。


「なぁお前、俺のこと迷惑な弟だと思ったことあるか?」


「ないよ。そりゃ、口は悪いし、生意気だし、私のこと全然姉扱いしないし、猫かぶりだし、ムカつくことも喧嘩することもあったけど、そんなの家族だから当たり前じゃない」


「なんだ、自分で分かってんじゃん。そういうこと。俺や父さんと母さんに迷惑かけるとか考えて色々諦めようとしてんなら即やめろ。ぜってーやめろ。俺たち家族のために、死人みたいな顔であの男に嫁がれる方がサイアクだ。それに、俺は諦めてねぇよ」


 ルカは世界中の本に囲まれた部屋の真ん中で、腰に手を当てて胸を張り、思いっきり笑った。

 

 窓から差し込む月明かりに照らされた顔は、昔ソフィアに悪戯イタズラして笑っていたワルガキの頃と全く変わっていない。


 光を反射してキラキラ輝く薄緑色の瞳の奥には、いつだって溢れんばかりの負けん気が宿っている。


「これから世の中はもっと変わる。この国の貴族は頑固者が多すぎて色々遅れてるけど、変わらないなら、俺が変えてやる。お前も俺も、もっと自由に、平等に、自分らしく生きられる国になるって信じて、絶対に諦めない。だからお前も」



 絶対に、諦めんな――――。


 

 力強い言葉に、ソフィアの心の中にくすぶっていたもやが一気に晴れた。


 最近ずっとぼんやりしていた視界がクリアになり、無音で色あせていた世界に鮮明な音と光が戻ってくる。


――あぁ、もう泣き虫の小っちゃなルカじゃないんだね。


 いつの間にか自分よりも背が高くなっていた弟の顔を見上げ、ソフィアは今度こそ覚悟を決めた。


 胸に抱えた本を一層強く抱きしめて、前を向く。


「うん。私、諦めないよ。だって姉が先に諦めたら、かっこ悪いからね!」


 てっきり『お前が格好いい姉だったことあったか?』くらいの憎まれ口を叩かれるかと思ったが、目の前の弟は何も言わず、ただほっとしたように頷いた。

 


 私は自分の人生を絶対に諦めない――ソフィアは固く決意した。




 次話『春風と共に旅立つ』



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