便所の窓から中央アルプスが見える。
水乃戸あみ
好きな場所。
便所の窓から中央アルプスが見える。
木曽山脈とも呼ばれるこの山々の連なりは、最高峰が木曽駒ヶ岳の2956メートルと、3000メートル超えの山が無いこともあって、同じ日本アルプスである北アルプス南アルプスと比べてしまうと若干だが見劣りする。
もちろん、毎日便所の窓からこの中央アルプスを眺めている三歩からして見れば、そんなことは全く感じないのだが、この前来た親戚の従兄弟の兄ちゃんや、この前来た親戚の再従姉妹の姉ちゃんからして見れば、アルプスと言えば北か南しか存在しないらしく――というかそれしか知らなかったらしく――、三歩は、「なんかわたしみたい」と、その話を聞いたときに言ってしまって親戚たちを酷く心配させた。が、三歩からしてみれば、そこにマイナス的な意味は一切含んでおらず、単純に三兄妹の末っ子である自分を重ねた以上の意味は持っていない。
説明するのも億劫だったので、黙ったままだったが。
麻生家は、信州松本市の隅っこにあって、そんな隅っこでも、この中央アルプスは眺めることが出来た。そのくらい存在感がある雄大な山なのだ。
だが、家の建つ方角的に、この中央アルプスを一番綺麗に見ることが可能なのが、この麻生家二階にある便所の窓だった。
三歩の部屋の前。
そこに便所は位置している。
三歩はこの便所が何より好きだった。
自分の部屋よりも、この便所で過ごすことの方が多いくらいで、母と父と兄と姉から怒られるのだが、そんな彼らもここ最近はうるさく言わなくなってきたくらい、この便所に三歩は入り浸っていた。
流石にここで物を食べたり、宿題をしたりすることはないが、漫画を読んだり、ピアニカの練習するくらいはした。
母からは再三、手を洗え、ピアニカは綺麗にしてと言われ、そんな三歩の手は最近かさかさと乾燥してきている。
「冷たい」
己の手をごしごしと擦り、三歩は中央アルプスを眺めた。
麻生家は去年の冬、三歩が一年生の冬に、静岡県富士宮市からこの長野県松本市に引っ越してきた。
長野は寒かった。
とにかく寒かった。
気温のせいも多分にあるが、三歩は向こうで仲良くしていた心ちゃんと卯月ちゃんと離れたせいで、体の内側まで寒かった。まるで、ぽっかりと穴が空いたように寒かった。そこに、長野の厳しい冬の寒風が吹き込んでいるみたいで、三歩の孤独感はより増した。
こっちの小学校に入学してからはや一ヶ月が経過しようとしている。
友だちは未だできていない。
自己紹介。緊張してどもったせいもあるだろう。少し笑われたことが、三歩の中ですごくすーごく引っ掛かっていた。それは授業中も休み時間も尾を引いていて、先生の質問にもまともに返事が出来なかったし、「どこから来たの?」「一緒に遊ぶ?」という同級生からの質問にも「あ」とか「えっと」とか言うばかりで、最後には「ごめんなさい」と自ら塞ぎ込み、背中を丸めてしまったほどだ。
前の小学校では学校から帰って来るなり、家にランドセルを放り出して、近所の心ちゃんと卯月ちゃんと夕方遅くまで遊んでいて、度々母を心配させたものだけれど、それも今じゃなくなってしまった。
そんな三歩を、母を始め、家族たちは心配しているようだった。が、いまいち三歩にはその心配がピンと来ていない。何をお母さんもお父さんもお姉ちゃんもお兄ちゃんもそんなに言ってくるんだろう? くらいにしか捉えていない。
「友達できた?」
「学校は大丈夫?」
と、訊かれる度、「できてない」「だいじょうぶ」としか返せなかった。
心の中で、心の奥底で、たぶんこれじゃあいけないのかな、と思ってはいるのだが、それを言葉にするとなると、こんがらがってしまう。
ただ、胸の辺りがきゅっとなったような気はするけれど、結局その原因も事象も変化も問題も、全部が全部、自分でもよく分からないでいるから、とりあえず「だいじょうぶ」とだけ答えとく。
そうすると、お母さんは笑ってくれるからたぶんそれでいいのだ。
暇な時間が増えた三歩だが、生来の好奇心はべつになくなったわけじゃなかった。
その止まぬ好奇心は、新たな家での好きな場所探しというところに一旦落ち着いた。外は寒いのもあったし、一緒に付き合ってくれるような友達もいなかった。
向こうでも、心ちゃん卯月ちゃんが必死で止めるのに、三歩は率先して山に分け入り、川に飛び込んでいたのだ。ありとあらゆる人から怒られていたけれど、心ちゃんも卯月ちゃんも最後の方には、それはそれはもう楽しそうに笑っていた。
ふと、スカートのポケットに手を伸ばす。
そこには、こちらに来る前に買い与えてもらった薄いピンク色のキッズケータイがあった。吹き込んで来る風に脚を擦り合わせながら、取り出し中身を見てみる。
写真フォルダ。
三歩を真ん中にして、右に心ちゃん、左に卯月ちゃんが三人並んでピースして映っていた。撮ってもらったのはお姉ちゃん。背景は向こうの家の前だった。次。自分と卯月ちゃんが並んでゲームしているところ。二人ともゲームにのめり込み過ぎて変な顔をしている。撮ったのは心ちゃん。次。Tシャツ姿でびしょ濡れになっている三人が河原で石を濡らして座っている。この時撮ったのは誰だったか。
瞳にじんわりと涙が浮かんできた。
ごしごしと擦る。
まだ出てもいないから、手はかさかさ乾いたまま。
視線を上げる。
――中央アルプス。
お父さんが、あれは中央アルプスだと言っていた。
この狭い空間であの大きな山々を見ていると、何故だかすごく心が落ち着いた。山々はほとんど真っ白で、下の青い部分はこの便所からだと見えなかった。
ほう、と吐く息は、山と同じ色をしている。あまり連続で吐き過ぎると、吐く息は透明度が増して、山に積もった雪と色合いが違ってくる。溜めてから吐かないといけないのだ。コツがいった。
土曜日、学校はお休み。
心ちゃんと卯月ちゃんはなにをやっているかな。わたしがいなくなった後に二人で川や山に行くことはあるんだろうか。次の長い休みであるゴールデンウィークには、またお父さんとお母さんが向こうに連れてってくれるはずだ。おばあちゃんとおじいちゃんに会いに行くのだ。その時にならまた会えるだろうと、お母さんは言っていた。車の中で。
心ちゃんと卯月ちゃんの連絡先は知らない。家がお隣さん同士だったため、必要なかった。
二人ともまだケータイ電話を買い与えてもらっておらず、何かに付けては写真に残そうとケータイを取り出す三歩を少し羨ましそうにしていた。
こんなことなら、と思う。もう少し成長して、ケータイを持っても問題ないくらいの年齢になって、それから別れたのなら、いつでも連絡出来たのに。
でも。だいじょうぶ。
もう少しがまん。
「ふーっ」
吐く息は少し濁っているように見える。
まだまだ練習が必要だった。
「でも。長いなあ」
小さな窓から見える大きな山の連なりは、今日も変わらずそこにある。近くにあるようでいて、
とても、遠い。
いつまでも変わらないであることが、何故だか三歩を酷く安心させる。
冬の澄み切った深い青の空と、白い雪山の稜線。コントラストがびっくりするくらいに美しい。心を奪われ、いつまでも見ていられる。
体は冷え切っていたけれど――。
代わりに、お尻だけは温かい。
便座温度MAX。時々、あっつくなり過ぎないように、手元でスイッチを調整しながらも、三歩はいつまでも便所で中央アルプスを眺めていた。
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