第一章〜①〜

7月8日(木) 天候・雨のち曇り


 小嶋夏海は、マスクを外さない——————。

 いや、いくら感染症対策のためとはいえ、蒸し暑い天候が続く一学期の終盤のこの時期に、そんな息苦しい状態をずっと続けられるのか、という疑問はもちろんあるのだが、少なくとも、高校二年で初めて同じクラスになり、四月以降、席替えのないまま、彼女の座席の後ろに座り続けているオレ自身に関して言えば、彼女がマスクを外して、鼻より下の部位を周囲に晒している場面を目撃したことはなかった。

 カタチの良い額が透けて見える様に薄く作られた前髪、少し太めの印象的な眉に、冷たいほどの美しさを感じさせる切れ長の瞳、彫刻品のように筋の通った鼻からは、さぞかし整った顔立ちなのだろう、と想像はできるものの、やはり、その全貌を拝んでみたい、と考えてしまうのは、オトコの性なのだろうか?

 昼食時や体育の授業時など、校内活動中も、生徒がマスクを外す時間が必ずあるハズなのだが——————。

 彼女は、昼休みになると、フラッと教室を出ていき、そのまま午後の授業の直前まで戻ってこない、という学校生活のパターンを送っており、体育の授業は、男女別の場所に分かれて行われてきたため(同じプールを使って行われることを期待していた水泳の授業も感染症対策のため前年に引き続き中止になった)、新しい学年になって、早や三ヶ月以上も経過するというのに、オレに限って言えば、彼女の《ご尊顔》を拝見する機会には、恵まれていなかった。


(できれば、夏休みが始まる前に、マスクなしの彼女の素顔を見てみたい!!)


 期末テストも終了し、覚悟していたことは言え、惨憺たる結果に終わってしまった一学期の学習成果から、全力で目を背けることを決意したオレの目下の最大の関心事は、その一点に集約されていた。

 なんてことをツラツラと考えながら、片手で頬杖をつき、窓の外の入道雲を眺めつつ、下校間際のショート・ホームルームの担任教師の言葉を聞き流していると、


「ちょっと、早くプリントを受け取って欲しいんだけど?」


 目の前の座席から、低めのトーンで、非難するような声が聞こえた。

 あわてて意識を戻すと、少し苛立ったような表情で、小嶋夏海が、こちらを見ている。


「おっ、ああ……」


 不意をつかれて、まともに言葉が出ないオレに対して、間の抜けた返答が、さらに彼女の気に触ったのか、


「なに、ボーッとしてるの? どうせ、坂野のことだから、ロクでもないことを考えてるんでしょうけど!?」


 ピシャリと言い放って、プリントを受け取ったことを確認すると、用が済んだとばかりに前を向く。


「実はさ、小嶋のことを考えてたんだ……」


などと、言おうものなら、どれだけ冷たい視線を向けられるかわからないので、


「あ、ああ。悪りぃ……」


と、謝罪の言葉を口にするも、もはや彼女に、こちらの言葉が届いているかは、わからなかった。


(こりゃ、マスクを取った顔を見せてくれ! なんて、お願いできる感じじゃね〜よなぁ)


 ため息をつきながら、期末テストの結果と同じくらいの絶望感を味わいつつ、オレは肩を落とした。

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