日頃の感謝を込めて
さまっち
第1話 ある日の思い付きと、受験
日頃の感謝を込めて、家族旅行をプレゼントしよう。
漠然と考え始めたのは、僕がまだ高校3年生の時であり、大学受験のために勉学に励んでいた頃の話だ。
ちょうど数学の勉強に一息つけて、紅茶を飲んでいた時に、頭に浮かんだ。大学受験に成功したら家族旅行をプレゼントしようかなと。
その時は、今自分がすべき事はきっちり大学受験に合格するため、勉強に集中することだと思い直し、意識の片隅に追いやった。しかし、休憩中など、ふとした瞬間に、何度となく思考に上り、想いが強く育っていった。
大学受験に合格すること。
家族旅行をプレゼントすること。
その二つが当時の僕にとって、思考の大半を占めていた。
割合的には、勉強が8割、家族旅行が2割といったところか。
その他の思考については、今はもう思い出せない。まあどうせ、くだらないことでも考えていたのだろう。覚えていなくても全く問題ないに違いない。
僕はふたつの目標を達成するために、ひたすら勉強をしていた。
学校の授業は真面目に聞いていたし、帰宅後も少し休んでから勉強を開始し、
夜10時くらいまでは頑張るようにしていた。
その姿を見て母は「偉いね」と声をかけてくれたし、
父は「体調にだけは、気をつけるんだぞ」と気遣い、
弟は「兄ちゃんは、燃えてるなあ」とだけ告げてよく去っていった。
自分自身、勉強は当たり前と思っていたから、自分は偉いだとか立派だとか一切思わなかった。父の言葉を守り、体調にはしっかり気を付けていた。体調を崩して寝込んだら、勉強が遅れるし、周りに心配をかけてしまう。そんな事態にはなりたくなかった。
僕はマイペースに勉強を続け、着実に知識を吸収していった。
☆
そしてついに志望校の受験当日がやってきた。
その日は1月のよく晴れた日だった。
冷たい風に身を震わせ、英単語帳を眺めながら、電車に乗って大学へ向かった。
試験会場に足を運び、受験票を片手に座席について、ほっと一息つく。
コンビニに寄って購入したペットボトルの緑茶を口に含み、のどを潤した。
試験開始時間まで30分ほど時間があったので、座席は半分も埋まっていなかった。
既にいる人は、参考書に目を通したり、静かに着席していたり様々だった。
どの顔もどこか緊張を漂わせ、またやる気に満ちた表情を浮かべていた。
みんな賢そうだな、という感想を抱き、自分も負けられないと気を引き締めた。
僕も参考書を開き、最後の追い込み確認をする。
受験科目は、数学と英語と、理科の選択科目として化学を選択していた。
テストは数学からなので、積分の練習問題に目を通し、最終確認をする。
正直、数学は得意なのでそれほど心配はしていない。僕は根っからの理系人間なので、数学と化学についてはかなり自信があった。しかし反面、英語の能力が乏しいので、どれだけ数学と化学で高得点を取り、英語のカバーが出来るかにかかっている。
英語で合格ラインに達するのは無理だと諦めている。
なので得意な数学といえど気を抜かず、出来うる限りの高得点を叩き出したい。
そう思って数学の勉強に集中していると、続々と受験者が集まり始めた。
気付くと座席がほぼ埋まっており、開始時間が迫っていた。
僕は緑茶を一口飲んで気分を落ち着かせた。
さあそろそろ試験開始だ。
これまでの勉強の成果を見せる時が来た。
僕は一度、周辺を見回し、ライバルたちの姿を目に焼き付ける。
負けないぞ、と決意を新たにし、目の前の参考書を片付けるのだった。
☆
数学、英語、化学と試験が流れるように終了していった。
テストの手ごたえはなかなかのものだったと思う。
数学はすべての問題に答えることができたし、化学も8割くらい正解しているだろうか。問題は苦手な英語だが、半分もできず、正解は4割くらいだろう。
仮に数学を9割正解とすると、平均して7割の得点を取ることになる。
去年の試験の合格ラインは6割台だったので、予想よりかなり少ない点数を取らないかぎり大丈夫だろう。
僕は試験の出来に満足して、試験会場を後にした。
帰りの電車にガタゴト揺られながら、流れる街並みに目を向け続ける。
家に帰ったら試験の出来を家族に報告しようと考える。それが終わったらまた勉強だ。合格する確率は高いが不確定なので、勉強の手を緩めることはできない。それにまだ滑り止めの大学受験が残っている。また、今日の試験が不合格でも後期の試験が受験可能なのでチャンスは残る。まだ受験勉強の日々は続く。合格発表は2週間程後なので、それまでは机にかじりつく必要がある。結果が出て不合格であれば勉強は続き、合格すれば勉強から解放される。今は解放を夢見て前進するしかない。僕は決意を新たにするのだった。
それからふと家族旅行について想いを馳せる。
両親や弟を温泉宿に連れていく計画を考えている。具体的な場所は決まっていないが、僕が住む東京から電車で数時間の所がいい。行先は後に決めるとして、超えねばならないハードルが一つ存在する。それは単純に金銭的な問題である。現在の自分の貯金をかき集めても、必要とする金額にはまるで足りない。なのでお金を稼ぐ必要がある。僕は今までバイト経験がなく、お金を稼いだことがない。だがこれを機にバイトを始めるのも悪くない。初めてのお給料で家族に恩返しするのも面白い使い方だ。コンビニのバイトでも始めようかな。
その時、ちょうど電車が最寄り駅に到着した。
僕は鞄を背負い直し、電車から降りて行った。
☆
我が家へ到着し、玄関の扉を開けて中へ入ると、母が居間から顔を出し近寄ってきた。
「おかえり武志、今日のテストはどうだったの?」
ちなみに武志とは僕の名前だ。
僕は靴を脱いで廊下へと上がり母の問いに答える。
「まあ、ばっちりだったよ。数学と化学は問題なかったし、英語は僕には難しかったけれど、それでも数学と化学でカバーできる範囲内の点数だと思う。ケアレスミスが多くなければ大丈夫じゃないかな」
僕がそう言うと、母は自分の事のように、ほっとした表情を浮かべる。
「そう、それはよかったわね」
「うん、それにしても、今日は疲れたよ。紅茶でも飲みながら一息つきたいな」
僕は台所へと足を向け歩き出す。母もそんな僕の後ろからゆっくりと付いてくる。
台所に入った僕は、やかんに水を入れて、コンロにセットし火をつける。
水が沸騰するのを待つ間、僕はテーブルの椅子に座り、向かいに座る母に話しかける。
「母さん、何か食べるものないかな」
「クッキーとみかんがあるけど、食べる?」
「みかんはいいや。クッキーがほしいな」
「はいはい」
母は立ち上がって、戸棚の前まで歩き、戸棚を開けて中に手を伸ばし、ごそごそ探し出す。
その様子を眺めながら、そんな中のほうに隠すように仕舞われているのかと思う。後でこっそり食べようとしていたのかな。僕が食べて大丈夫なのかなと考えていると、母がクッキー缶を手にしてテーブルに戻ってきた。
「なんか隠すように仕舞われていたけど、僕が食べて大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。もともと武志の勉強の合間にと思って買っておいたものだよ。隠していたのは、見つかると武明が食べちゃうからね」
ちなみに武明とは弟の名前だ。確かに弟は食いしん坊なのでクッキー缶を見つければ一人で全部食べてしまうかもしれない。
僕は手渡されたクッキー缶を手に取り、ふたを開ける。缶の中には沢山の美味しそうなクッキーが入っていた。一つつまんで手に取り、少し形状を眺めてから、クッキーをかじり咀嚼する。口の中いっぱいに上品な甘さが広がり、僕は満足する。クッキーの破片がパラパラとテーブルの上に落ちていく。その様子を見ながら後でふきんでテーブルを拭こうと考える。その時、やかんのお湯が沸き始めたので、僕は食器棚からコップを取り出した。中にティーバッグを入れ、やかんのお湯を注ぐ。しばらく待って、ティーバッグを取り出し、角砂糖を一つ放り込んだ。スプーンで少しかき回し、準備万端。一口飲んだ。
美味い。体から疲れが解けていくようだ。
それから僕は今日のテスト問題を具体的な例を挙げて、どこが難しかったとか、あれが参考書にわかりやすく解説されていたとか、色々な話を母にした。母は相槌を打ちながら聞いてくれていた。
話が一段落付いて話すことも無くなったときに、ふと思いついて聞いてみた。
「そういえば母さん、温泉って行ったことある?」
「温泉? あるよ」
「へぇ、そうなんだ。いつ行ったの? 僕が生まれてからは行ってないよね」
僕がそう尋ねると、母は少し考えてから答える。
「そうだね、あれは結婚してすぐの頃だったから、20年くらい前かな」
「そう聞くと、ずいぶん昔だね。また行きたいとか思わないの?」
「行けるもんならね。近所に温泉が湧いてたら毎日行くんだけどねぇ」
「なるほど。それなら僕も行ってみたいな。温泉には入ったことがないし」
「近所にあればねぇ」
どうやら母は温泉自体は嫌いじゃないみたいだ。僕は情報収集のためにもう少し質問を重ねてみた。
「遠出をするのは嫌なの?」
「別に嫌というわけではないけど。遠いと行って帰ってくるのが大変で、ちょっと夕食後に行ってくるというわけにもいかないでしょ」
「日帰りではそうだね。一泊してくるのはどうなの?」
「一泊するということは家族で行くってこと? そんなお金は家にはないなぁ」
「お金があれば行ってもいいってこと?」
「そうだね。お金が沢山あればね」
「なるほど、金銭的な問題なんだ。じゃあもし仮に、商店街の福引かなんかで温泉旅行が当たったら行く?」
「家族みんなで行けるなら。ぜひ行きたいね」
「そっか」
「さっきから温泉の話ばかりしてるけど、温泉に行きたいのかい?」
「まあ行きたいか行きたくないかと聞かれると、行ってみたいと答えるけどね。行ったことないし。でもまあ無理して連れて行ってくれとは言わないよ。家にはそんなお金が無いんだろ」
「そうだね。そんな余裕はないねぇ。残念だけど」
僕は、うん、と頷いておく。
連れて行ってもらう気は全くないので何も問題はなかった。むしろ温泉に連れて行ってやるなどと言われると大変困ってしまうところだった。僕は家族を温泉宿に自分で連れて行って喜んでもらいたいのだ。そのための情報収集として現在話を聞いているのであって、僕が温泉に行きたいってことを母に告げることは主目的ではない。あまり長くこの話を続けると、僕が凄く温泉に行きたがっていると捉えられるかもしれない。大学合格祝いで少し無理してでも温泉へ行こうなどと両親が考えてもいけないので、この辺りで話題を打ち切っておく。
僕はコップの中の紅茶を飲み干し、立ち上がって告げる。
「それじゃあ僕は勉強に戻るよ」
「そうかい。頑張りなさい」
「うん」
僕はコップを流しに置き、自室へと戻っていった。
☆
志望校の試験日から二週間ほどの時が流れた。
その日は合否発表日であり、前日は緊張してあまり寝られなかった。
眠い目をこすり自室から起きて居間へ来ると、母に「武志に大学から郵便物が届いているよ」と告げられる。
「どれかな?」
僕がはっきりしない頭で返事をすると、母は「これだよ」といってこたつの上にある分厚い封筒に手を伸ばした。それをそのまま僕に手渡してくれる。
ずしりと重い封筒を受けとり、期待に胸を躍らせながら、封筒を開いてみると中に合格通知や振込用紙などが入っていた。僕が無言でちょっとした感動に打ち震えていると、内容が気になるのか母が声をかけてくる。
「どうだったの?」
「合格してたよ」
「そう、それは良かったわね。おめでとう。たくさん勉強してたものね」
「うん、ありがとう」
母の祝福の言葉に、僕は感謝の言葉を返すのだった。
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