第2話 森の大王

 行ってみれば成る程そこには横倒しになってなお、人の背たけの半分程もある巨大な幹が道をふさいでいた。

「……大きいな」

 フィーアが思わずつぶやいた言葉を耳に留め、衛士えいしの一人が振り返る。

 少しうねりのついた濃い色の髪、二重の両眼は涼やかと言うよりは腫れぼったい。長剣を右の腰にげて、肩につけた階級章は、衛士『長』を表す灰色だ。

 この隊列の警備責任者、それが彼だった。



 フィーアの旅立ちが正式に決まり、その護衛である衛士は衛兵隊と騎士団、天法士てんほうし団の中から選抜された。その中でも、最高位の上級騎士であったディル・シューが衛士長に就任する。彼を含めた二十人の衛士達が、今まで姫君とその侍従たちを守って旅を続けてきたのだ。

 彼らが国を出たのは丁度一ヶ月前の事だった。

「姫様、あんまり衛士を虐めないでやって下さい。あんなのでも一応衛士なんですぜ?」

 腕を組んだままの姿勢を崩さず、年若い衛士長は言った。言葉の端に微かに皮肉く聞こえるモノを乗せて。

 剣技の腕を買われ、異例のスピードで上級騎士にまで成り上がったディル。彼はたまに、若さ故の傲慢さとでも言うモノをのぞかせる。

「ああ。解った」

 フィーアは、剣の柄に肘を乗せた姿勢を崩さず答えた。

「はあーっ。本当にわかってらっしゃるのか」

 その気質と才気ゆえに、左遷させんとも言える衛士長の任を賜ったディル。それでも一向に態度を改めようとしない彼には、確かに敵も多かったが、不思議と味方も多かった。

 フィーアもその一人だ。彼女とディルは不思議とウマが合った。


「倒木だと?」

「はい。全く迷惑なことですなぁ」

 ディルの愚痴を気にも止めず、フィーアが尋ねる。ディルは肩をすくめて答えた。

「ああ。だが、旅程りよていは遅れていないのだろう? 問題は無い」

「そりゃ……そうですがね」

 二人が手持ち無沙汰ぶさたに眺める前で、衛士と侍従と森の民たちは忙しく倒木を取り除けている。

 しばしの沈黙のあと、先に口火を切ったのは衛士長だった。

「……そういえば、森の民が匂いが何とか申しておりましたな」

「それは私も聞いた。何やら悪い予感がするそうだ」

「ちっ。次の街までもう間もないってのに……」

 不吉の予兆、それ自体を嫌うのか。不機嫌に舌打ちした衛士長を、フィーアは真顔で見上げた。

「なあ、ディル。一つ尋ねたい」

 彼女のひとみには常に変わらず鋭い光が宿っているが、その顔に強い感情の揺らぎは見えない。

 表情が乏しいんだよな。十六にしてはさ。声にせず、ディルは呟いた。

「何です?」

「森の民の予見は当たるモノなのか?」

 ニクスにも獣人が暮らしているが、彼らの中には変事を予知する者が時折居るという。

 ディルは、さあ。と肩をすくめた。不確かなことを口にするのは彼の好みに反するようだ。軽く眉をひそめてディルは続ける。

「噂では聞いた事がありますがね。真相は分かりかねます。……まあ、しかし当たるかもしれませんな。何しろ森の奴等の『鼻』は特別ですからな」

「……そうか」

 フィーアは既に問いなぞ忘れてしまったように、目前の作業に見入っている。

 斧を振るう人々の間で懸命に走り回っている小さな後ろ姿が目に入って、フィーアはほんの少し笑んだ。だが、それとて破顔という類いの物ではなかった。

 ──全く変な姫様だぜ。

 ディルの脳裏に、幾度となく呟いた言葉が浮かんでくる。



 三年前、ディルは初めて十三才のフィーア姫の前にまかり出た。指南役として、その実、剣の練習相手として。

 お転婆てんばの道楽につき合う楽な仕事と、引き受けた役目。姫君と剣を交えて一合で、そんな甘さは吹き飛んだ。

 刃をつぶした練習用の幅広剣ブロードソードの太刀筋は、正確無比。彼女の師、ニクス騎士団長にして剣聖エリュース・スムナのそれを思わせる。

 邂逅かいこうの一戦はからくもディルの勝利に終わったが、それから三年。今は彼が負け旗を振ることも多い。

「……街に着いたら、久々に手合わせしますか?」

 国を出る直前の負けの一戦がちらついて、ディルは思わず呟く。

「いいぞ」

 振り向かず、作業に見入ったままフィーアは頷いた。

「さあ、そろそろ馬車にお戻りください。こんな所にいたらお体が冷えて、侍従長がうるさ……」

 言いかけて、ディルは口をつぐんだ。


 気配が、する。何者かの気配が。微かに大地を揺らして。


 ずずず……っ!


 地底ちぞこから、何かがやってくるような震動が辺りを揺らす。

 そのまま数瞬。聞こえるのは微風が鳴らす葉れの音。生き物の吐息。

 やがて驚愕きようがくの声すら無くなって、深い静寂が時を止める。

 不意に、遠方で森の葉がさんざめく。


 ざ、ざざ……


 近づいてくる。すさまじい威圧感をもった、何かが。




 ざ、ざざざざ……


 ざんっ・・・……!!!!




 倒木に隠れた前方。巨大なモノが青い道に踊り出た。


 それは蛇によく似た生き物。角は無く、ぬめぬめと虹色に輝くうろこ。硬いトゲで覆われた背。鎌首をもたげた、人の背より数倍は大きなそれが、朱に光る舌をちらつかせて。黄緑に輝くひとみを細めてこちらを見下ろしている。

「ロイム……!!」

 誰かが絶望の吐息で魔獣の名を呼ぶ。毒牙をき出した口角が、一瞬笑ったように見えた。


 ロイム。森に住む魔物。好んで人を食う、巨大な毒蛇。

 どうやら倒木はこの、狡猾で無慈悲な森の大王の仕業であったらしい。罠にかかった哀れな獲物に感づいて、彼はやって来たのだ。

 次の刹那せつな。大王の姿に圧倒される人々の間をって、何かが飛んだ。真っ先に倒木を駆け上がり、手にした黒鋼くろはがねおのを降り下ろしたのは森の民。

 アラルガント一家の長。レイオスの父が一番にロイムの鼻っつらに鋭い一撃を浴びせかける。


 がきいぃぃぃぃぃ……んっ!


 澄んだ余韻よいんを残して斧が弾かれる。刃先が少しこぼれた。

 森の木々を薙ぎ倒して進む、ロイムの鱗は硬い。はがねと言えど、並の刃物では容易に切り刻むことはできない。

 ロイムはわずらわしげに首を振った。あおりを受けて、レイオスの父の体躯たいくが、姿勢を崩したまま宙を舞って近くの幹に叩きつけられる。

 斧が弾かれた音で、みなが我に返った。しかし、それは森の民を救うには遅すぎた。

 驚愕に開かれていた姫君のあお色のひとみが、すっと細まった。

 右腕が半ば無意識に剣を抜き放つ。柄に巻いた魔獣の皮が、手袋越しにぴたりと掌に吸いつく。その酔うような感触。

 彼女の横顔は、既に無感動な少女のそれではなく。父王によく似た、修羅しゆらの眼が怒りを宿し。


 剣を手にした時、彼女は最も年相応の表情になる。

 怒り、喜び、そしてほんの少しの恐れと自尊心。

 その全てが、彼女の面を覆っている薄い膜のような仮面から染み出している。


 前方。姫君に一呼吸遅れた衛士たちを追い越して、フィーアが飛ぶ。

 数種のはがねを特殊な製法で打ち鍛えた墨流し。ニクス国の優れた鍛造技術が生んだ芸術品とも呼べる鋼で作られた幅広剣。

 その鋭い一撃が、蛇のくびと思しき辺りをぐ。

 柔らかな地金じがねなら、切り裂くほどの切れ味を持ってしても。大王の鱗にはかすり傷が出来る程度。

 ロイムは平然として喉を鳴らし、小さな獲物のあらがう様をあざわらっている。

「下がれっ! 邪魔だっ!」

 駆け寄ろうとする衛士たちを一喝いつかつしざま身をひるがえし、姫君は倒木の上にすっくと立った。

『助力を拒むのか?』

 愚かな。人語を解するというのか、ロイムは鎌首かまくびかしげるようにして牙を剥いた。

 大王の鋭い一撃をかわす。右へ左へ。

 足場の悪い倒木の上で、本能だけが教える素早さで身を翻し。幾合と無く牙を受け流し。全てが紙一重。

 剣撃の硬い金属音が響き渡っても、迂闊うかつに手を貸すことも出来ずに衛士たちは固唾かたずを飲んだ。

 ──無理だ。鱗には剣が通らない……

 右腕に軽いしびれを感じる。なんて硬い鱗。

 ではどうしたら? どうしたらいい? 考えろ。考えるんだ!

 剣では鱗を突き通すことは出来ない。ならば、鱗の無い剣の通る柔らかい場所を探せばいい。

 柔らかい場所。柔らかい。柔らかい……

 一瞬、ロイムが動きを止める。必殺の一撃を加える構え。瞼の無い黄緑色のひとみが針の如く細まった。

 ──ひとみ……!

 今までに無く鋭く速い一撃。巨大なあぎとをぎりぎりで避け、反動を利用して、再度フィーアの小さな体躯たいくが宙を舞う。

 ひらり。ロイムの眉間に降り立ち、振り向きざま気合いを込めて握りしめた剣を、思い切りロイムの右目に突き立てる。

 案の定、目の玉は柔らかく、剣は容易にその奥の肉を切り裂いた。

 大王はおらびを上げてのけ反った。フィーアは振り落とされぬように血糊で滑る剣にすがり、更に深く、深く鋼鉄こうてつくさびを沈める。その痛みにロイムは首を振り、鮮血を撒き散らしながらのたうち回る。

 ──限界だっ……!

 必死でしがみつく指も痺れ、樹木に叩きつけられる瞬間フィーアは飛んだ。

 辛うじて激突を避け、無数の小枝を折りながら柔らかい葉の茂る枝に落ちる。

 返り血にまみれ、滑り落ちそうになる体躯をようやく支えてロイムを見った。

 すると、今しも彼のあごの下、のどの一番柔らかい部分に長剣がつき立った。誰かがロイムの弱点を教えている。小さな白い翡翠ひすいを埋め込んだつか飾り。見覚えの有る衛士の剣。

「……ディル」

 剣を投擲とうてきしたのは衛士長のディルだった。

 姫君の一喝で呪縛されていた衛士たちは、自らの役目を思い出したように動き出す。

 まずは天法士が、不思議な呪文を唱えて火球や氷塊をロイムに投げつけた。

 姿勢を崩した魔獣に向かって、白兵戦を主とする衛士たちが殺到する。

 間もなく、森の大王は細い断末魔だんまつまの叫びを上げて事切れた。

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