嫌いな場所。

「お母さーん。ねえ、二階のトイレの窓さあ、カーテンか何か付けられないの?」


 冷蔵庫の中身を見がてら、台所に立つ母にそれを伝えると、母は妙なものを見る目で三歩を見た。

 三歩は疑問に思う。少しして思い至る。インテリアかおしゃれか、娘が突然トイレを飾り付けたいと言い出したかと勘違いしているのか。もしくは、場所上トイレにカーテンを付けるという発想がおかしいのかもしれない。付けるならブラインドか。よくあるレースのカーテンだと心もとないし、できれば分厚いカーテンがいいのだが。

「せめてさ。ほら。あの、あるじゃん? 窓枠に貼っ付けるスポンジみたいなの。アレでもいいから付けられないかなー。もうあっこのトイレ寒くって寒くって」

 おねがーい、とぶりっ子っぽく言ってみてから冷蔵庫に視線を戻す。

「カフェオレこれ誰の? お兄ちゃんの? 三つあるけど。一個くらいならいいよね」

 セブンで売っている定番のカフェオレ。兄はこれが好きでよく買い込んでいる。三歩が勝手に取って行くのを承知しているのかいないのか大量に買い込むのだ。うむ。いっぱい買う方が悪い。

 これを発見すると、いつも三歩は、今そこにいない兄に向けているのか、自分に向けているのか、果たして誰に向けているのか自分でもよく分かっていない言い訳をしてから取っていくことにしている。

「あんたそれでいいの?」

「へ?」

 ひやっとした。そんなに怒ることだろうか。怒ることか。自分がされたら嫌か。でもたかがカフェオレでそんな風に言わなくても。もやっとした。

「……わかったよう。戻しとくよ。はあ、でも、なんかさー。ジュースないのー?」

「そうじゃなくてさ」

「?」

 しばらく見回し、いい加減諦めて冷蔵庫を閉めた。

 母はまだ妙な顔をしていた。唇をへの字に曲げて眉間に皺を寄せて。

 ――どうしたのだろう。

「三歩、あそこのトイレの窓好きだったでしょう?」

「……トイレの窓?」

 今度は自分が眉根を寄せる番だった。トイレノマドガスキ。なにを言っているのだ、この母は。

「なに。その意味わかんないせりふ」

 思わず口を付いていた。

 母は「えー」と驚いたような声を発した。咎められたような気分になる。

「覚えてないのー? 呆れたぁ。こっちに来てからずーっとそうだったじゃない。私が寒いから閉めて、そんなところばかりいないでって注意しても聞かないったらなかったんだから。トイレの扉の隙間から吹き込んでくるからこっちまで寒かったなあ。あー、よく覚えてるわあ。引っ越したばっかで友だちもできないで、もうどうしちゃったのーってさあ。トイレでピアニカとか吹いてたんだよ、あんた」

 信じられる? とでも言うように。

「え。なんで?」

 本当に自分のことを言っているのか。知らない他人じゃないのか。

 しかし、次の言葉で三歩は母の云わんとすることを朧げながら思い出す。


「中央アルプス」


「……。あ。ああ~……」

 そうだったそうだった。そういえばそうだった。三歩はあの時、なにより二階のトイレの窓から見える中央アルプスが好きだった。――自分でも理由はよく思い出せないが。あそこの窓から見える中央アルプスが好きで好きでよく見ていた。

 時間も忘れて。

 いつの間にかそんな習慣はなくなっていたけれど。

「ま。いいわ。今度見とくから。なんなら三歩も一緒に付いてきて」

「はーい」

 なんだか自分でも理由の分からない気まずさを感じつつ、三歩は自分の部屋へと戻っていった。喉は乾いていたが、夕食の時間まで少しだけ我慢することにした。




「うーっ。さむさむっ」

 早春、早朝。尿意に襲われ、パジャマ姿のままトイレに立った。

 もうすぐ築七年が経過しようとしている我が家。その我が家の中でも、ここのトイレは特に寒い。恐らく我が家の吹き抜けという構造上の問題もあるだろう。奥まった場所にありつつも、空間的な開きの煽りをもろに受けるこのトイレは、風も集まりやすい上、とにかく冷えるのだ。

 お陰で、ホコリが溜まって掃除が面倒。ここのトイレ掃除は三歩担当。

 それと、奥まった場所にあるため、ワイファイが入りにくい。どこでも電波を欲する三歩にとって、ここのトイレだけは家の中にあって唯一、落ち着きそうで落ち着けない場所。

「ふう」

 ズボンとパンツを同時に下ろし、出し切り、トイレットペーパーで拭いて、ズボンとパンツを戻す。そのまま立って、トイレを出ようとしたところで、ふと思い立ち便座に座り直す。

 窓を開けてみた。

「うー……」

 冬の外の空気が一気に入り込んでくる。よくもまあ、毎日毎日こんなことをしていたものだと思う。便座の温度をMAXへと調整しようとするが、便座温度は既にMAXだった。尻をぎゅうっと付けて、なんとか温みを全身に行き渡らせようと試みる。意味ない。


 そこに、窓の向こう側に、ぼんやりとした中央アルプスの連なりがあった。


 ぼんやりと。

 うっすらとある。

 変わらず、そこにあるといつも信じていた中央アルプスは酷くぼんやりとしていた。冬の澄み切った深い青の空がそこにあることは分かる。白い雪に覆われた中央アルプスがそこにあることも当然だが分かる。だけど、その山の稜線がはっきりとしない。青と白の境目はたぶん美しいのだろうが、今の自分にはただ遠くの方に見える薄ぼんやりとした壁か何かにしか見えなかった。

「落ちたなあ……」

 右0・8、左0・5。この前の身体測定でそうだったから、今はきっともっと落ちているかもしれない。

 幼い頃に比べて三歩の視力はずいぶんと落ちている。そろそろ眼鏡が必要かとも思う。するならコンタクトか。どうせなら眼鏡も掛けてみたいが。

 ほう、と吐いた息は白かった。長野じゃ秋の終わりから春の始めまでずっとこんなだ。早くこの長く寒い冬が過ぎ去ってくれればいいのにと思う。

「ん」

 スマホがパジャマのポケットで振動した。

 朝っぱらから誰であろう。通知を見てみれば、友人の沙幸(さゆき)だった。タップすると同時、ロックを解除する。そのままラインへと画面は移行するが、そこで画面はくるくるくるくる読み込みマーク。

「はあ」

 失念していた。

 溜息を吐く。

 窓は寒いからさっさと閉めた。

 そして、トイレを出た。

「ほんっと、このトイレ、ワイファイどうにかなんないのかなー」

 中学入学を祝って買ってもらったスマートフォン。視力はスマホのせいでどんどん落ちていっているけれど、片時も手放すことなく三歩はスマホを持ち歩いている。

 たぶん自分がこの場所を嫌いになったのは、あの中央アルプスが見えなくなったせいもあるだろう。10%くらいは。他に、ホコリが溜まりやすいのが15%で、寒いのが20%。

 ただ、残り55%は電波が入りにくいことだろう。そうとしか思えない。

「はあ~あ。寝よ」

 部屋に入って二度寝。

 寒い冬は布団の中が一番だ。寝るに限る。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る