土の小瓶
唯六兎
プロローグ
とある朝方、草の茂った高層ビルの屋上に私はいた。強い風が吹くたびに、ビルは微かに揺れる。少し不安は感じるが、そんな中、快晴の空の下に広がる、眩い濃緑色に目を向けた。眼前には植物という植物に覆われた、大小さまざまな建物群が、今や渾然一体となりそこにあった。黄色の花粉のようなものや、赤い実のようなものがその上に点々としている。私はそんな世界を見て、息を止める。そして、文献や口承でしか知り得ない遠い昔のことを想像した。
私が生まれる二百年ほど前、この世界にはさまざまな文明が栄え、それぞれが秩序を整えながら関わり合い、ボーダーレスな世界を構築していたという。それがある時から崩壊し、建物は捨てられ、今自然に還りつつある。その事件を我々はそのまま「崩壊」と呼ぶが、その詳細について知ることはできない。なぜなら、「崩壊」に関する文献は今もなお抹消されつつあり、さらにはカバーストーリーが流布され、正確な情報を得ることは不可能に近いからである。
私は北方の生まれであるが、曽祖父の話によると、北の方は「崩壊」の被害を受けなかったらしい。そのため、避難民がよく助けを請いにやってきたのだが、その避難民でさえ口々に違ったことを口にしたという。ある人は核が落とされたと言い、ある人は怪物が現れたという。またある人は、製薬会社の裏稼業が原因の事故だと陰謀論じみたことを言い、やがて国の陰謀だと言い始めた。今思えば、その頃からカバーストーリーが流されていたものと考えられるだろう。誰が流していたか、今となっては分からない。
とにかく、そんなこんなで人々は、「崩壊」の発生源らしき方向から何者かが攻めてきているものと想定し、俗に「北方の要塞壁」と呼ばれる大きな要塞と壁を築き上げた。そして、それが功を奏し、南方から来た異形なるものの撃退に成功したのである。
異形なるものについてはいまだによくわかっていない。ただ、「崩壊」が原因で発生した存在であることは間違いない。私の知っている限りで有名なのは、ダルマのような体を持った皮膚の硬い獣「イワダルマ」や、空を飛ぶ蛇「スカイスネーク」などであろう。いずれにせよ、「崩壊」以前にいた生物よりも凶暴なものが多く、毒や体の硬化を特性として持つものも多い。
私はその異形の生態や弱点などを調査するため、そして未知の世界を見たいがため、旅を始めた。無論、生存者や協力者がいれば、その助太刀になろうと考えている。もしいればの話であるが。
日が昇っていく中、私はそばに置いていたイワダルマの殻だったものを取った。夜の間、焚き火の灯りを頼りに丹念に研磨したため、切れ味の良いナイフになっている。これで狩りの幅が広がり、昨日難儀したアブラツルの切断にも大いに役立ちそうだ。
ナイフをあらかじめ作っておいた木製の鞘にしまい腰に帯びると、上着のポケットからイワダルマの干し肉を一枚取り出した。やたらと硬いそれを口に頬張り、しっかり噛み、砕く。ほのかな脂身の甘みが広がった。クセのある味ではあるが、悪くない。
私は、使い込まれたよもぎ色のリュックから、五芒星のマークが刻印された水筒を取り出した。そして、入っている水を勢いよく渇いた喉に流し込む。だんだんと水筒は軽くなり、すっかり空っぽになってしまった。
「また、水汲まないとな……」
私はそう独り言つと、空っぽになった水筒をリュックにしまう。代わりに、すっかり黄ばんでしまった地図を取り出し、目的地を探した。
今日から向かう場所は、現在いる地域よりも栄えていた「鶴岡」という場所である。まだ「北方の要塞壁」に面しているような辺境の地であるだけに、「崩壊」についての手がかりは少ないだろう。だが、要塞壁に入れなかった人々が集い、コロニーを形成しているという噂が、故郷の中にもよく流れていた。その真偽を確認するために、しばらくはこの鶴岡を目指して移動することにしよう。
私は地図をしまい、いくべき方向に何か目印はないか探した。すると、遠くの方に赤い鉄塔が見える。今にも倒壊しそうではあるが、あの様子だともうしばらくはもつだろう。あれを目印に進むことに決めリュックを背負うと、アブラツルの油の入ったランプをつけた。忘れ物はないか確認し、日光の届かない階段を降りていく。屋上には焚き火の跡だけが、火種を燻らせ残った。
私は現在、盛岡と言う場所にいる。ここから鶴岡まで、約五日ほど歩かなければならない。途中で安全な場所が見つかればそこで休めるのだが、道中には危険が多い。無論、異形やその他の自然による危険もあるが、何より恐ろしいのが、「人類の遺産」である。
例えば盛岡と鶴岡の間には「横手」という町がある。この町はかつて政令指定の新鋭開発都市であり、地方には珍しく先進的な街づくりがなされていたらしい。この町の恐ろしさと言うのは、その徹底された防犯システムに由来する。
横手地域には、沢山の防犯ロボットが徘徊しているというのだ。飛行型に徒歩型、車両型などその種類はさまざまである。そしてこのロボットはまたタチが悪く、住民情報に一致しない人物が市の許可なくそこにいれば、武力行使で排除しようとするのである。時に殺害も厭わないらしい。これは、横手市長の子孫直々の忠告であり、信頼できる情報である。
無論今となってはロボットが停止している確率の方が大きい。ただ、当時、原子力電源を搭載したロボットが投入されかけていたという話もある。それらは主に屋外用であったようだが、屋内ならば安心というわけにもいかないだろう。いずれにしても、鶴岡に向かうにはこの横手は避けて通れない。そんなことを考えていた時である。
階下から人工物じみた音が聞こえた。耳をすますと「ブルルン、ブルルン」というエンジンのような音が聞こえるが、これは「カエンイヌ」特有の鳴き声である。こんなところで火を吹かれるのは困る。早期決戦が必要であろう。そう考えた私はすぐさまランプのつまみを回し光量を下げる。カチカチという音とともに辺りがすっかり暗くなったその中、じゃらり、じゃらり、と足音を忍ばせて進む。
しばらく進むと、焦げ臭い匂いと共に、ゆらゆらと揺れる火の光が階下の壁に映えた。少しずつそれは接近して来る。やがて、踊り場のコンクリートの仕切りから姿を表した。炎を纏った犬のような生物のその鼻っ面が見えたところに、私はポケットから取り出した小瓶を一つ投げた。
小瓶は破裂し、辺りに紫色の霧が充満した。投げたのはノロイダケから抽出した毒である。私はガスマスクをしていたが、生身一つで訪れたカエンイヌにはどうやら効果的面であったらしい。キャンキャンという犬らしい断末魔をあげながら、その手で喉元を懸命に引っ掻いている。やがてそこから身は裂け、火を灯した肉片を辺りに散らばらせた。
その光景は幾分か見るに耐えなかった。私は悶え苦しむカエンイヌのもとに駆け寄り、先ほど研ぎ上げたイワダルマのナイフを頸に刺し込んだ。しばらく苦しそうな声を上げたが、急所をつけたらしく、抵抗はされない。息絶える寸前のその顔は、穏やかなものだった。
私はランプの光量を再び戻し、チラチラと火を残すカエンイヌの死体を確認した。そして、静かに横たわるカエンイヌの腹をゆっくりと切り開く。すると、燃えたガソリンのような臭いと共に、白濁した体液がドバッ、そしてトロトロと流れ出てきた。どうやらこの体液が燃えていたらしく、手に触れるとかなり熱い。
それを我慢し、フライパンのように厚く黒々とした内臓をナイフで切り分け、取り出す。八割ほど取り出した時、私の手にツルツルとした丸い球のようなものが触れた。それを破らないようにそっと取り出し、慎重に床に置く。中にオレンジ色の液体の入ったそれは体液に濡れており、ぬらぬらとした光を反射させていた。この球こそが、俗に「火炎の宝玉」と呼ばれるものである。
炎を用いる異形に生成される球であり、何のためにあるのかは不明。それでいて、強い刺激を与えるとすぐ爆散する危険なものである。要塞壁の守護をしていた際に、下手な素人がこの球を爆発させ大きな被害を生んでいたことを、つい思い出す。しかし、その特性を活かした有用な使い方も、故郷では開発されていた。この球を重く加工して、手榴弾の如き投擲武器にするのである。しかし、そんな加工は現在の私にはできかねる。
私は宝玉を崇めるだけで満足することにした。そしてすっかり鎮火した体の中から漏れ出る濁った体液を小瓶に詰めた。体液の量は小瓶三つ分に及んだ。
階段を降り切り、塗装の剥がれて錆びついた防火扉を開くと、明るく広い空間が広がっていた。今や自然に覆われているこの空間は、おおよそこの建物のエントランスのような場所であったのだろう。
天井にはシャンデリアがあった。砂埃や苔類の侵食で眩しさは失っているものの、造形の繊細さと壮大さは今もなお湛えている。壁に開いた大きな穴から吹く風に押され、音も立てずに揺られているその下には大きな水溜まりができていた。よく見るとシャンデリアから水滴が滴り落ちている。水溜まりの中にはどこから来たのか、カラフルな小魚たちが優雅に泳いでいた。無論、水も澄んでいた。
私はリュックを下ろし、空になった水筒を取り出した。水溜まりの中に浸すと水面に同心円状の波紋が広がる。それを合図に小魚はチロチロと逃げていった。しばらくは水筒からぽっぽっと上がってくる泡を眺めていた。
水分補給を終えると、その周辺に生えるアブラツルをナイフでゆっくり切っていく。愛称「ダルマナイフ」のおかげで昨日と比べてもその効率は一段と上がっており、思いのほか楽に作業が進んだ。アブラツルの断面から滲み出る油を小瓶に流し込む仕組みを作ると、私は茂った草の上に座り、再び干し肉をかじった。朝露の濡れたのがほんのり冷たい。
しばらく油の滴り落ちる様を見ていると、やがてツルの断面が乾き始めた。そのため、私はツルを束ねて持ち、チューブを絞るように上から下へと指を滑らせる。すると、乾いていた断面は湿り始め、そこから出た薄茶色の雫が小瓶に吸い込まれていった。完全に絞り切ると、萎びた濃緑色の紐束を草の上に捨て、小瓶に蓋をした。それを上着のポケットにしまい、エントランスを一瞥すると、私は回転扉の横の空間から外へ出た。
日差しは苔むしたアスファルトに照り返し、心地よい暖かさを生んでいた。しかし、肝心のアスファルトは所々捲れ上がっており、歩きづらくなっている。その上に点在する古びた廃車の数々が、かつての人の賑わいを今もなお乗せているように思えたが、寂寞を生んでもいた。
このようにして、今にも倒れそうなお辞儀をして並ぶビルに挟まれ、盛岡の街を歩き出す。私はようやく旅の始まりを告げたのであった。
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