INNOVATOR(イノベーター)

榎本教授 @大阪工業大学

第0章 ミッション

 大きな封筒と小さな観葉植物を僕に遺し、父は2カ月前に亡くなった。


 封筒には、父が書いたであろう厚い書類が収められていた。でも、それは「遺書」のような、これから先のことを記したものではなく、むしろ、僕が今いる「出発点」について詳しく解説したものだった。つまり、僕が向かうべき目的地や道順については、何も教えてくれていない。


 もう一つの観葉植物は、父が大切に育てていたもの。

 父は、僕が幼い頃、草木が生い茂る森に一緒に出かけてくれた。「新種の植物を発見する探検家になる」ことが、僕が子どもの頃の夢だった。一心不乱に森を進んでいく僕を、父はずっと近くで守りながら、いろいろな生物に出会っては、一緒に観察してくれた。「森の生物は、つながり合って生きているんだよ」そう、教えてくれた父だった。そんな頃の写真が1枚、封筒に入っていて、懐かしく想い出された。


 技術開発の研究者だった父の夢は、父が開発した技術が、たくさんの命とつながっていくことだった。そんな父は何年か前に、働いていた会社を辞めて、その夢を叶えるために自宅の書斎で独自に研究を始めたのだった。

 書斎はほぼ研究室になった。古い本棚には、最新の技術書や論文、試作途中の電子部品がいくつも並び、簡易テーブルの上には、うごめくような電気配線をつなげた計測装置が置かれて、LED表示を繰り返すようになった。指先で微妙に実験装置を操作し、試作品をテストしては、脇の机に身体を移し、視線をパソコンのデータと格闘させたまま、伸ばした腕でマウスかコーヒーカップを握りしめる……そんな父の日常があった部屋。

 そんな書斎に、小さな観葉植物が大切に育てられていた空間があった。カーテン越しの柔らかい陽のあたる場所で、研究の合間には父もそこに腰を下ろし、植物と一体となって静かな呼吸をしていた。


 父は、センサー技術の研究者だった。父のセンサーを使った診断装置は全国の病院で使われているんだと、よく話してくれた。昔は、針を身体に刺して診断していたそうだが、父が勤めていた会社で、電極パッドで微弱電流を流して診断する方式が開発されて、今はそれが世の中の主流になっている。そうした中、父は、ある革新的なアイデアを思いついていた。それは、特殊な「光」で体内の状態を測定するという技術。しかし、光で診断するという「常識外れ」なアイデアを理解してくれる研究者は少なかったし、会社の方針にも合わなかったから、父の会社でそのアイデアが研究されることはなかった。

 それでも父は、それを「フォトン技術」と名付けて、自宅で独自に研究を始めるために会社を辞めたのだった。

 それが完成すれば、多くの患者が家庭で日常的に診断できる日が来る……そんな夢を、僕によく話してくれた。


 自宅での研究は長く続き、完成に向けて意欲満々の父だったが、ある年に「健康診断の結果が悪かった」らしく、それをきっかけに入院することになってしまった。病室に場所は移っても、ベッドの上でパソコンに向かってずっとフォトン技術について記録していたようだったし、僕が顔を出したときも、大抵は父の「研究開発ストーリー」が延々語られるぐらい、気力たっぷりの様子だった。

 父の話では、フォトン技術は既に完成していて、検証に必要な実験データも入院前には集め終わっていたらしい。しかし、それはまだ父にとってのゴールではなかった。

 「信じてくれる仲間と一緒に製品を世に出し、多くの患者を助けたい」

 僕は聞かされていなかったけれど、その頃には既に、医師からの余命宣告があったらしい。それでも父は、パソコンに向かいながら病院での闘病生活を長く続けていたのだった。


 あの日も、父の研究開発ストーリーを、僕は、ベッドの脇のパイプ椅子に座って聞いていた。子どもの頃、森の中で父の話を聞いたときのように。

 なのに父は、その長い物語をおもむろに締めくくり、そして、僕に告げたのだった。

 「あとは、おまえに預けるよ」

 そのときの口調は、弾んでいたのかもしれない。昔、父とTVゲームを攻略していた頃、「ここからはプレイヤー交代だ」とコントローラを僕に差し出す父の、信頼と挑戦が混じった感じを、そのとき想い出したから。

 けれど、本能的に感じてしまうこともある……それは「父が交代する理由」

 病室の白い空間の中、僕は心の条件反射を止められなかった。僕の中にこの先の「筋書き」が浮かんでくることを、僕は、ただただ強い意志の力で、断固として拒絶しようとしたことを覚えている。

 それでも現実は、大自然に従って流れていき、父が想定した筋書きのとおり、始まりはすぐにやってきた。


 父がいなくなった病室には、僕に宛てた「封筒」が残された。そこには完成したフォトン技術の「全て」が書かれた厚い書類が収められている。

 こうして僕はプレイヤーとなり、出発点に立った。

 そこには、育てるべき「芽」が、確かにある。


 目的地は、叶えたい夢がある場所だと思う。

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