第2話 森の大王
行ってみれば成る程そこには横倒しになってなお、人の背たけの半分程もある巨大な幹が道を
「……大きいな」
フィーアが思わず
少しうねりのついた濃い色の髪、二重の両眼は涼やかと言うよりは腫れぼったい。長剣を右の腰に
この隊列の警備責任者、それが彼だった。
フィーアの旅立ちが正式に決まり、その護衛である衛士は衛兵隊と騎士団、
彼らが国を出たのは丁度一ヶ月前の事だった。
「姫様、あんまり衛士を虐めないでやって下さい。あんなのでも一応衛士なんですぜ?」
腕を組んだままの姿勢を崩さず、年若い衛士長は言った。言葉の端に微かに皮肉く聞こえるモノを乗せて。
剣技の腕を買われ、異例のスピードで上級騎士にまで成り上がったディル。彼はたまに、若さ故の傲慢さとでも言うモノをのぞかせる。
「ああ。解った」
フィーアは、剣の柄に肘を乗せた姿勢を崩さず答えた。
「はあーっ。本当にわかってらっしゃるのか」
その気質と才気ゆえに、
フィーアもその一人だ。彼女とディルは不思議とウマが合った。
「倒木だと?」
「はい。全く迷惑なことですなぁ」
ディルの愚痴を気にも止めず、フィーアが尋ねる。ディルは肩を
「ああ。だが、
「そりゃ……そうですがね」
二人が手持ち
しばしの沈黙のあと、先に口火を切ったのは衛士長だった。
「……そういえば、森の民が匂いが何とか申しておりましたな」
「それは私も聞いた。何やら悪い予感がするそうだ」
「ちっ。次の街までもう間もないってのに……」
不吉の予兆、それ自体を嫌うのか。不機嫌に舌打ちした衛士長を、フィーアは真顔で見上げた。
「なあ、ディル。一つ尋ねたい」
彼女の
表情が乏しいんだよな。十六にしてはさ。声にせず、ディルは呟いた。
「何です?」
「森の民の予見は当たるモノなのか?」
ニクスにも獣人が暮らしているが、彼らの中には変事を予知する者が時折居るという。
ディルは、さあ。と肩をすくめた。不確かなことを口にするのは彼の好みに反するようだ。軽く眉をひそめてディルは続ける。
「噂では聞いた事がありますがね。真相は分かりかねます。……まあ、しかし当たるかもしれませんな。何しろ森の奴等の『鼻』は特別ですからな」
「……そうか」
フィーアは既に問いなぞ忘れてしまったように、目前の作業に見入っている。
斧を振るう人々の間で懸命に走り回っている小さな後ろ姿が目に入って、フィーアはほんの少し笑んだ。だが、それとて破顔という類いの物ではなかった。
──全く変な姫様だぜ。
ディルの脳裏に、幾度となく呟いた言葉が浮かんでくる。
三年前、ディルは初めて十三才のフィーア姫の前にまかり出た。指南役として、その実、剣の練習相手として。
お
刃をつぶした練習用の
「……街に着いたら、久々に手合わせしますか?」
国を出る直前の負けの一戦がちらついて、ディルは思わず呟く。
「いいぞ」
振り向かず、作業に見入ったままフィーアは頷いた。
「さあ、そろそろ馬車にお戻りください。こんな所にいたらお体が冷えて、侍従長がうるさ……」
言いかけて、ディルは口をつぐんだ。
気配が、する。何者かの気配が。微かに大地を揺らして。
ずずず……っ!
そのまま数瞬。聞こえるのは微風が鳴らす葉
やがて
不意に、遠方で森の葉がさんざめく。
ざ、ざざ……
近づいてくる。すさまじい威圧感をもった、何かが。
ざ、ざざざざ……
倒木に隠れた前方。巨大なモノが青い道に踊り出た。
それは蛇によく似た生き物。角は無く、ぬめぬめと虹色に輝く
「ロイム……!!」
誰かが絶望の吐息で魔獣の名を呼ぶ。毒牙を
ロイム。森に住む魔物。好んで人を食う、巨大な毒蛇。
どうやら倒木はこの、狡猾で無慈悲な森の大王の仕業であったらしい。罠にかかった哀れな獲物に感づいて、彼はやって来たのだ。
次の
アラルガント一家の長。レイオスの父が一番にロイムの鼻っ
がきいぃぃぃぃぃ……んっ!
澄んだ
森の木々を薙ぎ倒して進む、ロイムの鱗は硬い。
ロイムは
斧が弾かれた音で、みなが我に返った。しかし、それは森の民を救うには遅すぎた。
驚愕に開かれていた姫君の
右腕が半ば無意識に剣を抜き放つ。柄に巻いた魔獣の皮が、手袋越しにぴたりと掌に吸いつく。その酔うような感触。
彼女の横顔は、既に無感動な少女のそれではなく。父王によく似た、
剣を手にした時、彼女は最も年相応の表情になる。
怒り、喜び、そしてほんの少しの恐れと自尊心。
その全てが、彼女の面を覆っている薄い膜のような仮面から染み出している。
前方。姫君に一呼吸遅れた衛士たちを追い越して、フィーアが飛ぶ。
数種の
その鋭い一撃が、蛇の
柔らかな
ロイムは平然として喉を鳴らし、小さな獲物の
「下がれっ! 邪魔だっ!」
駆け寄ろうとする衛士たちを
『助力を拒むのか?』
愚かな。人語を解するというのか、ロイムは
大王の鋭い一撃をかわす。右へ左へ。
足場の悪い倒木の上で、本能だけが教える素早さで身を翻し。幾合と無く牙を受け流し。全てが紙一重。
剣撃の硬い金属音が響き渡っても、
──無理だ。鱗には剣が通らない……
右腕に軽い
ではどうしたら? どうしたらいい? 考えろ。考えるんだ!
剣では鱗を突き通すことは出来ない。ならば、鱗の無い剣の通る柔らかい場所を探せばいい。
柔らかい場所。柔らかい。柔らかい……
一瞬、ロイムが動きを止める。必殺の一撃を加える構え。瞼の無い黄緑色の
──
今までに無く鋭く速い一撃。巨大な
ひらり。ロイムの眉間に降り立ち、振り向きざま気合いを込めて握りしめた剣を、思い切りロイムの右目に突き立てる。
案の定、目の玉は柔らかく、剣は容易にその奥の肉を切り裂いた。
大王は
──限界だっ……!
必死でしがみつく指も痺れ、樹木に叩きつけられる瞬間フィーアは飛んだ。
辛うじて激突を避け、無数の小枝を折りながら柔らかい葉の茂る枝に落ちる。
返り血にまみれ、滑り落ちそうになる体躯をようやく支えてロイムを見
すると、今しも彼の
「……ディル」
剣を
姫君の一喝で呪縛されていた衛士たちは、自らの役目を思い出したように動き出す。
まずは天法士が、不思議な呪文を唱えて火球や氷塊をロイムに投げつけた。
姿勢を崩した魔獣に向かって、白兵戦を主とする衛士たちが殺到する。
間もなく、森の大王は細い
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