夜を待つ

@ai-navy

第1話 考えても意味のないこと

『A4用紙を補充してください』

 複合機のディスプレイに表示されたメッセージにため息を吐く。複合機の横に置かれている段ボール箱の中から新しいコピー用紙を取り出す。

 鈍い音を立てながら、包装紙を引き裂いた。


 「あ、コピー用紙補充してくれたんだ。さっきコピーしようとしたら切れてたんだけど補充する余裕なくてさあ、ありがとね」

 複合機のすぐそばの席で作業をしていた男性社員が、ゆったりとした動作でコーヒーをあおりながら話しかけてくる。いいえ、と軽く受け流したつもりだったが、その声には諦めのようなものが滲んでいたかも知れない。思うような反応が得られなかったのか、男性は軽く眉をひそめ作業に戻る。背中越しに小さいため息が聞こえて、わたしも思わず二度目のため息を吐く。

このところ毎日、多いときは一日に三度四度と先ほどのメッセージを目にしている。わたしが複合機を利用しようと思うとこのメッセージが表示されていることも多い。そんなことは大したことではないだろうと自分でも思うが、メッセージを見る度、わたしの中の何かがすり減っていくような気持ちになる。

 派遣社員としてこの会社に勤めているわたしの業務は事務全般ということになっている。言われた資料をコピーして、言われたとおりにデータを入力して、言われたとおりに会議室の椅子と机を並べる。お茶を汲んでゴミを捨ててコピー用紙を補充する。業務の量と内容に多少の差こそあれど、毎日概ね同じことを繰り返している。

仕事が終われば近所のスーパーで買い物をして帰宅する。夕食と入浴を簡単に済ませたら布団に入ってネット記事をいくつか斜め読みして部屋の電気を消す。

 日々の生活について具体的な不満を抱いているわけではない。けれど時々、酷く冷静な頭で、空虚だな、と思ってしまう。

 仕事にやりがいを感じているわけでもなければ趣味や生き甲斐もない。休日に待ち合わせて会うような友人もいなければ恋人ができる気配もない。それらがなければ人生に意味がないだなんて全く思わないし、それらを殊更に欲しているわけでもない。けれどこの空虚な日々が死ぬまで続くのかと思うと、出口の見えないトンネルの中を歩いているような気分になる。


 学生時代、卒業後の進路について真剣に考えなければならないような時期になっても、自分が何をしたいのかは判然としなかった。少なくとも大学院に進むような意欲も経済的余裕もなかったため、必然的に就職をするという道を選択した。具体的に企業の話を聞けば何か変わるかもしれないと期待して合同企業説明会等に参加したが、自分には務まる仕事などないのではないかという不安だけが膨らんでいった。熱心にメモを取り我先にと質問をする周囲の学生の様子は、励みになるどころか却ってわたしの申し訳程度の自信さえも喪失させてしまった。

しかし何とかして内定を得なければという焦りから、手当たり次第に新卒枠の採用試験を受けた。食品メーカー、出版業界、広告代理店。毎日毎日どこかで聞いたような志望動機と思ってもいない自己PRをエントリーシートに書き付け、本当に志望しているのかもわからない企業に送りつけた。そのほとんどは書類選考で不合格となった。運良く面接までこぎ着けても、やはりどこかで聞いたような受け答えしかできず、途中から面接官はわたし以外の採用応募者にばかり質問をしていた。不採用の連絡すら来なかった。不採用となった企業の数が増える度に落ち込みはしたが、心のどこかではやっぱりという思いがあった。

 一社だけ、最終面接まで進みそうだった会社があった。

 一次試験の集団面接はいつも通り、終始典型的な受け答えとなった。隣に座っていた男子学生は緊張を滲ませながらも、自分がいかにこの企業の発展に貢献していきたいかということを熱く語り、この企業の輝かしい業績を入念に調べてきたことを面接官にアピールしていた。彼が最終面接に進むであろうことはわたしにでも予想がついたし、わたしが不採用となることは明白だった。

 その日の夜、面接を受けた企業からメールが届いた。不採用の場合もメールをくれるのかと思いながら内容を確認すると、面接官のひとりだった男性社員からだった。今日の面接だけでは充分な話ができなかったので食事をしながらでもゆっくり話さないか、というものだった。採用担当者から連絡をもらえた喜びよりも、戸惑いと得体の知れない不安感がどんよりと胸に垂れ込めた。けれどまだ一つも内定を得ていないという焦りから、その面接官と会うことを承諾した。

 翌日の夜、男性社員が指定した居酒屋へ行くと、店員に案内された個室で男性社員が待っていた。男性はわたしを見るとわたしの頭から爪先までを商品を点検するようにじっくりとながめた後、少し黄ばんだ歯を見せながらわたしに席に着くよう笑いかけた。

「スーツで着たんだねえ。今日はちゃんとした面接じゃないから、私服でも良かったんだけどなあ。スーツだと普段の感じがわかんないしねえ。普段は浅生ちゃんはどんな服着てるの。写真とかあったら見せてよ。最近の若い子は自分で自分の写真とか撮るのが普通なんだろう」

男性の、糸のように細いままの目から放たれる視線が、間延びした言葉と共にねっとりと身体にまとわりついた。引きつった笑みを浮かべながら曖昧な返事をすることしかできない。酒は苦手だからと断ったが、一杯くらい良いだろうと強引に押し切られ、仕方なくチューハイを頼んだ。酔いが回らないように気をつけていたが、目の前の男性の言葉一つ一つが胃にたまっていって、次第に気分が悪くなっていった。男性社員は終始、彼氏の有無やこれまでの恋愛など、明らかに採用とは無関係な質問ばかりをしてきた。それらの言葉に対して何と答えたかは今となっては良く思い出せない。

帰宅してからスマートフォンで就活セクハラと検索してみると、実に様々な経験談がヒットした。採用担当者に食事に誘われるケースはどのサイトにも紹介されていたし、中には性的な関係を迫られたという記事も掲載されていた。就活セクハラという言葉は無論知っていたが、まさか自分が当事者になるとはこの時まで思ってもみなかった。

その後も何度か、食事に来れば内定を出してやるというメールや電話が男性社員からあった。刺激しないように控えめに断ると、自分の立場がわかっているのか、どうせどこにも内定もらえていないんだろう、とわたしをなじってくるようになった。そのうちわたしは着信音を耳にするのも嫌になり、男性社員の連絡先を着信拒否に設定した。一次面接合格の連絡はもちろん来なかった。

 大学四年生の夏が終わり、同期が卒業論文や卒業前の思い出作りに精を出し始めても、相変わらずわたしは内定を一つも得られていなかった。新卒の求人情報も次第に減っていき、もはや気力のなくなっていたわたしは派遣会社に登録し、就職活動に区切りを付けることにした。

 大学卒業後、派遣社員として働きながら正社員への転職を試みたこともあったが、日々の仕事に忙殺されるうちに諦めてしまった。


 今までの派遣先の中には、酷い環境の職場もあった。正社員と同じ業務の量と質を深夜まで残業を強要する会社は、さすがに身体が持たず派遣会社に相談して半年足らずで辞めてしまった。派遣社員を見下したような態度を取る正社員というのはどこに行っても存在したが、中には会社全体としてそういう態度を取っても良いという認識が暗黙のうちに共有されている職場もあった。

 そういった職場に比べると今の職場は比較的良い環境だと思う。大きな声を出すような社員は少ないし、残業もそれほど多くない。正社員と派遣社員の業務が明確に区別されているのもかえってやりやすかった。

もちろん良い点ばかりというわけではない。例えば、コピー用紙の補充やポットのお湯を入れ替えることなど、要するに「気づいた人がやる」ということになっている雑用は暗黙のうちに派遣社員がやることになっている。

 しかしそういう不満はどこに行ってもつきまとうし、たとえ正社員であったとしても何の不満もない職場など存在しないだろう。

 きっとこの先も、わたしは今と変わらない人生を歩んでいくのだろうと、漠然と思う。表に出されることのない不満と自分の人生に対する諦観とが、澱のように腹の中にたまっていくのを、他人事のように感じながら生きていくのだろう。

 けれど時折頭の片隅に思い起こされることがある。あの時、あの面接官のセクハラを耐え抜いていたら、どうなっていたのだろう。内定がもらえて、正社員として働けて、やりがいのある仕事をしていたのだろうか。面接官から何を言われてもにこにこと受け流すのが賢いやり方だったのだろうか。

こんな事を考えても意味がないことはわかっている。けれど、選ばなかった未来がどうしても頭の中から消えてくれない。


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